「上野千鶴子が好きなタイプの東大女子か。俺は嫌い」沈黙しないでいること、水滴からコップ満杯の水へ
「いかにも扱いづらい東大女子だな」
私の友人に起きた話だ。
友人は東京大学(以下:東大)に通う女性で、同大学のダンスサークルに所属している。
そのサークルの飲み会で、同じく東大に通う男性(以下:Aくん)が、自分の彼女に「ご飯を作ってあげたい」という話を始めた。Aくんは友人に「彼氏が作っても彼女に恥をかかせない無難な料理」は何か聞いてきたのである。
この質問の裏には、
①「基本的に料理は女性が作るもの、女性は料理上手であるべき」
という料理においてのジェンダー規範
②「彼氏である自分の方が料理が上手いと、彼女に恥をかかせてしまう」
という配慮
の2つがあるのではないだろうか。それ故に「彼氏である自分が作っても、彼女に恥をかかせないちょうどいい無難な料理」という質問が出てきたのだ。Aくんに悪意はなかったとしても、無意識に「料理=女性」の公式を当てはめてしまっている。
「女子は男子より料理が得意であるべき」という発言に少し引っかかりを覚えた友人は、ジェンダーという観点から感じた違和感を伝えるとともに、彼氏の方が料理が得意でも問題はない、なんでも好きなものを作ればいいのでは、と答えた。
するとAくんは衝撃の一言を放った。
「別にジェンダー的な問題のつもりじゃないのに、いちいち指摘するなんて、上野千鶴子と同じだな。いかにも東大女子って感じ、俺は上野千鶴子が好きじゃない」
友人が受けたこの発言からは、Aくんが「料理=女性」の公式を無意識に乱用しているだけでなく、「東大女子=扱いづらい、めんどくさい」というニュアンスも含まれている。
Meta Platformsの最高執行責任者でLeanIn.Orgの創立者、シェリル・サンドバーグ氏(以下:サンドバーグ氏)は、その著書”Lean In”やTED Talks”Why we have too few women leaders(邦題:何故女性のリーダーは少ないのか)”の中で、自身の米国での生活を踏まえて「優秀さと好感度は、男性の場合、正の相関関係があるのに対して、女性の場合、負の相関関係がある」と述べている。つまり、女性の場合、優秀であればあるほど、嫌われやすいという主張をしているのだ。
世界の主要大学と比較して、東京大学は圧倒的に女子生徒比率が少ない。米国のトップ校であるスタンフォード大学やプリンストン大学では男女比が約半々なのに対して、東京大学における女子学生の割合は、2021年時点では、24.2%である。
サンドバーグ氏が上のように述べたのは、自身の米国での生活を踏まえてのことである。サンドバーグ氏が生活する米国よりも「高学歴な女性」の割合が低い日本において、「高学歴な女性」が感じる社会的圧力は、サンドバーグ氏が感じる圧力以上かもしれない。「高学歴・優秀でいること」と「女性でいること」を共存させることは、非常に難しい。女性はそこまで優秀である必要がない、とのメッセージを無意識のうちに受けているのではないだろうか。
その場にいた「東大女子」は友人だけで、無意識に放たれた「東大女子」という言葉に委縮してしまったのか、それ以降は毅然と言い返せなかったという。
「家庭的な女子が好まれやすい」「高学歴女子は扱いづらい」
いつの時代だろうかと首をかしげたくなるような滑稽なステレオタイプは、依然として存在し、女性を未だに押さえつけている。
女子はドレス、男子はスーツ
また別の日。その友人と私が所属している別のサークルで、上級生メンバーの卒業を祝うパーティーのお知らせが回ってきた。サークルの下級生が企画してくれたもので、結婚式場を借りた豪華な企画だった。
案内のメールには、
「服装:セミフォーマル。(女子はドレス、男子はスーツ)」という文面と共に
ドレスを着た女性の写真と男性のスーツ姿の写真が載せられていた。
ここにも友人は違和感を覚えたそうだ。どうして、女子はドレス、男子はスーツなのだろうか。女子は、パンツスタイルではダメなのか。男子が、スカートを履いていたらおかしいのだろうか。
このような安直な二分法は、無意識のうちに差別に繋がる。
以前の友人なら、このメッセージに反論したかもしれない。
しかし、今回は彼女はなにも反応せずに、違和感を感じたと話すまでに留めていた。
沈黙のらせん
もしかしたら友人は違和感を感じたことに真っ向から挑むよりも、我慢して波風立てない方法を選ぶようになったのかもしれない。その案内を作成した後輩におそらく悪気は全くない。それを汲んで、ことを荒らげないようにすることは、賢明な判断だったかもしれない。
しかし、どうしても「沈黙させられた」ように感じてしまう。
未だに女子生徒がマイノリティーとなる東大で、自分の主張を続けることは私の想像を絶するくらい難しいことだろう。
ただ、マイノリティの意見が沈静化されるような状況が続くことは非常に危険なことだ。
ドイツの世論研究者であるノエル・ノイマン氏女史は、1972年に「沈黙の螺旋理論(らせんりろん)」を提唱している。これは、人は普通、集団や社会の中で孤立したり、村八分にされたりすることを恐れるため、周囲の人々の意見を気にして行動することを前提としている。
そのため、自分の意見が少数派だと感じた時に、人は沈黙することを選ぶ。沈黙を選択した少数派の意見は、らせんを描くように暗闇に葬られて、より一層、少数派の意見になってしまうのである。
この理論を勉強した時、東大に通う友人のことを思い出さずにはいられなかった。
違和感を覚えたその場で友人は声を上げなかった。それでも、周囲の人に彼女が感じた違和感を伝えてくれている。この一歩が大きな違いを生み出す。
アクティビズムを行っている別の友人に、「コップ満杯の水」の話を聞いた。これは、人の考えは一朝一夕に変えられるものではないが、少しずつ少しずつコップに水滴が溜まっていっていつか溢れるように、知識が蓄積されてある日、人の行動を変えられるとする考えである。
友人が、周囲の人に違和感を伝えてくれたことは、コップに水滴を溜めていくような些細な、でもいつか大きな変化につながる第一歩である。
友人が、その違和感を留めずに周囲に伝えてくれたことに感謝したい。
少しでもいいから、誰かに自分の感じた違和感を伝えていくこと。
他の人が感じた違和感をまた別の人に共有していくこと。
そうしたら、いつかはコップの水が溢れる時が来るはずだ。
執筆者:清水和華子/Wakako Shimizu
編集者:原野百々恵/Momoe Harano、三井滉大/Kodai Mitsui