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脱毛?女性に対する「美の呪縛」
/違和感ポイント/
中国から日本に来た18歳の年、日本の女子高生のすねや腕に「毛」が全くないことに気がついた。電車に溢れる脱毛を促す広告ーー。その光景は、毛深い自分への自己否定的な感情の一因となっていった。「美」は誰によって定義されているのだろうか?
脱毛した女こそ「女らしい」
18歳になった年、大学留学のために中国から日本に来た。日本語学校までの報復時間は小田急線で約二時間。電車に揺られながら車内の広告にふと目がいく。
女性の水着写真や、顔の拡大写真に目がいく。
「健康的な小麦色の肌」「磨かれた玉のような肌」
写真の横には、女性の肌がどれだけ「綺麗」なのかを強調する広告文が添えられていた。
しかし、どの「綺麗な」女性にも共通して言えることは、女性の肌に「毛」がないことだった。
電車に乗ってくる多くの女子高生のすねや腕も、毛が全くなくツルツルとしていた。
「日本人の女の子はみんな、体毛が薄いのかな...?」と思うくらい不思議な光景だった。
その光景は電車に溢れる脱毛を促す広告と合わさり、毛深い自分に対する自己否定的な感情の一因となった。
18歳という年は、中国では成人の年である。「少女」と「大人としての女」との境界線にいた私の自己認識は、周りの環境に影響され、ゆられたり変わったりしていた。以前は全然気にしていなかったすね毛、腕の毛は、いつのまにか全部「女」になるため捨てられるべきものになってしまったように感じた。
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体毛に対する認識の変化
とはいえ、脱毛の歴史は短くない。いや、むしろ父権社会(家族や一族内での権威や全体社会での政治権力が男性の手中にあるような社会体制)が始まる前にもう既に存在したと言われている。
石器時代の人々は自発的に脱毛の行為をした。しかし、今のような「ムダ毛」ではなく、髪の毛を切っていた。その理由は審美眼(美を見わけることのできる眼力)や社会的な人の理想像とはまったく関係ない。戦争で敵に髪を摑まれることを避けるためだ。
「体毛が恥ずかしい」という価値観は、古代エジプトの時代から広がっていた。そして古代ギリシャにおいては、「人間の美しい肉体に出会ったら、かつて魂が観た美のイデアを想起する」という美学的主張があり、「理想的な人間美=いわゆる外面的な身体美」が追求されていた。
その表現に、後世の「美」の規範となった古代ギリシャ彫刻がある。それらの彫刻を見ればわかるように、当時の人々にとって、美しい肉体は毛がないことだった。
しかし、このような歴史的経緯があったとしても、古代の脱毛は必ずしも「女性限定」だったわけではない。脱毛するかどうかを影響する条件として、性別よりむしろ階級の方が人の考えを大きく左右したという。
16世紀頃から、脱毛は女性たちの身体を表す自由に関わってくるようになった。ルネサンスが始まり、資本主義が萌芽した頃、女性は自分の身体をコントロールするために戦うようになった。
前述したように、古代ギリシャからの何千年にもわたる「伝統」によると、肌を露出する場合は必ず毛を処理しなければならない。そうしないと野蛮だと思われるからだ。
しかし16世紀の女性にとって、脱毛の不便さは自分の肌を露出する自由さに比べれば大したことではなかった。女性が露出する部位が増えるに従い、脱毛の必要性も広がっていった。
つまり、女性が自分の体毛を処理することはある種の「抗争」であり、現在の社会における「ムダ毛はいっさい許さない電車スペース」のような暗黙の了解は元々なかった。
女性の体の在り方は誰が決める?
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私の生まれ育った中国の例をあげよう。
儒教の思想が深く根付いた古代中国社会では、「体の毛と肌は親から受けた」という考えが強かった。そのため、自分の髪を切ったり肌を傷つけたりすることは、親への不尊敬だと見なされていた。
中国において、人々が体毛に対する恥を感じるようになり始めたのも、近年からだ。
21世紀における「体毛の恥」の源流となったのは、1915年に掲載されたHarper’s Bazzarの広告だと言っても良いだろう。
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ノースリーブのドレスが流行っていた当時、その広告はローカットノースリーブのイブニングドレスを着て、両腕を上げ毛のない脇の下を見せる女性のモデルを宣伝し、「おしゃれな女性は、脇の下も顔のようにつるつるでなければならない」というキャプションを付けた。
女性の脱毛風潮が高まり、わき毛は下品で男性的で恥ずべきものとして見なされていった。この「美意識」は、時代を経て世界的に広がってきたと言われる。
観念の形成には歴史の積み重ねが必要だし、美は誰でも追求できる。
しかし、「理想的な身体(美)」は誰によって定義されるのか。
脇毛を剃ることは自由のシンボルと見なされた時期もあり、逆に自由を妨害する行為と扱われた時期もある。
異なる時代、異なる社会背景によって、人々は「脱毛」に異なる意味を付けたり解釈したりする。真理には権力が伴うことに気付いたら、我々の身体の解釈権は自分の中にあるかどうかも再考しなければならない。
私は、脱毛したくない。
参考文献
・体毛処理の歴史から考える、女性らしさとフェミニズム。
・History of women's body hair removal
・The Politics of Not Shaving in this Patriarchal Dystopia
執筆者:安婕妤/An Shouyo。出身地は中国杭州市。早稲田大学文学部に所属し、東アジア諸国のジェンダー問題に関心を持つ。とりわけ宗教(東洋哲学)や芸術などの文化がジェンダー問題にもたらす影響に関心を持つ。
編集者:原野百々恵/Momoe Harano