ノンセクシュアルだとか。セックスできなくても好きでいていいですか?
「恋バナ」は好きだけど「下ネタ」は苦手
私は性的な話をされることが苦手だ。たぶん小学生の高学年のころからあまり良い印象を持つことはなかった気がする。そうした話題を振られた時、今でもたまにあからさまに顔をしかめてしまうことがあるが、それなりにかわす力や笑ってやり過ごす力をつけてきたように思う。ちなみに恋バナは好きで、恋リア(恋愛リアリティ番組)を見ては「彼氏ほしいー」と言っている、そんな高校時代を過ごしていた。
いわゆる「下ネタ」を通じて仲良くなるシーンを見ることはよくある。大学生になってからそうした話題があがることも増えた。ただちょっとモヤっとするだけで、何か支障があるわけではなかった。
そして、気になっていた人に告白された。人としても尊敬できて、凸凹がぴったりはまるように感じられる人だった。
「付き合って3ヶ月じゃん!そろそろ誘われるんじゃない?」「付き合って半年、それは相手、相当我慢してるよ。絶対気持ちいいから!」と周りから言われた。私は自らセックスをしたいと思うことはなかったし、自分に性欲を向けてきた男性に対してのトラウマがあり、気が進まなかった。
どこからか生まれた焦りと好奇心と、トラウマを克服したいという気持ちから、初めてのセックスをしようと話して決めた。行為中に話される言葉は性的な表現が苦手な私にとっては辛かったけど、普段そうした発言を抑えているのが伝わってきたし、たくさん気遣ってくれる彼の優しさと愛が感じられる素敵な時間だった。でも旅行から帰った私はその行為を思い出しては吐いていた。
大好きなのに、相手は何も悪くないのに。そのことが自分を苦しめた。楽しく話せなくなってしまった自分を恨んだ。もうそこから自分でも訳が分からないぐらいに狂っていった。梅雨の季節の通学列車の車内。いつも私の目にも水滴がついていた。どうすればいいか分からなくて、いわゆる「メンヘラ」的なことをして彼を苦しめていた。
そんな日々を過ごしていて、「もう冷めた」と言われたのが悲しくてまたセックスをした。それで気持ちが戻ってきた彼を見るのが本当に辛かった。「好かれる」ことに「性的欲求」の対象であることが含まれているのは頭では分かっていたが、ただただ傷ついていた。
そうやって私の夏は終わった。
秋になり私を気になっていると伝えてきた人がいた。自分の事情を伝えると「ワケアリなんだね」と言われ、私たちは友達になった。別に好きじゃなかったからいいけど。
ノンセクシュアルかもしれないし、そうじゃないかもしれないし、そう名乗りたくないかもしれない
ここまで読んでノンセクシュアルなのではないか?と思った方もいるだろう。
今のところの答えは「自分でも分からない」ということだ。むしろ、私はノンセクシュアルなんでしょうかと聞きたい、そんな気分だ。
ノンセクシュアルとは、「恋愛感情はあるけど、性的な欲求はない」セクシャリティのことを指す「ロマンティック・アセクシャル」の日本語特有の表現だそうだ。
一口にノンセクシュアルと言っても、手を繋いだり、キスをしたり、セックスをしたり、人によって交際相手とできること・できないことの線引きは異なる。
正直なところ、「ノンセクシュアル」だと認めたくないという気持ちも少しある。
それは「性的な欲求がない」と言い切れるのかも分からないし、トラウマで気持ち悪くなっているだけなのかもしれないと思うからだ。自分の今感じていることは女子校で育ってきたことや親が性的な話をしない家庭で育ってきたことなど環境の影響も大きいと思う。
「男性と2人きりになるのが怖い」「キスを実際するには無理かも」と思っていた時から今の私は成長したように感じられる。他の人から見て、それは怖いという感情に蓋をしているのじゃない?と聞かれたらそうなのかもしれないけど、何か克服できるようなものの気がするときもあるのだ。
そして、「ノンセクシュアル」であると認めることは恋愛の相手を狭めること、そして「ノンセクシュアル」を打ち明けることは多くの人の恋愛対象から外れること、「変わった存在」であると思われることに怖さを感じられてしまう自分がどこかにいるからだと思う。
きっと私はノンセクシュアルと名乗ることはないのだろう。
恋愛感情と性的欲求がまとめて語られる社会は生きづらい。
私はきっと幸せで…
たまに凹むこともあるけれど、友達に恵まれているし、やりたいこともできているし、推しはいつでもかっこいいし、私は幸せだと思う。
もしセックスで気持ち悪くなるなんてことがなければ、大好きだったあの人と一緒にいられたんじゃないかと思ってしまう、そんな夜をのぞいて。
【執筆後記】なぜYomcottで、仮名で記事を書くのか
なぜ今回、仮名で記事を書くことに決めたのか。個人的な内容を多分に含んでいることに加え、自分のセクシュアリティについて、恋愛や性的なことについて悩んでいるときの自分は普段の自分とはどこか違う人格のような感覚があるからだ。
私はYomcottに所属しているものの、時に居心地の悪さを感じる。それはこのメディアがギスギスしているということを意味しているわけではない。
Yomcottの読者の方なら分かるかもしれないが、フェミニズムやLGBTQに関する記事が多く、そうした属性を持った人々が置かれる現状に声をあげるメンバーも多い。私はそのように声をあげるメンバーをとても尊敬しているし、現状に対して彼らほど怒りを持てない自分に対して不甲斐なさを感じることもあった。
でもYomcottは女性やLGBTQの置かれている現状に対して問題意識を持った人のためだけのメディアではない。『個人の「違和感」や「生きづらさ」と社会問題の繋がりを発信していく。』ことをミッションに掲げたメディアだ。
効率をある程度重視する場所で生きる時、それぞれの感覚を大切にしていくことは難しいことも痛感する。しかし、せめてYomcottの記事を読んでいる時だけは自分の生きづらさ、他人の生きづらさに目を向けてもらえたらいいなと思う。
「共感」だけではなくて「そう感じている人もいるんだ」と知り、違いに寛容になれる記事を届けられることを願っている。
執筆者:涼爽/Suzushisou(Yomcottライター。大学生。)
編集者:河辺泰知/Kawabe Taichi、清野紗奈/Kiyono Sana