第1回【あなたに奇跡を起こすやさしい100の方法】私を救った表紙カバーの裏の一節
人生で悩んだ時、苦しかったとき、大きな失敗をしたとき、どうにもならないほどつらくてたまらないときに、読んだ本のなかの言葉で救われたことはありませんか?
本を読みながら知らないうちに涙が出てたまらなかったり、心が震えて「あぁ、こういうことだったのか・・・」と腑に落ちたり、そのような本に出会ったことはありませんか?
そしてそれ以来、その本を、なにかあるたびに何度も読み返したり、常に自分の身近なところに置いておきいつもパラパラとページをめくっているということもあるでしょう。
自分の人生を変えるきっかけとなったり、自分の生き方の指針にしているというような、人生に大きく関わる本のことを、その人にとっての「座右の書」と言います。
よく成功者と言われる方々が、「自分の座右の書はこれです」と紹介する本はもっと哲学的なものが多いのかもしれません。
ですが私のような一般人でも、人生を変えてくれた、大きな影響を与えてもらえた本というものがあります。
今回は、私が離婚してすべてを失って、実家のある田舎に戻って精神的にどん底状態のときに、たまたま手にして読んだ本を紹介します。
私はその本に助けられました。
もう、死にたいなんて思いながら意味なく生きる人生は、これで終わりにしよう。
もう、過去の私は死んだのだ、これから新しい私に生まれ変わるのだ。
そうしなければ生きていけない、そう思った衝撃の本でした。
もう一度立ち上がろう、前を向こうと思えた、いや、そう思わなければ立ち上がれない、と心から納得できた本だったのです。
それが『あなたに奇跡を起こすやさしい100の方法』という本でした。
常識にとらわれた「人と同じ」人生を生きた20代
まずは私の結婚から離婚までをざっくりと話します。その当時の世間一般の常識が、今とはまったく違うことに、若い方なら驚くでしょうし、アラフィフ世代ならうなづいてくださるでしょう。
私は田舎で高校を卒業後、大学進学のために関西に行きました。
当時はまだまだ女性は4年制大学に進学するより短大のほうがお嫁に行きやすいと言われる時代です。
私は勉強だけはそこそこできたので短大に行くのは嫌で、どうしても4年制大学に行きたくて奨学金をいただき、家庭教師のアルバイトなどをしながら4年制大学に通いました。
卒業後、大阪でIT系の会社に入社し楽しい20代を過ごしました。
バブルの頃でしたし、当時の女性は卒業後にどこかに就職し、そこで適齢期(今では死語ですが)のころに結婚し、結婚退職するか、または第一子の妊娠までくらいは働き、妊娠がわかったら「おめでた退職」して、出産の準備をするのがふつう、という時代でした。
なので私は、まったく何も考えず疑問にも思わず、入社した会社でお付き合いした男性と「社内結婚」しました。
私と同期入社の女性の半数以上が、相手が社内の男性で「社内結婚」でした。
もちろん私の結婚年齢も26歳で、いわゆる適齢期でした。
結婚年齢も、短大卒の女性なら23~25歳、大卒女性なら25~27歳くらいがふつうでした。
なぜなら、「女の子のお勤めは3~4年間くらい、そして結婚、30歳までには第1子を妊娠しないと、マルコウと言って「高齢出産」と言われてしまう時代だったからです。
だから、私も人と同じころにおなじような「社内結婚」できて良かったと思い、30歳で妊娠・出産できて、人と同じで良かったと思いました。
「人と同じ」が良いというこの価値観、今振り返ると、本当におかしな話です。
皆が皆、同じように大学を出て同じようにまあまあ大手の会社に入り、そこで自分と同じような環境の相手の男性と付きあい、適齢期になったから結婚する。
そして退職して「専業主婦」になり、30歳までを目安に子どもを産めば、それがいわゆる世間の常識で、女性としてはそれが幸せな人生なのだと、まったく信じて疑いませんでした。
でも、私だけが能天気で愚かだったわけではありません。
私よりちょっと上の世代の女性は、4年制大学ですらよほど賢いのでなければ行くものではなく、短大で「花嫁修業」をするほうが良いお家柄のところにお嫁に行ける、という、信じられない考え方が多くの日本人の価値観だったのです。
とくに地方では「女の子に高学歴をつけてしまうと嫁の貰い手がなくなる」「短大卒あたりがちょうどよく、その分のお金は嫁入り道具にかける」と平然と言われたものでした。
「人と同じ」人生にすがりついて自分を見失った30代の末路
1990年代の初めころにバブルが崩壊しても、本当に大変な不況はすぐにはやって来ず、だんだん不景気がひどくなり、後に「失われた20年」と言われる時代になったのは、1993年か1994年頃以降だと思います。
「子どもを産んで専業主婦のままでずっと安定した生活を送る、子どもが手がかからなくなった頃に、既婚女性はパートで家計の足しと自分のお小遣い程度に仕事をするのが家族のためにも良い」と長く思われてきた日本社会だったのが、1990年代中頃には不景気が蔓延し、日本のそれまでの価値観が吹っ飛んでいきました。
銀行や証券会社がどんどんつぶれていったのです。
男性も、新卒雇用で定年まで安泰とか年功序列とか言っていた制度が、だんだん崩れていき、「リストラ」という言葉が一般的になった時代です。
当時の夫の勤務先も状況が悪化し転職を余儀なくされました。
その後、夫の単身赴任もあり、経済的な問題、嫁姑問題などいくつかの原因が重なり、不仲になり、私の結婚生活は破綻しました。
私は結婚生活を10数年送っていましたが、39歳のとき離婚しました。
私たち夫婦には当時、子どもが小学校低学年の男の子ひとりいました。
【あなたに奇跡を起こすやさしい100の方法】との出会い
離婚のとき、夫とその両親は、跡取りであるその小学校低学年の息子を譲りませんでした。
当時、一度家庭に入った女性が何年かしてから得られる仕事はパート程度しかなく、保育制度も病児保育制度もまだまだ充分ではありませんでした。
社会一般の価値観としても、「既婚子持ち女性が働くのは、子どもが学校から帰ってくる時間くらいまでのパートで夫の扶養家族の範囲内で」という認識がまだまだ変わらない。
今とは比較にならないくらい、一度家庭に入ってしまった女性がまともに働ける環境になく、そこに「失われた20年」のど真ん中で、新卒の若い人たちでさえ職がなくて「超氷河期世代」を生み出してしまった大変な時代でした。
39歳の元パート主婦の私が、いったいどうやって子どもを育ててられる満足な収入をすぐに得られるでしょう?
しかも、私は地方出身者だから、大阪に誰一人として身内はいませんでした。
子どもを抱えて誰も助けてもらえる身内も近くにいないでパート収入の貧乏暮らしをするくらいなら、夫には両親もそろっていて家もちゃんとあり、男だから満足な収入があるし、そのほうが息子の男としての将来を考えるならば、夫側に引き取ってもらうほうが良いに違いない、と安易にも思ってしまいました。
夫側家族も、一人息子に、かならず充分な教育をしてくれる、大学まで絶対に出させる、と約束してくれました。
そして、別れても母親なのだから、たまに会えるから心配ないと約束してくれたのです。
私は安心して一人息子を夫側に引き取ってもらいました。
ですが私はその後、一人息子に会うことができないまま、10数年という長い歳月を過ごすことになりました。
息子に会わせてくれるという約束は、その後すぐに果たされなくなってしまったのです。
離婚によって生じる様々な問題、「養育費」「子供への面会の権利」「母子家庭の貧困」などについては、私の経験から感じることも多く、また別のブログでお話したいと思います。
あのとき、なんてことを迂闊にしてしまったのかと、後悔して後悔して、自分を許せず、自分の愚かさ、弱さを呪いました。
取り返しのつかないことをしてしまった自分なんて、生きている価値がない。
死んだほうがマシだと思い詰めたりしましたが、愚かで勇気もない私は、包丁を取り出してみても、淀川の河川敷に行ってみても、実際に死ぬ行動もとれず、そんな「口だけ」の自分がさらに許せませんでした。
あまりの絶望でどのように生きていたか、今でも思い出せないくらいです。
仕事をしていたおかげで、毎日出かけるところがあったこと、一人暮らしなので生活のため仕事を続けていたこと、仕事場では仲間たちに助けられ良い環境だったこと、それらのおかげで生きていられました。
ほぼ毎晩泣きながら寝る生活で、朝起きたら、瞼が腫れてむくんだひどい顔で出勤することも多い日々を過ごしたことを思い出します。
見かねた私の田舎の両親と兄から、実家に戻ってこいとの長い手紙が届きました。
離婚して1年後、私は高校卒業から二十数年ぶりに田舎の実家に戻ったのでした。
親の愛情に助けられ、実家暮らしで金銭的にも不自由なく過ごすことができ、絶望で未来になんの希望もなかった私でしたが、日々の生活はふつうに過ごしていました。
自宅で、中学生に勉強を、大人にはパソコンを教えたりしながら、生活をしていました。
ただ、かわいいかわいい一人息子を失ってしまってからは、自分の今後の生活に何の希望も持てず、やりたいこともなく、田舎暮らしにも慣れず、つまらない悲しい日々をどうしてよいかわからず、ただ時間が過ぎていくだけでした。
なぜ生きていられたかというと、こんな私でも、私の両親は娘の私が出戻って来たのを温かく迎えてくれ、娘が帰ってきたことを喜んでくれましたし、兄も悪態をつきながらも妹の私をいつも心配し続けてくれたからです。
離婚後大阪にいた頃に思っていた死にたいという気持ちは、わが子を不幸にしてしまったうえにさらに親に迷惑をかけたらあまりに最低な人間になってしまう、という思いから、なくなっていきました。
とはいえ、だからといってこの先に希望も持てず、遠く離れてしまったわが子に会いたい思いだけを抱えながらも何もできず、ただただ日々を過ごすだけの生活を2年ほど送っていたのです。
元々の性格は明るくて、どちらかというといつまでも引きずらないさっぱりした性格の私ですが、さすがにわが子と生き別れてしまったことには、どうしようもない罪悪感、虚脱感、自分への怒り、苦しみで「私が幸せになりたいなんて思ってはいけないのだ」とさえ思っていました。
そんなときにたまたま近くの本屋さんで手にしたのが『あなたに奇跡を起こすやさしい100の方法』だったのでした。
【あなたに奇跡を起こすやさしい100の方法】と出会えたことが奇跡の40代
本についている表紙カバーの裏に書かれた一節に、ぐっと引き込まれました。
もしかしたら私も変われるかもしれない、私ももう一度やり直せるかもしれない、そう感じさせてくれた文章でした。
この本は、100の方法とあるように、100個の項目でいろいろ教えてくれます。
どの章の中にも必ず、これは素晴らしい、なるほどと思える文章があり、私は自分が気に入った個所をラインマーカーを引いたりしています。
なんども読み返していてボロボロです。
なんども読み返しては、マーカーの色が褪せた個所にもう一度ラインマーカーを引きながら読みます。
おすすめしたい箇所がたくさんありすぎますが、今回は最初ですので、本の表紙カバーの裏に書かれた一節を紹介して終わりたいと思います。
私が2年間もの間苦しんでいた絶望の淵から、もう一度なんとかできるかもしれない、もう一度立ち上がろう、と思わせてくれました。
私は41歳になっていました。
私の奇跡は、このときから始まったと思います。
今でも本当に好きで何度も読み返している文章です。
今この瞬間から、あなた自身を、本当になりたい自分として見てほしい。
成功し、楽観的で、愛情深く、親切で、寛容で、尊敬されている人間だ。
自分を、素晴らしいことを何一つ達成できない人間として見る習慣を打ち砕こう。
望むのではなく、何かをするのだ。
なぜなら、どんな習慣であれ、打ち砕くには行動が不可欠だからだ。
「けっして」と言う言葉は、「けっしてわからない」という場合以外は使ってはいけない。
なぜなら、やってみるまでは自分に何ができるか「けっしてわからない」からだ。
自分に何ができるか、どこまでいけるか、やってみるまではわからない、と思う。
やってみれば、どこまででもいける自分になっている。
あれから十数年たった今、ここまでやってきた自分を誇りに思えます。
そしてこれからも、何ができるか、どこまでいけるか、とても楽しみでわくわくしている自分を見て、あのころの私は仰天していることでしょう。
【あなたに奇跡を起こす】奇跡が起き道は開かれました
後日談を最後に紹介します。
小学生低学年だった一人息子は、元夫側が大切に育ててくれ有名大学を卒業後、まぁまぁ大手の企業に入り、元気に頑張っているようです。
成人したわが子に昨年にはじめて一度だけ会いました。それは十数年ぶりの母子の再会でした。
ビジネススーツを着てスラっとした息子の姿は、母にとっては、凛々しく輝いて見えました。
元夫とも、十数年ぶりに会い、たまにLINEをするような関係になっています。
そして今年、つい先日、元夫とわが子と私の3人で食事をする機会がありました。
別々のところに住んでいる3人が、離婚以来はじめて3人で一堂に会することができたのです。
今の私は本当に幸せで、すべてに感謝でいっぱいです。
一般人の自叙伝など面白くないと思います。
ですがもし、私と同じような境遇でつらいさなかの方が、これを読んでくださったなら、道が開かれることに希望を持っていただきたいと願っています。
よま
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