「なにもない自分」を好きになる
昨日、すこし落ち込んだnoteを書いた。
そんな気持ちに目をつむって、明るいnoteを書くことはできなくはない。
顔が見えないSNSという環境では、難しいことではないはず。
だけれど、いろんな人がいろんな葛藤の中にいるはずだから、少しだけ素直になってみたいと思って書いたnoteだった。
(スキしてくれた方々、ありがとうございます。救われます。)
さらに正直に書いていくと、最近「なにもない自分」がすごく無意味に思えてしまっていた。
有給消化中といえどほぼ無職で、肩書もなくて、行こうと思っていたワーキングホリデーにも行けなそうで、なにか資格やスキルがあるのかもわからない。そんな「なにもない自分」が、毎日生きているだけで電気代や食費がかかって、生産がない中で消化だけが繰り返される日常に落ち込んできていた。
最後にお付き合いした彼(約2年前)との別れの理由も、海外に行こうと決めたことにあったし、退職したのも同じ理由。
全部自分で決めたのに、ひとつ目標を失いかけているだけで今までの選択を間違えたかのように感じてしまっている。なんのために、この選択をしてきたのかさえ分からなくなる。
でも本来、その目的を掲げていたのは自分。
そんな自分にしか見えていない未来や肩書があったんだと思う。
目標やゴール、未来設定など、掲げていた方がまっすぐに歩きやすくなるからいいことだとは思う。
自分の中で、迷いを少なくするためにも必要になってくることもあるんじゃないかな。
だけれど、それが見えなくなったりなくしてしまったとしても、周囲の人たちからしてみたら、自分自身の見え方も存在価値も変わらない。
2か月前のわたしも、今日のわたしも、大きく変わりはない。
ひとつ賢くなっていたとしても、ひとつ多く英単語が言えるとしても、根本的な価値観はきっと変わらない。
それが自分の目標だったのか、会社名だったのか、なんなのかわからない。
どんな時だって、「なにもない自分」を大切に思えていなかったら、どんな肩書がついたとしても、どんな資格やスキルを携えても、自分自身が一番自分を尊敬できない人生になる。
そんなことに、ふと気づいた。
今世界中に悲しい気持ちが広がっていて、仕事がままならない方もたくさんいる。
「世界中で貧困層が広がっている」というニュースも見かけることが増えてきた。
そんな中で、「命があるだけでなんとかなる!」という精神的な踏ん張りがきかないと、どうにもならないこともある。
その精神的な踏ん張りがきく状態というのは人それぞれで、基準はない。
受験を不合格になることかもしれないし、失業した時かもしれないし、住む家がないことかもしれないし、それ以外かもしれない。
どの状態だからまずい、というのは主観でしか決められない。
誰かよりも踏ん張れないから弱い、踏ん張れるからすごい、なんてこともきっとない。
頑張ろう、なんて言えない。
だってもう、みんな頑張っているんだから。
頑張って生きてきて、こういう状態になって、まだ頑張らないといけないのかと嘆きたくなる。
当たり前のことのように仕事をして、お金を稼いで、食事をして、睡眠をとっているけれど、どれも生きようとしているからこその行動で、それってもうちゃんと頑張っているよねって思う。
生まれた瞬間から、生きていくことを当たり前にしている。
その瞬間から「〇〇さん家の子ども」という肩書がついて、年齢を重ねるごとに役割が増えていて、知らない間に「なにもない自分」を見つめることが少なくなる。
こんな時じゃなくても、本来の「なにもない自分」を大切にすることですこし気持ちが落ち着くようになる。
人に会うことが少ないから、より鮮明に自分と見つめ合える。
なにもなくても、大丈夫。またゼロから始めようって言いきって、とりあえず今日を生き抜いていこう。
誰かと比較しても、みんな人生でやりたいこと違うんだから、集中するは自分の人生。こころを開いて、自分のこと認めていくことって大切。