いつか出会う、その景色を見るために
昔から、『石の上にも三年』ということわざが苦手だった。
意味としては、「冷たい石の上にも三年座っていたら暖まる」ことから「忍耐強さの大切さ」を説くことわざ。
わたしはといえば生涯一貫して、好奇心の塊である人生なので興味あることにはすぐ飛びつく性格で、それは今も変わらない。
気になるからやってみよう、見たい景色を見に行こう、変な噂があるなら確かめよう。そんな風にして、後先考えずに行動することが多かった。
そのため、方向転換をしたい時や辞めようとした時に決まって、このことわざを投げかけられていた。
そのたびに、なんとなく飛び乗った石に三年も費やしたくないなぁ。
むしろ、その三年があったら他の石を暖めることができるかもしれないし、ひとつの石を暖め続けるよりもいろんな石に巡り会いたい。
なんてことを、心の中で思っていた。
もちろん、この性格で得したこともあれば、損したこともある。
だけど誰だって、得したり損したりしながら生きているんだから、こんな人生も悪くないよねぇなんて思っている。
そんな考え方だったけれど、最近はちょっと『継続させることの大切さ』を考えたり、感じてきている。
それは継続しないと見えない景色があることを知ったからだ。
学生時代はテストのためだけにしていた英語勉強。
テストさえ乗り越えればよかったから、テスト後にはきれいに忘れてしまっていた。なにも身についていなかった気がする。
そんな英語勉強を大人になって改めてしてみた時に、世界中の人とつながることができる楽しさを知った。調べものをする時も、英語で調べると世界中から情報を得ることができる。
そして勉強してもまだまだ知らない言葉や表現があるから、終わりが見えないことも継続できている秘訣かもしれない。
高校の修学旅行で訪れた京都。
当時は日本文化に興味がなく、歴史は最も苦手な教科でもあった。なんでこんな教科が存在しているのか嫌になるほど…
だけれど、年齢を重ねていく中で日本の歴史を知ることもあれば、旅行で京都に行くこともあった。それを繰り返しているうちに、今ではすっかり歴史好きの京都好きになっている。(京都に引っ越そうかと考えているくらい)
繰り返していかないと見えてこないものがある。
その時々の感情だけに左右されてしまうことはすごくもったいないことであることも同時に体感している。
それでも一つ、『石の上にも三年』ということわざに違和感を感じることがある。
それは「継続」を説くものではなく「忍耐」を説くものであること。
わたしの体感した出来事はすべて自主的に「ちょっとやってみよう」と繰り返し思えたことが継続につながっている。
これが「忍耐」として無理やりしていたことだったら、勉強はテスト勉強のような「とある試練を乗り越えたら必要のない存在」になっていたはず。日常に活かしてみようなんて考えには絶対にならない。
物事の継続には「楽しむ」ということが不可欠だ。
いつだって楽しいわけではないけれど、その物事の本質的なたのしさを知っていると辛いけどちょっと頑張ろうという気持ちも不思議と芽生えてくる。
そんなたのしいと苦しいを繰り返していくうちに、気付いたら継続できているものなんだよね。
継続した先の景色は続けることでしか見えない分、成果だけを求めてしまうと途中でくじけてしまう。
成果が出てないとしても、たのしいなって思えることが継続の秘訣になるから、やっぱり石の上にただ三年座り続けることはまだまだできそうにない。
だけど、あの手この手を使って石を暖めてみて、と言われたらちょっとは楽しいかもしれない。
さすってみたり、火を使ってみたり、抱きかかえて眠ってみたり。きっといろんな方法で暖めようとする。石暖めゲームである。
きっとそんな風に真摯に向き合える石には、簡単に出会えるわけはないはずだから暖める石は慎重に選びたいし、そのためにもいろんな石に出会いたい。
自分でこれだ!と選んだ石を暖めた結果、どんな景色が広がるのかどんな気持ちになるのか、石探しの段階からすでに楽しみ。