《ポストずんだロックなのだ》が好きなのだ
ないまぜにした好きなものなら言えた。これが一番好きだとはいつまでも言えなかった。否定されるのが嫌で、肯定もされたくない。私だけが好きでいられたら良かった。それだけで良かったのだ。
好きな本は江國香織の『きらきらひかる』。好きな作者は江國香織と吉本ばなな。好きな曲はROTH BART BARONの《dEsTroY》。好きな映画は今敏監督の『パプリカ』。そうやって簡単に言えるはずのことがいつまでたっても言えない。明言すべきでない。だから今ぜんぶ初めて言った。はっきりとは言わずにいたこと、言えずにいたこと。他人に否定されたくない。肯定もされたくない。私だけがわかっていれば良い。絶対的な基準は私だけが良い。そういうこと。私が私を肯定していられる理由はいつもそこにある。
姉は自己肯定感が低いのだと言った。私にはその気持ちがわからなかった。私はいつでも私だけが私を肯定していると知っていた。何よりもそう知っていたから他人の評価は意味がなかった。人から認められなくても私が私を認めていたし、どれだけ認められても私の思い通りの認め方じゃなければ何の意味もなかった。傲慢な人間の誕生だ。私だけが私のことを認めてやるのだ。どんなに嫌な部分が目に入っても、間違った自分から目をそらせるよう訓練していた。見えないふりがどんどん上手くなった。
私は間違った道を歩まない。私は正しくあるべきだ。私は正しく生きていたい。あの人たちのように失敗なんてしない。中学生の頃、母の日記帳を見た。30年間の記録が途切れ途切れに、しかし確実に書かれたあのノート。隅から隅まで、最初から最後まで読んだ。私だけが母の半生を知っている。そのせいで母のことを嫌いになりきれない。どこかで間違えた人生のことを、私だけが知っているのだ。
私は他人の30年間の人生を知っている。だから私は失敗しない。あの人たちと同じ過ちは犯さない。私は人生の分岐点を知っているのだ。すべて前もって知っている。私に血を分けた他人の30年分の人生を知っている。だから間違えない。他の人より多くのヒントを与えられた状態で生きているのだから、そうでなくてはならないのだ。
大人びていると言われた。達観していると言われた。姉は泣きながらどうしてそんなに冷静なのと言った。私は30年分の人生を知っているから。私だけはタイムリープしているようなものだから。違う時代を生きた、青春を知っているから。だから失敗はしない。正しくありたい。そのせいでたくさんのものを自ら遠ざけてきた。どうせ失うならはじめから手元にない方が良いのだ。いつもそうやって引き算をして生きている。それが賢い生き方だから。あなたは知らないでしょ、でも私は知ってるの。そういう小さな優越感が私の自己肯定感を高めていった。他人の人生を修正しながらトレースすることが私の生き方だった。だけど、と思う。だけど30を過ぎたらどうやって生きれば良いのだろう。
ああ、取り返しがつかない。もう取り返しがつかない20年間。私はどうやって生きていたのか。欲望よりも正しさを優先し、安定をとり、間違いのない日々を選ぶための選抜大会。いつの間にか高まった自己肯定感だけがふらふら勝手に歩いていく。
私だけが私のことを認めていた。私だけが知っている私の濃度が濃くなりすぎた。私と私の中の他人の役割分担ができなくなった。信用できるのは私だけだった。他人の言葉が響かなくなった。嬉しいことも幸せなことも好きなものも楽しいものも、全部私だけが知っていた。
他人との分かち合い方がわからなくなった。それでも他人とある程度上手くやれたのは人に恵まれているからだろう。自分の力じゃないくせにそんな自分が好きだった。そんなだから、いつまでもあの子たちほど仲良くなれなかった。いつも距離があった。私が生んだ距離があった。近寄らせたくなかった。濃くなりすぎた私の中の私に、誰も触れてほしくなかった。私は「上手く」生きる方法を見失いかけている。
他人に弱味を見せても意味がないのだ。私にしかその苦しみは分からないのだから。そのくせ他人の苦しみは勝手にトレースできる気がしていた。30年分の他人の人生をトレースしてきた実績を自負していたからだった。いやはや素晴らしき自己肯定感の賜物。自分を過信した劇的な結末。兎にも角にもそうやって、私にはわかるけれどあなたにはわからないわと、突き放して距離を置いて遠ざけてはいつもの距離に戻った。
私だけが正しいのだ。私だけが正しいのだ。だけど本当はそう思ってばかりではない。見て見ぬふりをしているだけだと自覚はしているのだ。父親を家から追い出すのに加担したこと。その罪悪感の埋め合わせのように人に優しくしようとすること。姉に向かって吐いたひどい言葉。上の空できいたあの子の言葉。身勝手な振る舞い。他人を見下す癖。強がったくせにする後悔。言い訳ばかりの人生。
そのくせ間違っているところも「正しく」指摘されないと気が済まない。その基準は自分にあるのだから結局見ているのは私自身で、他人のことなんかどうでも良くて、やっぱり私の思い通りにならないと嫌気がさすのに。最低なのだ。いつも私は最低なのだ。そしてそんな自分を見ないようにすることだけはやはり得意だった。自己肯定感が高いから。私は私であるのだから。
他人に自分の評価を委ねるのは馬鹿のすることだと学んだのだ。だけど本当に馬鹿なのは私だった。生き方を知らない幼児なのだ。まっさらな赤子の方がずっと美しいのだ。
生きていくための理想はもちろんある。しかし規範と理想は表裏一体。こうあるべきでない、こうしてはいけない、そうやって選択肢を狭めていくことが正しい生き方なのだ。そうするしかないのだ。
最低なのだ。最低なのだ。私は全然良い子じゃない。悲しいのだ。いつも。悲しいのだ。その繰り返し。
褒められるほど悲しいのだ。それは私の思い通りすぎるから。最低なのだ。私は最低なのだ。
何をされても悲しいのだ。私が私のことを認めることだけを認めているのだ。他人の評価では意味がないのだ。最低なのだ。
私自身からの評価を通してしか人の言葉を受け取れないのだ。他人の思いを無視しているのだ。悲しいのだ。とても悲しいのだ。でもそれが当たり前なのだ。私は馬鹿なのだ。
みんなはどうやって生きてるの?今まで何を考えて生きてきたの?
私はこうやって生きてきたよ。私はこうやって毎日思いを巡らせているよ。
正しさとは規範のことで規範とは誰かが定めた正しいあり方だ。正しいあり方は誰かが間違っていると判断したものを通してしか生まれることはないのである。あの人たちの生き方は間違っていると私は思った。勝手に他人の人生を値踏みした。その対価を今払っている。今までずっと払っている。自己肯定感があることを素晴らしいと謳う言説に嫌気がさすのはこのせいだ。なにもかも程々が大切なのである。他人を踏み潰した自己肯定感が高くても、幸せにはなれないのだ。
来年は私の規範を修正できるだろうか。私の正しくない部分も認めてやれるようになるだろうか。
矛盾した内面のバランスをとれるだろうか。天使と悪魔と第三勢力の三つ巴を飼い慣らしていけるだろうか。
悲しいことばかりだ。楽しいこともあるけれど。自ら苦しみたがる日々を早く辞められるようになろう。もう少し自分と向き合う時間をつくろう。
一番好きなものの話を面と向かってできるようになることを来年の目標に定めて、皆さん良いお年を。
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