花火と星
花火の色の科学を語ることは、理系がするつまらん話の定番のような扱いを受けて久しい。そんな昨今の立ち位置を理解しながらも踏み込みたい花火の科学があるのです。
花火の花弁となる火薬のことを星という。星には出したい色によって異なる火薬が使われていて、ここで出てくるのが化学の授業で習う炎色反応である。リチウムは赤、ナトリウムは黄、カリウムは紫、ストロンチウムは紅、とか、まあ花火を前にでもしなければ使うことのない知識かもしれない。星は、菜種の実だとかを芯としてその周りに層状に「焔色剤」を含む火薬を少しづつかけ、こんぺいとうのように少しづつ育てて作る。この焔色剤に先述の元素を含む化合物が使われているのである。途中で色が変わる星は、異なる焔色剤でできた複数の層を持っている。一斉に色を変えるには、層の厚さを精密にコントロールせねばならない。この点の品質のよさが日本の花火の特徴なのだという。
そもそもなぜ元素によって違う色を出すのか、というところまで踏み込むとややこしくなってくる。化合物中の原子が燃やされて熱くなると、それが冷めるときに余ったエネルギーを特定の色の光として出す。このときのエネルギーの余りかたが原子ごとに違っているために違う色が出てくるのである。もう少し詳しく言うと、原子の核をまわる電子が燃焼のエネルギーで遠くに弾き飛ばされ、もとの軌道に戻るときに光が出てくるのだが、もとの軌道と弾き飛ばれる先、および帰るときのルートが原子ごとに違い、それによって出る色もまた変わる、といったところである。電子の住処は、高校まではK殻、L殻……と習ってきたものが大学物理まで課金すると1s, 2p, 3d, ...などとよりけったいなものになる。詳細の理解は量子力学を修めてようやく、というくらいタイヘンであるが、こんな込み入った話を知らずとも、誰の目にも平等な美しさをいとも簡単に実現する花火という実在の凄さよ。
一方、宇宙の星はほとんど水素からなるガスが重力で集まってできている。花火の星と似たような同心球状の層構造をしているが、花火の星が外側から燃やされていくのに対し、宇宙の星は基本的には内側から燃えていく。ひとくちに「燃える」といっても原理は大違いで、花火の星ではろうそくと同じように酸素との激しい反応が起こるのに対し、宇宙の星は水素やらヘリウムやらの核融合反応に支えられている。宇宙の星の色の違いは、花火の星の色の違いとは異なる理由で生まれている(その話はまたいつか)。
花火と同じ原理で彩られる天体も宇宙にはある。とりわけ花火に似ているのが「惑星状星雲」である。これは太陽の8倍以下の質量をもつ星が死に向かう姿で、核融合の燃料である水素をあらかた使い果たすと今度はその灰たるヘリウムから炭素、酸素と次々に重い元素を生み出しながら大きく膨張し、外側のガスがサイダーのようにしゅわしゅわと抜け出し始める。これが剥き出しになった星の熱い芯にどうにかなっちゃうくらい強烈に照らされると、そのガスの電子が原子核の遠くまで弾かれてしまう。かつて惑星状星雲の光が初めて分析されたとき、地表で観測されるどんな花火にもない色の光が観測されたので、この星雲は人智を超えた未知の物質「ネビュリウム」で満たされているとされた。nebulaは星雲の意である(もと、ラテン語の霧)。
基本的に見るということしかできない観測天文学では、天体の色が現れる理由を追究することはほとんどその真髄である。ほどなくしてネビュリウムは、フロギストン、ヴァルカン、エーテルなどと同じように科学史上の幻影となって滅びた。花火と同じく、電子が飛ばされた先からあるべき場所に帰るときに出る光が惑星状星雲からも見えているのだが、それは未知の元素からではなく、我々のよく知っている酸素から、しかし宇宙でのみ許されるルートを辿ることで出されていたとわかったのである。家に帰るのに普段なら電車に乗るところを、泥酔して終電を逃してしまえば全行程タクシーというエクストリームな選択が現実的になることに似ている。地球ではそんなルートを取ろうとしても理性と戦っているうちに他の粒子が激突してきて居場所を強制的に変えられてしまうのだが、宇宙では密度が低すぎて誰も止めるものがいないのでそんな道を選択してしまう。こうした移動によって出てくる光は地球ではふつう見られず、禁じられた色の光、「禁制線」と呼ばれている。上に示した惑星状星雲M57の写真で、リング内縁の青緑色の部分がおもにネビュリウム改め酸素からの光が見えているところである。宇宙では惑星状星雲よりももっと密度の低い環境が当たり前で、禁制線は実は宇宙の様々な場所でバンバン出ている。宇宙のほうからしてみれば地球ほどエクストリームな環境はなかなかないわけで、広い宇宙の中で我々だけがこの当たり前の遷移を禁制線などと呼んでいるのである。まったく酔狂な話だが、理性と周囲のブレーキがいつだって大事なのは間違いない。
花火を見ていると、色のほかにもさまざまな疑問が浮かんでくる。なぜ昇っている間の火花はらせんを描くのか。花火の光と胸を震わす爆音とは、どうして速さがちがうのか。当然のようにきれいな同心円状に火薬を広げるのはどれほど大変なことなのか。たなびく煙のゆく末は。頭に一切の方程式が浮かばなくても、目の前の現象にこのようなふしぎを発見することはまぎれもなく科学することの始まりだ。物理学者・朝永振一郎は、「ふしぎだと思うこと これが科学の芽です」からはじまる短い一篇を残している。これに続き「よく観察してたしかめ そして考えること これが科学の茎です」「そして最後になぞがとける これが科学の花です」と終わる。量子力学分野の進展に多大なる貢献をした科学の担い手が語る科学はこうもシンプルで美しい。花まで咲かせることは訓練を積んでも容易ではないが、暮らしの中に芽を見つけ、知識の光をあてて茎をそこここに伸ばしてみることは誰にも開かれた科学の楽しみである。そのたねは、実はそこらじゅうに潜んでいて、見出されて芽吹く時を待っている。
参考にしたサイト:「日本の花火をもっと知りたい」http://japan-fireworks.com/basics/menu.html