ミライリア
手鏡の形をしたものを持っている。しかし、覗き込んでも私は映らない。映るのは、後ろの部屋の壁だけ。それを持って歩いてみる。よく見ると、他にも映らないものがある。部屋に備えつけの家具は映るが、私の持ち物は映らない。何、これ。
「未来を映す鏡、ミライリア。今ここに映るのは、少し先の未来」
誰? 心のなかで唱えたはずなのに、呼応するように声がする。
「私だよ、各務鏡子。あんたの手中にある、その鏡さ」
鏡が、しゃべっている?
「この部屋は空き部屋になる。そして、あんた、このままだとこの世から消えるね」
は? え、何を、言っているの?
「未来を映すと言っただろう。変えたいか?」「変えたい。まだ生きたい」
「じゃあ、変わるんだね。あんたが変わらない限り、未来は変わらない」
「どうすればいいの?」
「それは言えない。守秘義務ってやつさ」
「いつまでに変われば」
「それも言えない。私にできるのは、未来を映すことだけ」
はっと目を覚ます。なんだ、夢、か。びっくりした。妙にリアルで。そう思ったのも束の間、私は枕元を見て目を疑う。そこには確かに、夢の中で見た手鏡、ミライリアがあった。恐る恐る覗くと、やはり自分の姿は映らない。慌てて洗面台に向かい、鏡台の前に立つと、青ざめた私の顔が映し出された。
いつものように満員のバスに揺られながら、夢のことを考えていた。あの後しばらく放心してから、私はミライリアと名乗った手鏡を引き出しにしまった。時計を見るといつも家を出る時間が迫っており、慌てて身支度を整えて仕事に向かった。また朝食を抜いて。
未来なんて、考えたこともなかった。今を生きるのに、というより、日々のタスクをこなすのに必死で。こんな日がいつまで続くんだろうと思いながら、それでも私がやらなきゃいけないから、余計なことを考えずにやる。その繰り返し。でも、終わりが来るんだ。恐怖より解放される安堵感が胸中を支配し、それが恐ろしかった。何を、思ったの。
なんで私がいなくなるのかも、いついなくなるのかもわからない。それなのに、怖いと思わない自分が怖いと思った。
ミライリアは言った。あんたが変わらない限り、未来は変わらない、と。変わるって、何から変えたらいいの。今さら、何をすれば。ここ最近はずっと思考停止状態でやり過ごしてきたのに。現実を直視するのが辛くて。
「次は、境。境。お降りの方は、降車ボタンでお知らせください」
バスのアナウンスで現実に引き戻される。次は職場の最寄りの停留所だ。降車ボタンは既に他の人が押していた。
「それでは、企画会議を始めます」
憂鬱な時間が始まってしまった。
私は総合職で今の会社に入り、営業を5年やった後、企画部門へ配属されたのが昨年のことだ。念願の企画部門への配属。うれしかった。営業をしているときも、休憩中には企画のことを考え、思いついたことがあれば手帳に書き留めた。取引先とのヒアリングを重ね、企画部門を始めとする各所と連携しながら、いつか私も作る側に回りたいと夢見ていた。取引先の方々とも信頼関係ができ、いろんな要望を聞いたりしながら、こんなものがあったらいいだろうなんて勝手に考えて。それがやっと形にできるぞなんて、浮かれていた。
現実は甘くなかった。私のアイデアはどれも、技術的にも予算的にも、実現不可能なものばかりだった。何もわかっていなかった。アイデアは早々に枯渇し、必死に現実的なアイデアを考えた。製造部門に勉強に行かせてもらったり、先輩方に相談に乗ってもらったりした。みなさん優しい方ばかりだ。私のアイデアを否定せず、いろんな助言をくれた。あんまり根を詰めないで。みなさんが心配してくれるなか、なんとか貢献したいと日夜仕事に邁進した。しかし、なかなか実らない。
異動して1年以上経つというのに、私は先輩方の企画の手伝いしかできていない。どうせ採用されない企画書を無駄に印刷して綴じて配布し、説明する。また時間を奪い、情けなさを晒し、みなさんをがっかりさせてしまう。私には向いていなかったんだ。営業部門に異動願を出そうか。変わるって、そういうことなの、ミライリア?
「では次、各務さん、よろしくお願いします」
ああ、順番が来てしまった。みなさん、ごめんなさい。もう、本当に消えてしまいたい。
その時、声がした。
"各務鏡子。思い出すんだ。入社研修の面談のことを。営業の日々を"
夢の中のあの声。ミライリアの声だ。カバンを一瞥するが、ミライリアは見当たらない。入社研修の面談のこと、営業の日々だなんて。
「各務さんは企画部門志望だよね。どうしてうちを志望したのか、教えてくれるかな?」
入社研修の面談で、企画部長の湖橋部長に尋ねられた。そこで私は、この会社の製品のよさを語った。丁寧な仕事をしている製品だと今でも思っている。その理由は、実際働いてよくわかった。営業部門、企画部門、製造部門、システム部門が連携し、ヒアリングやモニタリング、改良を重ねて商品ができる。宣伝・広報部門が広告を打ち、営業部門が各所を回ってやっと世に送り出される。そんな人たちを支える総務、人事、経理、法務などを担う管理部門の人たちがいる。みなさんプロフェッショナルとしての誇りと責任を持ち、日々業務を行っている。かっこいい。
営業職としてはなんとか成果を上げられるようになったけど、企画職としてはまるでだめだ。プロフェッショナルとは程遠い。焦らなくていいと周りは言ってくれるが、今の私は完全にお荷物だ。
「各務さんは、どんなものを作りたいの?」
その面談のときにこう問われて、ぱっと浮かばなかった記憶がある。そのとき言われたんだ。
「各務さん、まずは営業をがんばってみない? 今こうして話していて、営業もできると思うんだ。そうしていろんな方と話してごらん。作りたいものが見えてくるんじゃないかな」
そうして首を縦に振り、営業部門への配属が決まった。そこでも先輩に恵まれ、営業のいろはを教わった。営業先では失敗とお詫びをし、当然怒られたりもしたけれど、改善を重ねてやっと信頼関係を築いていった。思えばそれも、ずいぶん時間がかかったなぁ。同期はどんどん成果を上げていくのに、取り残されていくようで、必死で働いていたっけ。懐かしい。
営業5年目の取引先で、担当替えがあった。相手はベテランの方から私より年下の新人の担当者に変わった。とても一生懸命だけど、自信のない方だった。営業を始めた頃の私、そして、今の私のような方。私はベテランの前任者と連携を取りながら新担当者と商談を重ね、彼が会社で初めて貢献できたと笑った日には喜び合った。今やバリバリ活躍していると、うちの後任の営業担当者から聞いている。成長めざましく、眩しかった。そんな風に、周りの支えで、人って成長して化けるんだよなぁ。
でも、人に頼ったり、人とコミュニケーションをとったりすることが苦手な人もいる。たまたま良い出会いに恵まれればいいけれど、みんながみんないい人ではない。そんななかで、その人のよさを後押ししてくれるものがあったらいいのに、なん、て。
「各務さん、大丈夫ですか? 体調が優れませんか?」
はっと我に返る。ここは会議室。現在企画会議中で、自分の説明時間だ。私、何分自分のなかに潜っていた?
「いえ、申し訳ございません。企画書を配布いたします」
慌てて、どうせ採用されない企画書を回してもらう。奥の方まで渡るのを確認して、言葉を発する。
「それでは、今回の企画案についてご説明いたします」
そのとき、あの言葉がリフレインする。
"変えたいか?"
「今回の企画は」
"あんたが変わらない限り、未来は変わらない"
私は、企画書を置いた。そして、深呼吸する。周りがざわつくのを聞こえないふりをして、ゆっくりと口を開いた。
「すみません、企画書にはないんですが、今、思いついたことがあります。それを話してもよろしいでしょうか?」
震える声でそう発した。非常識なことをしているのはわかっている。何をやっているんだろうと、冷静な私が呆れている。でも、変わりたい。変えたい、自分を。
「かまいませんよ。各務さん、続けてください」
穏やかな笑みを浮かべて、湖橋部長がこちらを真っ直ぐ見つめていた。向かいに座る企画部門の水口先輩が、「がんばって」と口パクで伝えてウインクをした。心臓がバクバクと音を立てる。耳のなかがうるさい。脈拍が速い。目をつぶる。ミライリアが、ぼんやりと女性の形を映した。あれは、未来の私?
もう一度、息を大きく吸い込み、ふーっと吐き出す。目を開くと、視線が注がれているのがわかった。私は覚悟を決めて、話し始めた。
「今回ご提案したいのは、AIを搭載した手鏡、ミライリアです。ミライリアのコンセプトは、未来の自分を映す手鏡です」
明らかに戸惑っている様子の面々をよそに、私は続ける。
「しかし、ただAIで予測した近未来の姿を映すわけではありません。自信がない。そんな後一歩を踏み出す勇気が持てない人たちの心を後押ししてくれる手鏡。手鏡に搭載されたAIが、対話を重ねるなかで、その人のよさを引き出せるよう、その人の実現したい未来のために応援と励ましの言葉をくれるんです」
一呼吸して、また口を開く。
「私はこれまで、たくさんの方に励ましとご助言、ご声援、ご支援を賜り、今ここに立たせていただいています。それは、たまたま人に恵まれたからです。しかし、孤独のなかにいる人にも、無限の可能性が眠っているはずです。そんな人たちに、ミライリアが必要なんです」
自分でも驚くくらいの声が出た。まずい、熱が入りすぎた。
「すみません。以上で、企画案の説明を終わります」
夢中で話し終えた今、顔から火が出そうだ。早く終わってほしい。座って顔を覆ってしまいたい。一刻も早くトイレに駆け込みたい。
そう思っていると、声が上がった。
「いいんじゃないですか」
その声の主は、製造部門の山田部長だ。
「実現可能性はあると思います。手鏡なら身近で持ち運べますし、AI技術も進んでいますからね。うちのシステム部門なら、できますよね?」
システム部門に振られる。
「できません」
ああ、精鋭揃いのシステム部門でも難しいか。
「なんて、私が言うとでも?」
にやりとしながら製造部門の部長を見た後、こちらを向くシステム部門の谷中部長。
「今の技術とうちのシステム部門なら、できないことはないでしょう。営業的にはどうですか?」
お世話になった古巣の海原部長が笑った。
「面白い。勝算はあるんじゃないですかね。企画部門はいかがですか?」
今の上司、湖橋部長の番だ。
「これからいろいろと詰めていく必要はありますが、やってみる価値はあるんじゃないでしょうか。社長、いかがでしょうか?」
静寂が続く。緊張が最高潮に達する。沈黙を破って、社長は一言言い放った。
「やりましょう」
わあっと歓声が上がった。
「各務さんがチーフ、サポートは水口さん、湖橋部長がアドバイザーで。よろしくお願いしますね」
会議室に拍手が鳴り響いた。
企画会議が終わった。サポートについてくださる水口さんが、駆け寄って抱き締めてくれた。よかったね、がんばろうねと、私よりよっぽどうれしそうに言ってくれた。当の私は、まだ現実を受け入れられないでいた。
湖橋部長も私の席まで来てくれた。
「各務さん。やっと見つかったんですね、各務さんが作りたいものが」
「そう、なんですかね」
「とっても各務さんらしいですよ。よかった、あなたを営業部門に預けて」
湖橋部長がそう言うと、営業部長の海原部長と、営業のいろはを教えてくださった先輩の川上さんが口を挟んだ。
「せっかく育てた優秀な営業をそっちに引き抜かれて、たまったもんじゃないよな、川上さん」
「本当ですよ。でも、各務さんの話す姿を見て、よかったとも思ったんです。各務さん、キラキラしてたよ。もうそっちでもうまくやっていけそうだね。安心した」
黙って聞いていた私は込み上げてくるものをぐっと堪え、噤んでいた口を開いた。
「みなさんのおかげです。引き続き、ご指導ご鞭撻のほど、何卒よろしくお願いいたします」
頭を下げる。
「もちろん」
みなさんの心からの祝福が、やっと私の緊張をほぐし、頬が緩んだ。
今朝までは、企画会議が憂鬱だった。まさか、今日が初めて企画が通る日だなんて、思ってもみなかった。まだまだ課題は山積みだけれど、一歩前進したんだ。
あの後、分厚いファイルを湖橋部長から手渡された。
「とりあえずこれ、水口さんと参考にしてね。過去の企画書に予算書、見積依頼書に製作指示書とか、いろいろ入ってるから。まずは来週の企画部門定例会議に向けて、詳細をまとめた企画書を準備するように。とりあえず今日は定時で帰ろう。また明日」
ヒラヒラと手を振って去る湖橋部長の背中を見つめながら顔を曇らせると、水口さんが苦笑する。
「湖橋部長、笑顔でスパルタだよね。大丈夫、私がついてるから。改めて、明日から、よろしく」
差し出された手を握り返し、頭を深々と下げる。顔を上げると、水口さんがニコニコしながらこちらを見守っていた。
帰宅して引き出しを開けると、今朝確かにしまったはずのミライリアは見つからない。部屋中探し回ったが、どこにも見当たらなかった。でも、ミライリアは私がこれから作るんだ。きっと、未来は変わった。いい方に。
未来はあなたの日々の小さな行動で変えられる。私の踏み出した一歩も、きっと未来を変えると信じてみようと思う。なんだか久しぶりにおなかが空いてきた。常備しているパスタ、パウチのツナ、トマト缶でトマトソースパスタを作って食べよう。明日から取りかかるミライリアの企画書のために、まずは食べて、入浴して、寝ることにする。
今、もがいているあなたに、ミライリアを届けたい。すぐには難しいけれど、いつか必ず届けてみせるから、待っていてほしい。それまでもう少し、この世界で互いにもがき合えたら。