梅尭臣 「范饒州坐中客語食河豚魚」
春洲生荻芽 はるのなかすに
おぎのめがふき
春岸飛楊花 きしにやなぎの
わたがまいとぶ
河豚当是時 このときこそは
ふぐのシーズン
貴不数魚蝦 そのねはざこと
ひかくもできぬ
其状已可怪 ふぐのすがたは
うすきみわるく
其毒亦莫加 どくのやばさも
このうえもない
忿腹若封豕 ふくれたはらは
ぶたのようだし
怒目猶呉蛙 いからせためは
かえるみたいだ
庖煎苟失所 あつかいかたを
あやまったまま
入喉為莫邪 くちにしたなら
はらはずたずた
若此喪躯体 こんなきけんを
おかしてまでも
何須資歯牙 どうしてこれを
くらおうとする
持問南方人 するとげんちの
みなみのひとは
党護復矜誇 ふぐをもちあげ
そのかたをもつ
皆言美無度 くちをそろえて
うまいとほめて
誰謂死如麻 そんなたやすく
しんだりせぬと
我語不能屈 わがいいぶんは
みみにはいらず
自思空突嗟 ひとりうでくみ
ためいきをつく
退之来潮陽 むかしカンユが
チョウヨウにきて
始憚餐籠蛇 へびをだされて
こしをぬかした
子厚居柳州 リュウソウゲンは
リョウシュウにいて
而甘食蝦蟇 がまをうまいと
もぐもぐたべた
二物雖可憎 これらのものは
いかものなれど
性命無舛差 たべたところで
しぬことはない
斯味曽不比 ところがふぐは
うまかろうとも
中蔵禍無涯 そのあやうさは
そこがしれない
甚美悪亦称 うつくしきもの
あくをともなう
此言誠可嘉 こんなことばを
かみしめている
「范饒州の坐中にて客河豚魚を食するを語る」
*河豚を詠む。蘇軾が「恵崇春江暁景」で河豚を夢想して食べたそうにしていたのとは対照的だ。最後の教訓めいた言葉も、何だかとぼけて聞こえてしまうのだが、これも狙いなのだろうか。