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片田舎の夏の香りに、京都を思い出したことについて

 窓を開けて、洗濯物を取り込もうとして、「あ、京都だ」と思った。
そんなわけはない。ここは京都から実にたくさんキロメートルも離れた片田舎であり、あんな無風の陸の孤島(盆地ともいう)とは全く違う。はずだった。

 夏だ。夏の気配が私に、かつて京都に住んでいたころの記憶を引き摺り出させたのだ。ほのかに湿度を含んだ熱気、微生物が柔らかく焦げたかのような独特の香り、夕暮れ時にも関わらずこちらを覗き込むかのような日差し。思えば、これらは典型的な夏の特徴に過ぎないのだが、私は、日本全体でみればごく一点に過ぎない、その土地を連想したのである。

 あの地での印象的な出来事は夏とともにあった。そう思うのは、当時からみて未来の自分となった私の驕りかもしれない。というのも、人生で最も印象的な数年間を過ごしたあの土地において、私は四季のすべてを等しく愛していたはずだ。窓を開けてあの地を思い出したのは、単に、大学時代の私が夏には特に引きこもりがちであり、夏を感じるのが窓を開ける瞬間であったから、というそれだけの理由かもしれない。

 引きこもった日々のわずかな間をぬってきらきらとした思い出が散らばっている。涼を纏う川の音と、手持ち花火のちりりとした香り。夜分まで語らったサークル部屋を照らす、虫の寄りそうな蛍光灯の明かり。冷房の効いた講義室と窓からさす眩しい緑。アブラゼミとクマゼミで構成された大合唱。あの地での夏の記憶は、私の五感に強く訴えてくる。

 私は京都の夏を、感覚をもって知っている。だというのに、あのころあの地にいた自分は、今の自分のある種のパラレルであるかのように感じている。今、この片田舎にいる自分は昔からこの地にずっといて、京都にいた自分は京都にいることを選択した別の次元の自分であるかのように錯覚する。いくばくか前まで確かにあの土地にいたというのに、その実感は少しずつ、私の全身から零れ落ちていく。私は、忘れていくことを、死ぬことの次に恐れている、というのに。

 過去の記憶が今の自分とあまりに乖離しているように感じられたとき、私は世界五分前仮説を思い出す。この世界は五分前に誕生し、自分もまた、それまでの人生の記憶をもって、五分前に誕生した、そんな(私の主観としては)残酷な仮説である(とはいえこれは思考実験であり、現状証明も反駁もできない)。これが真だとしたら、乗り越えてきた、と信じて疑わない過去の苦しみが意味をなさなくなるようで、空しくなる。あたかも自分が、「そういう苦難を乗り越えてきたから今の性格になった、という設定」を背負ったキャラクターであるかのように。だから、私はこの説を極力頭から追い出すことにしている。

 また、こんなことも想像する。京都で過ごした自分とここで生きる自分はかつて道を別って、そのまま永遠に交わらない道をそれぞれ歩み続けている、と。私は必死で、向こうの道の自分に呼びかける。でも私は(彼女は)こちらを一瞥すらしない。そんな恐怖がひたと心に浸食しそうになって、私はいつも考えることをやめる。
 向こうの道を歩む私は過去の私。今の私のことは知らない。私は、彼女のことを「知識として」よく知っているとしても。そこでこの道が平行ではなく、前後関係の存在するものだということをようやく思い出す。声は届かない。当たり前の帰結として。

 先述の通り、私の認識は「片田舎でずっと過ごしてきた、京都とは無縁の自分」である。そのため、過去を思い返して内省的になることはあまりない(と信じている、少なくとも)。別の場所で呼吸をしていた私は今の私とは別人で、ある意味それは文字通りで、きっと骨も皮膚すらもとっくに入れ替わっている。とにかく私は今ここにある自分と、自分の手に大事に抱えた地に足ついた生活のみに目を向けている。穏やかな、手に負える規模の生活をようやく手にして私は自分の道の先を眺めている。はずなのだが。

 当時の友人に会うと、向こうの道に引きずり込まれる。畔を越えて、平行だったはずのあちらの道を歩いている。私はこんなにも目まぐるしい時間の中を生きていたのだったか、自我らしい自我を愚かしいほどに滲みださせて生きていたのだったか、では今の自分は何なのか、私はただ大勢の一人となった(つまりは社会に迎合しようと努力をしている)、そうして終いにはここで穏やかに死んでいくというのか。手に負える規模の生活と、穏やかな一人での暮らしを手に入れ、そして私は何かを失い続けている。それは「何か」と形容するにふさわしく、明言することは品位を貶めるかもしれないと思い、怖くてできない。

 大学の友人に久方ぶりに会い、その晩に大学の夢を見たときには閉口した。私はもう、片田舎での生活を温めているというのに。それはどこまでも自分にとって都合のいい夢だった。記憶を濾過して、きらめきを抽出して煮固めた、ガラス玉のような夢だった。
 私は忘れることが怖い。泥を這うような日々さえも鮮明に覚えていたい。けれど、このきらめきを煮詰めた夢のように、「感覚の記憶」以外のものがじわじわと失われていく。

 そういうことをきっかけにして、「京都で生きていた私」と「現在の片田舎の私」の位相が重なり合う瞬間が不意にある。冷房の効いた部屋で、夏に向かって窓を開けた時のように。京都で呼吸をしていた彼女が紛れもなく私自身だと気付くと、私は吐きそうになる。理由を説明するのは難しい。煮詰まったあまりにも毒々しい郷愁と、大学の炎天下の大通りと蝉の声と、講義室の冷房の鋭さと、そういったものが一挙に押し寄せて私の骨をみしりと潰す。

 吐きそうになる。失った記憶や当時の人格に、感覚的な「夏」が先行して思い出されるその記憶の乏しさに、忘れていくということと、二度と戻らないということに。そしてその、孤独が微塵にも香らないその記憶と(もちろんそれは何重にも濾過した結果のきらめいた思い出なのだが)、今の自分の、小さな生活を大事に抱えて一人で座っている自分とのギャップに眩暈がする。京都の「夏」があまりにも強烈で、だからこそ「夏の感覚」がここまで琴線に触れるのか、あるいは秋になっても冬になっても、未練たらしく向こうの道を眺めることになるのかは、今の私にはまだわからない。ただ一つ言えることは、季節が一歩一歩と進むにつれ、私は確実に忘れていくということである。

 あるいは、京都の夏を連想したのは、私がそれ以前に親しんだ土地の記憶をもう忘れ始めているからではないか、とも考えられる。それはやはり、私が忘れていくことの紛れもない証拠で、そのうち私は窓の外の熱気とエアコンの冷たさがまじりあった生温かさに触れても、京都を思い出すことがなくなるのかもしれない。体を構成する物質が入れ替わるように。

 それはとても悲しいことだと思う。


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