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【小説】 母はしばらく帰りません 37


それから結局、マティアスが帰って来ることもなく、

電話の一つもなかった。

しかしさすがに気にはかかったのか、

幾ばくかのお金が輝子の銀行口座に振り込まれていた。

何ヶ月分かの家賃に、少し色をつけたような金額は、

どう受け止めればいいのか、輝子にはちっとも分からなかった。

「あの男、殺して来ようかな」

ポツンと呟いたのは、輝子ではなく光太郎だった。

タマールがギョッとした顔をした。

「何いきなり物騒なこと言ってるんだ? 

危ない奴だなあ。大体さ、何であんたが怒るんだよ?」

「怒るに決まってんだろう。バカだな、テルちゃんは。

妊娠中ってちょっと頭がユルくなるんだな」

「はああ?」

「テルちゃんは余計なこと考えないで、

さっさと安らかに子供を産みなよ」

「ああ、それがいいね」

と、タマールがにこにこ笑いながら、横から口を添えた。

「お産ってさ、死ぬほど痛いんだってね。

人によっては三日とか、かかるらしいよ」

「ちょっとコタロー! 止めろよ。怖いじゃないか!」

「だから心の準備しなよ。それと入院の用意、

まだやっていないんでしょ? 

そんな弾けそうなお腹してるんだよ。

さっさとやってしまいなよ」

「う、うん」

と、輝子は渋々頷いた。

「俺たちもさっさとベビーベッド、組み立ててしまおうよ」

と、光太郎はタマールを促して立ち上がった。

出産予定日まで、もう三週間を切っていた。

はち切れそうに大きくなったお腹は重く、

入院準備をするだけで一仕事だった。

それなのに、ちょっと休んでいると、

光太郎かタマールのどちらかがやって来て、

やれ外を歩けだの、掃除をしろだの、

安産の為だと追い立てて来るのだった。

どうもそれ以外のことを考えさせないようにしているらしい、

と気づいてから、輝子は大人しく従うようになった。

もうこれ以上考えたくなかった。


この悲しいのだか、怒っているのだか、

情けないのだか、その全部が入り混じった、

まるで大きな毛玉の塊のようなものを、

輝子は一時忘れることにした。

少なくとも、子供を産むまでは。

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