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母はしばらく帰りません 12

 ランチを食べて家に帰ると、輝子と入れ違いに配達のカートを押しながら若い男が出て来て、家の前に止まった小型バンに乗って走り去った。
 玄関のドアを開けると、大量に紙袋やビニール袋が並んでいる。

「ただいまー! どうしたのこの袋?」
と、母が奥に呼び掛ける。

「今キッチンにいるだにー。悪いけんどー、その荷物を持って来てくれねえかねー!」
と、マギーの声が返って来た。

 輝子と母が手分けして荷物をキッチンに運んで、驚いた。そこには運んで来た倍の量の荷物が、調理台の上や床に並んでいた。

「どうしたの、この大荷物は?」

「ネットスーパーの配達だがね」
 マギーはせっせと冷蔵庫に果物を詰め込みながら答えた。

「ああ、それは便利でいいわね。でも凄い量! 一ヶ月分くらいあるんじゃない?」
と、言いかけた母は、途中でハッと気づいて、
「もしかしなくても、私達が来たせいよね」
と、申し訳なさそうに言ったが、マギーはキョトンとした顔をして言った。

「うんにゃ。これは一週間分だがね。いつものさ」

「……まあ、そうなの」
と、母は何でもないように言って、しかしちらりと炭酸飲料のペットボトルや袋菓子の徳用パックに、非難がましい目を向けた。老人と中年女二人の一週間分の食料には、到底見えない。しかしマギーはそんな視線など、全く気づいていないようで、冷凍庫にドンドン品物を押し込む。輝子はそれを手伝いながら、こんなに色んな種類の冷凍食品があることに驚いていた。

「わ、すごい、これ。アイスクリーム? それともケーキ?」
と、黒いチェリーとチョコレートで飾り立てられた生クリームのケーキを持ち上げた。今迄食べた、どんな誕生日ケーキより巨大だ。

「ブラックフォレストっていうケーキよ」

「でも凍っているよ。アイスクリームじゃないの?」

「常温でしばらく置いたら、普通に食べれるケーキよ」

「ふえー。そんなの初めて見た!」
と、輝子は感心してしまった。

「ケーキが好きだかね?」
と、マギーがにこにこしながらケーキの箱を受け取った。

「私も好きだよ。このケーキは美味しいね。イギリスでは一番だ。今夜のデザートに出してやろうね。今から置いとけば、解凍されていい塩梅になるやね」
 その晩の夕食は、山のようなフライドチキンと、なぜかこれだけはイギリス風に、クッタクタに茹で抜かれた野菜の付け合わせだった。

 輝子は今迄食べたどんな誕生日ケーキより甘い、ブラックフォレストの一切れから、無理矢理三分の一を口に押し込み、絶望的な胸焼けを味わった。

「明日の夕食は、私が作るわ」

 デザートを断り、食後のコーヒーを飲みながら、母が言った。

「久しぶりに日本食とか、食べたくない、アンドリュー?」
と、祖父に向けられた質問に、輝子は胸をときめかせた。
 久しぶりの母のご飯! それに和食!

「それは良かねえ。あたしは日本食、初めてだよう。中国料理はよく食べるけんどね。あれは美味しいね。特に、ほら、あの甘いソースがかかった豚肉の揚げたの、何て言ったかねえ?」
と、アンドリューより先に、身を乗り出して来るマギーに、輝子は内心ホッとしていた。「あたしの台所を触らないで」のようなことを言い出したらどうしよう、と密かに心配していたのだ。

「日本食かあ。そうだねえ、長いこと食べていないね」

「肉じゃがなんてどう? 好きだったでしょう?」

「うーん」
と、困ったような顔をするので、娘を傷つけないように断る理由を考えているのかと思ったが、
「肉じゃがより、豚の生姜焼きがいいね」
と、祖父は穏やかな笑みを浮かべて言った。

「アンドリューおじいちゃんってさ、昔っからあんな感じなの?」
と、輝子は言った。

「あんな感じって?」

「プチ引きこもりな感じ」

 母は輝子の小生意気な口振りをたしなめるより、苦笑いで受け止めた。
 まず、朝は年寄りにしては随分ゆっくりで、輝子より後に起きて来る。マギーに補助されながら着替えて、髭を剃り、階下の居間に降りて来る。それからテレビの前の一人掛けソファが、彼の一日の所定の位置となる。こっそりと砂糖をたっぷり足した紅茶を飲み、冷めたトーストを齧り、少しシリアルを食べる。
 新聞を読んだり、テレビを見たり、うとうとしたり、やがて昼になると、マギーの作ったハムとチーズのサンドイッチを、ミルクで流し込む。それから夕食までは、うたた寝するか、テレビを観るかだ。それも祖父の趣味なのか、第二次世界大戦のドキュメンタリーか映画、もしくはウェスタンばかりだ。どうもその二つを専門にしたチャンネルがあるらしい。
 輝子からすれば、祖父の毎日はあまりにも退屈だった。

「たった一人の孫娘と仲良くなれるチャンスは嬉しい」

 などと、輝子たちがこの家に来た日には言っていたが、その言葉に嘘はなかったのだろうが、実際に数日一緒に生活してみても、輝子と積極的に親しもうという感じでもない。
 赤ん坊の頃に何度か会って以来、ほぼ初対面の外国人の孫に、正直どんな話をすればいいのか分からず、困惑しているようでも会った。それに、元々お喋りな人と言うには遠く、一言、二言くらい喋っても、それに答える間も無くマギーの機関銃のようなトークに気圧されて、ただ黙々と食事を口に運ぶだけ、となってしまうのだった。
 それにしても単調な毎日で、母は内心、ボケてしまいやしないかと心配していたらしい。何度か散歩に誘っても、億劫だとつれなく断る。友達と会ったり、パブに行ったりはしないのか、とマギーに聞いてみたが、

「お酒は体に良くないね」
と、素っ気なく撥ね付けられた。
 どうやら外出は月に一度か二度の医者通いと、歯医者に限られているらしい。

「この前ねえ、ひっどい虫歯になって、大変な目に合っただよ。毎週通ってね。もちろんあたしも付き添った。でもミスターは子供みていに、いやいや、いやいや言って、まあ往生したよう」
と、マギーは自分の苦労をまくし立てた。どうやらアンドリューが紅茶に入れる砂糖を目の敵にしているのは、その辺りが原因のようだった。

 しかし食後のデザートには、アイスクリームやケーキを容赦無く盛り上げる。その辺りが子供の輝子には理解不能だった。

「だからさ、やっぱり車があったが良かよね? そう思うやろ?」
と、マギーが唐突に言い出した。

「は?」

 何が「やっぱり」なのか、なぜここに車が出て来るのか、エレノアにはちっとも分からなかった。

「だからさあ、すんごいすんごい大変なんだよ、医者に行くにしてもなあ?」

 どうもマギーが言いたいのは、医者も歯医者も、タクシーで通うには近過ぎて断られることがあり、でも歩くには遠過ぎる。バスもあるが本数が少なく大変だ、ということらしい。

「でも車って、アンドリューは免許を持っているはずだけど、あの体で運転出来るかしら?」

「もちろん、あたしは運転出来るべよ! 国で取った免許証があるけんよ。なーに、ちょっと練習に行かせてもろたら、すーぐここでも運転出来るようになるさ」

 だから車を購入するように、アンドリューに進言しろと言いたいのだった。

「あ、ああ、そうね。機会を見て父と話し合ってみるわ」

「そうしてくんな。やっぱ車さあ、あれば便利かよ。買い物もなあ、寒くなって来ると難儀やけん」

 毎週あれだけ大量に、ネットスーパーから届けさせて、これ以上一体何を買うつもりなのかと、母は首を捻った。
 しかし例え、マギーが車を購入させることに成功しても、祖父がそれに乗って遠出を楽しむようなことはなさそうだな、と思った。
 日本のおじいちゃんとは全然違う、と数年前に亡くなった、父方の祖父を思い出した。魚釣りにゴルフ、バーベキューと、アウトドアな趣味が好みだった。亡くなるちょっと前まで、趣味仲間と元気に遊び歩いていたような人だった。

「そういえば私、よく考えたら、自分のお父さんのこと、あまり知らないのだわ」
と、客間で輝子と二人きりになって、母が唐突に言った。

「自分のお父さんなのに? どうして?」

「うーん、そうだねえ。テルちゃんは桃子おばあちゃんのこと、憶えている?」

「母さんのお母さんでしょ?」
 数年前にイギリスで亡くなった、日本人の祖母だ。

「うん。アンドリューとおばあちゃんはね、私が大学生の時に離婚したの。でもその時は私は、家を出て大学のお友達と一緒に暮らしていたから、特に困ったりはしなかったのだけど」

「でも、悲しかったよ」

「え?」

 母は思いがけない言葉に、驚いた顔をした。

「自分のお父さんとお母さんが離婚して、悲しかったでしょう?」

「そうだね……。悲しかった。でももう大人だったから、あまりそう言うことは言わなかったな。言えば良かったね」

「そうかもね」

「それでね、こんなこというのはどうかと思うけど、私はアンドリューより、お母さんの方が好きだった。だから大学が休みの時も、ついつい帰るのは、お母さんの家ばかりになっていったの」

「お母さんのお家の方が、ご飯が美味しいしねえ」

「それもあったわね、確かに。でも別に、アンドリューとは仲良しだったの。時々、食事に行ったり、電話したり。でも私は、大学を卒業して日本に行ってしまって、アンドリューは新しい人と結婚した」

「え! おじいちゃんって、新しい奥さんがいたの? も、もしかしてあのマギーさん?」

「まさか! 違う人よ」
と、母は即答し、輝子はなぜかホッとした。

「その新しい奥さんは、しばらくして病気で亡くなられたから、そんなにたくさんは知らないけれど、良い人だったのよ。このお家も二人が結婚してから、引っ越して来た家なの」

「そうなんだ! じゃあここは、母さんの家じゃなかったんだ」

 母は悲しげに首を振った。
 母の生家は、母の両親の離婚と同時に売却されて、今は見知らぬ人の家になっていた。

「それから、私は日本で暮らして、大志さんと結婚したのだけど、その時ちょっと喧嘩しちゃって……」

「何で? おじいちゃんは父さんのこと嫌いだった?」

「ううん。大志さん自身がどうってことじゃなくて、アンドリューは私が外国人と結婚するのが嫌、みたいなことを言ったわ。それで私は怒っちゃってね。だって、何だか私のお母さんのことまで否定されたような気持ちになって、それで余計腹を立てたのね」

「それって、桃子おばあちゃんが外国人だったから?」

「そう。でも後々になって、よーく冷静になって考えてみれば、アンドリューは、私が外国人と結婚するのが嫌っていうか、私が結婚してずっと外国に住むのが嫌だったのかも、って」

「多分、そうだと思うよ。寂しかったんだよ、きっと」
と、輝子は訳知り顔で頷いた。

「大志さんにも、同じことを言われたのよね……」

 母はそれからしばらく考え込んでいた。母が何を考えていたのかは、子供の輝子にはよくわからなかったが、そんな母の横顔は、洗濯したてのタオルの端を揃えて畳み、棚にきっちり並べている時の顔と同じだった。
 その作業が終わった時、母はいかにもスッキリした顔で、
「テルちゃん。生姜焼き、楽しみだね」
と、微笑んで言った。

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