【小説】 母はしばらく帰りません 33
不協和音が聞こえ始めたのは、いつだったのか。
マティアスと暮らすために、キムとの共同生活を終わらせたのも、
その一つだったのかも知れない。
長く一緒に暮らした割に、別れはあっさりしていた。
「また、近いうちに会おう」
と、言ったものの、当分顔を合わせることもないだろうな、
とお互い思っているのが分かった。
実際、二人が再び会ったのは、子供が生まれた後だ。
検査でお腹の子供の性別が判明して、
マティアスの反応が思ったようでなかったこと。
それもまた、歯車の軋む音だったのかも知れない。
それでも、あちこちに散らばった不安の種に、
見て見ぬ振りをして、八ヶ月に入ったところで結婚をした。
「もし、テルがしたいならしよう。俺はどっちでも構わないから」
と、マティは言ったが、輝子も特に結婚へのこだわりはなかった。
元々は、イギリスでは事実婚と言うのか、
結婚という手続きを飛ばして、パートナーとして一緒に暮らし、
子供も居る家庭は多い。
そしてそれに、社会的にも不都合はない。
そういうわけで、輝子も結婚はしてもしなくてもいいが、
結婚式だけはしたくなかった。
面倒くさい。ましてや派手な衣装を着て、
大勢の前で晒し者になるなんて、まっぴらだ!
と、言う訳で結婚はパスしよう、と思っていたのだが、
思いがけないところから猛反対にあった。
母のエレノアだ。
「ダメよ、テルちゃん! ちゃんとしなくてはね。
生まれる赤ちゃんの為にも、
あなたたちは誰に恥じることのない関係にならないといけないわ。
正式に、堂々とお父さんとお母さんになるべきよ!」
と、二人の結婚を執拗に迫ったのだった。
When are you going to make an honest woman out of her?
と、電話越しに詰め寄られた、とマティは困ったように笑っていた。
「いつあなたは私の娘を「正直な女」にしてくれるの?」
と、直訳すればこんな感じか。
つまりいつ私の娘を「正式な妻」にするのか、
と言う意味だ。古臭く、宗教色を感じる言い回しに、
輝子より年若いマティアスが、つい苦笑した気持ちも分かった。
でも後々になって、この時の母の気持ちが
薄ぼんやりとだがわかるようになった。
「私の娘を蔑ろにしないで」
母はただ、輝子を大事にして欲しかっただけだ。
出来ることなら、自分がしているのと同じか、それ以上に。
そんな母の強さに押されたこともあり、
そして子供の国籍やその他の手続きのことを考えると、
一番手っ取り早いこともあり、結婚することになった。
輝子はもちろんマティアスも、
華やかなウェディングには興味がなかったし、
敬虔なクリスチャンでもなかったので、教会での式は選択になく、
自宅から一番近い登記所での簡単な式になった。
それでもおめでたいことだから、
と輝子は頑張って新しい服を買った。
白いシャツに濃いグリーンのプリーツスカートと、
あまり花嫁衣装らしくはないが、
フワッと軽やかな生地が、春らしく気に入った。
「テルがスカート履いたの、初めて見た!」
と、マティアスは騒いだ。
当日は平日だったが、マティの友人が多く集まってくれた。
元ハウスメイトのザラも来ていて、
「テルったら、まるでヴィクトリア時代の女教師みたいよ。
素敵だけど、ウェディングには地味だわ」
と、スカートと同じ色のリボンを見つけて来て、
器用に髪を編んでくれた。そればかりか、
ピンクの薔薇の小さな花束も用意してくれた。
「マティは、花嫁のブーケなんて、思いつきもしなかったでしょ?
全く気が利かないんだから」
と、まるで花婿の姉妹のような気の回し方だった。
式の後は近くのパブで祝杯を挙げた。
それは自分たちらしい式だったと、輝子は満足だった。
ただ残念だったのが、キムが出張中で出席出来なかったことだった。
式の後、登記所の前で写真をとった。
参列者も全員交えた写真では、まるで花嫁の介添えのように、
ザラが輝子に寄り添って晴れやかな笑顔を浮かべていた。
当日は、輝子の体調を気づかったり、来てくれた人たちを案内したりと、
まるで身内のように忙しく動き回ってくれて、
感謝はしていたが、けれど本当はこうしてくれるのが、
キムだったらなあ、と寂しく思っていた。
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