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美しきケリー周遊路

2009年3月11日~21日 アイルランド紀行20
3月17日 晴天
Killarney - Ring of Kelly - Killarney

ケリー周遊路は本当に美しかった。
山間の緑野に流れる川は青く、川辺には野花が咲き乱れていた。

かと思えば突然に海岸線にでて、入り江の向こうになだらかなディングル半島の姿が見えた。

向こうにディングル半島を臨む

その入り江が時として狭まり、川と見分けがつかなくなる。青色と大地の緑が、絶妙なコントラストを作り出していた。

「美しいね。」
「本当に美しいね。」
そういう会話が何度もかわされた。

ふと気がついたことは、普段は美しいものを見る時に「きれいだね」とは言うけど、「美しいね」とはあまり言わないことだ。「きれい」が英語のbetterだとしたら、「美しい」は最上級のbestかもしれない。「美しい」と称するものは、シンプルで、すごいパワーがある。

美しい自然に、心が動く、釘付けになる。
そして、いつの間にか自分が洗われている。
真に癒されるというは、こういうことなのかもしれない。

スケリッグ・マイケルと言われる島々を見るためには、途中ケリー周遊路をはずれ、半島の突端にに向かう必要がある。我々は右折をして、細い道に入り込んだ。太陽がだいぶ西に傾いていた。

スケリッグ・マイケルは初期キリスト教の修道僧が移り住んだ島で、「ミカエルの岩」の意。彼らは切り立った崖の上に、石を積み上げた家を作り、厳しい自然の中で難行苦行をすることに神への道を見いだした。

前世で修道僧だったのか、はたまた修道女だったのか、私はキリスト教系の遺跡や、修行系になぜか惹かれる。
テレビ番組「世界遺産」でスケリッグ・マイケルが取り扱われたときに、モナスターボイスの渦巻きと同じように心がときめき、ゼヒ来たいと思ったものだ。季節がよかったら船に乗ってスケリッグマイケルに実際に足を踏み入れたかったのだが、あいにく船はイースター過ぎからしか運航しなかった。

「見えた!」
半島の突端近く、けぶる遠景に二つの島影が見える。
スケリッグ・マイケルと無人の小スケリッグ島。

二島を臨んで、本当に絶海の孤島なのだと、あらためて思う。
周囲とのかかわりが断絶された環境で、潮の混じった風雨に耐え、毎日祈り、神と対峙し、自分と対峙し……気が遠くなりそうだ。何が人間にそのような厳しいものを選択させるのだろう。何が突き動かすのであろう。
原罪をあがなうために?果たして人間はそんなに生まれつき罪深いものであろうか。

カメラに島影を収めようと車から一歩でたときに、なぜ船がイースターまで動いてないか、瞬時に理解できた。すごい突風!身体が持っていかれそうだ。青く広がる大西洋は一見穏やかそうに見えたが、実はものすごい高波なのだろう。

スケリッグ・マイケルの上陸はかなわなかったが、
春霞にけぶる島影を見ながら「ありがとう」と、叫んでいた。
ここまで来てくれた夫に?修行僧に?生きていることに?はてはて。
最果てに来ると人は叫びたくなるのかもしれない。

自分の影が伸びる辺りに巨石が佇んでいた。
視野を広く持つと、その巨石のまわりにいくつもの岩が丸く点在している。
ガイドには記されてないが……こういうストーン・サークルがアイルランドにはいくつもあるのかもしれない。

そして岩の影と自分の影が、日の入りが近いことを知らせていた。落ち始めた太陽が当たる山と、その影が大きく映る山の間を通り抜け、帰路を急ぐ。

海岸沿いのケリー周遊路を走っているときに、ちょうど日の入りを向かえた。大西洋に太陽が落ちていき、染まっていく空にに飛行機雲がアクセントをそえる。

「美しい。」
「美しいね。」

車を降りて、夫は夕日が落ちるのをコマ送りで再現できそうなほど、シャッターを押し続けていた。こうして極上の晴れの日が暮れていった。

※この旅行記は以前に閉じたブログの記事に加筆して、2023年春にnoteに書き写してます。




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