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【母がした介護】 今さらだけど 愚痴を聞かせて欲しい

 今週、精神疾患を抱えた妻の介護と仕事、苦悩の日々を綴った『妻はサバイバー』永田豊隆著を読みました。そこで私の母が 父の母である私の祖母(母にとっては義理の母)を介護していたことを思い出しました。

私が幼稚園、小学校、中学校の頃の話。特に印象に残ったことについて書いてみます。

台風の日

その日は強い台風が接近していました。祖母が自宅の敷地にある自身の商店の戸を閉めに行った時、自分ではめるタイプの大きな戸を持っていたため、強風にあおられ頭部を強打しました。

そこから、入院、退院と介護の日々が続くことになります。私が幼稚園の頃の話。元々もの忘れがひどい祖母は意思疎通ができなくなりました。祖母は59歳、母が30歳を過ぎた頃でしょうか。

部屋をぐるぐる

私はそれまでおばあちゃん子で、ひざの上で歌ったり、あいうえおを教えてもらったりした記憶があります。幼稚園に上がる前は、母の出勤中は祖母が私の面倒を見てくれていました。

頭部強打の後、意思疎通ができなくなった祖母に、ある日私は歌を歌いながら一緒に部屋をぐるぐる回りました。

「お手て つないで 野道を行けば 
   みんな 可愛い 小鳥になって」

小学校教師をしていた祖母はその歌の記憶がくっきり残っていたようです。それ以来、口ずさみながら部屋をぐるぐる回るようになりました。

父の言葉

そんな生活が5年くらい続き、徐々に状態が悪くなってきた祖母は入院することになりました。入院して2年後くらいかな 祖母が亡くなりました。
葬儀の時に

「入院させるとき、つらかったなぁ
生きて帰れることはないと思ったからなぁ」

ぼそっと言った、父のこの言葉を私はよく憶えています。

今回、このことを書くにあたって当時のことを確認したところ。
母が語ってくれたのは、葬儀の翌日が中学生の私の遠足で、お弁当のことが全く頭になかったので、慌てて日の丸弁当を用意したそう。私は憶えてなかたけど、恥ずかしくてお弁当を隠しながら食べたと母に報告したのだとか。

母の気持ち

今回、想ったのは母の気持ちです。当時私は幼かったので、母の気持ちに寄り添うことなどなく。当たり前のことのように思っていました。
今思うと、まだ若い母、義理の母の介護。今の自分にできる?
母は介護のため、高校の事務の仕事を辞めました。

食事を口に運ぶ。着替え、トイレ、お風呂、ありとあらゆることが必要です。家族全員で旅行に出かけることは少なかったなー 年に1度は父の妹、叔母が来てくれて、家族全員で旅行することはできたけれど。

母がその生活に対し、当時 愚痴をこぼしている姿は見たことがなかったな。

聞かせて欲しい

『妻はサバイバー』のルポを見て感じたこと。介護を伴う家族は孤立しがち。中では壮絶な生活が繰り広げられていたとしても、外からは見えない。
祖母の場合は、精神疾患ではなく認知症のような症状だったので ルポのような壮絶さはなかったけれど。私のお母さんは大丈夫だったのだろうか。誰かに愚痴を言えてたかな。

「よくやっていた」「文句ひとつ言わず」

介護をこんなふうに、「美談で終わらせてはいけないな」と思いました。家族で抱え込まずに外に気軽に頼れる体制になっているんだろうかと気になります。周囲に見えづらいので世間の理解も得づらい。ルポにも書いてあったけれど、介護をする人の心身が蝕まれていく現状に もっと光を当てられればいいのに。病む人も、支える人も共に生きやすい社会になれば。

ちょっと違うけど、パリの 私が住んでる区ではベビーシッターチケットをひとり親家庭に支給しています。ちょっと頼りたい時に 専門のエージェントに気軽に頼れる。痒い所に手が届く よくできた配慮だなと思います。こんなふうに、介護している家族が孤立せず、支援を先回りするように地域、社会が変わっていけばいいな。

当時は、祖母の介護をデイサービスなど外部の人に頼んだことはなかったな。入院が最初で最後。

自分で大きなことができる訳ではないから。今、私にできることはなんだろう。
父が「当時は本当に よくやってくれてたと思います」と20年後、母の目の前で他の人に言ってるのを聞けて、私はストンとそれまでの塊が落ちる気がしました。

あの日々がどうだったのか、どんな想いでおばあちゃんと接していたのか。当時の母の年齢を越えた私は、せめてじっくり話を聞いてみたいなと思います。
お母さんに もっと光を当てたい。

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