退職後の競業行為の差止めその2(否定例)
おはようございます。弁護士の檜山洋子です。
昨日に続き、今日は退職後の競業行為の差止めについてです。
昨日は、退職後の競業行為を制限する合意が有効とされた事例を紹介しましたが、今日は、合意の有効性が否定された事例を紹介します。
東京リーガルマインド事件(東京地方裁判所平成7年10月16日判決)
私も司法試験受験時代にはお世話になった東京リーガルマインド(通称「レック」)の事件です。
【事案】
1 債権者の制度
司法試験受験予備校の大手である債権者(レック)は、従業員数の増加に伴う人事管理の必要等から、平成3年に従業員就業規則と企業秘密管理規程を作成しました。
この従業員就業規則においては、当初、労働契約存続中の競業避止義務を定め、これに違反した場合(債権者の承認を得ないで社外の職務に従事し、又は事業を始めた場合)を懲戒解雇事由として規定していましたが、債権者は、平成3年11月1日の取締役会の決議によって右就業規則の内容を変更し、労働契約存続中の競業避止義務に関する規定に加え、従業員の退職後の競業避止義務に関する条項を新設して、「従業員は、会社と競合関係にたつ企業に就職、出向、役員就任、その他形態のいかんを問わず退職後2年以内は関与してはならない。従業員は、会社と競合関係にたつ事業を退職後2年以内にみずから開業してはならない。」と規定して労働基準監督署に届け出ました。
債権者は、本件就業規則の変更に先立つ平成3年10月、従業員に、以下のように記載された誓約書(本件従業員誓約書)に署名捺印させて提出させました。
株式会社東京リーガルマインド代表取締役西肇殿
・・・私が、株式会社東京リーガルマインド(以下当社という)の業務に従事するについて、以下の事項を遵守することを誓約いたします。
・・・
4 当社の企業秘密については、別に定める当社の「企業秘密管理規程」を遵守すること。
5 当社を退職した後も下記の行為をしないこと。
(1) 当社と競合関係にたつ企業に就職、出向、役員就任、その他形態のいかんを問わず2年以内に関与すること。
(2) 当社と競業関係にたつ事業を自ら2年以内に開業すること。
6 上記4、5に違反して、当社に損害が生じた場合は、その生じた損害につき賠償責任を負うこと。
また、債権者は、平成3年10月18日ないし21日に、当時の各取締役及び監査役に、以下の誓約書(本件役員誓約書)に署名捺印させてこれを提出させました。
株式会社東京リーガルマインド代表取締役西肇殿
・・・私が、株式会社東京リーガルマインド(以下当社という)の役員(取締役または監査役)に就任した後は、以下の事項を遵守することを誓約いたします。
・・・
5 当社を退職した後も下記の行為をしないこと。
(1) 当社と競合関係にたつ企業に就職、出向、役員就任、その他形態のいかんを問わず2年以内に関与すること。
(2) 当社と競業関係にたつ事業を自ら2年以内に開業すること。
6 上記1ないし5に違反して、当社に損害が生じた場合は、その生じた損害につき賠償責任を負うこと。損害の額は、当社の算出した額と推定すること。
債務者伊藤真も、平成3年10月18日、本件役員誓約書に署名捺印の上これを当時の債権者代表取締役西肇に提出しました。
債務者西肇は本件役員誓約書を提出していませんが、誓約書の記載内容を誓約する意思がなかったからではなく、自身が代表取締役であったからでした。
また、平成4年6月27日の取締役会において、株主総会で選任された取締役及び監査役を対象とする役員就業規則が作成され、従業員の退職後の競業避止義務に関する条項と同様の条項が設けられることになる旨説明されました。この取締役会には監査役であった反町勝夫のほか、各取締役及び監査役が出席しており、債務者らも出席していましたが、特に異論は出ませんでした(本件役員就業規則)。
従業員が退職する際には、以下の内容の「貴社の企業秘密保持に関する誓約書」に署名捺印させてこれを提出させる扱いにしていましたが、実際には全員が提出しているわけではありませんでした。
株式会社東京リーガルマインド御中
・・・
2 わたしが業務上知り得た貴社の秘密、ノウハウ等は退職後は絶対に他人に漏洩いたしません。
3 貴社を退職後も下記の行為をしないことを誓約いたします。
(1) 貴社と競合関係にたつ企業に就職、出向、役員就任、その他形態のいかんを問わず二年以内に関与すること。
(2) 貴社と競合関係にたつ事業を自ら2年以内に開業すること。
4 上記2、3に違反して、貴社に損害が生じた場合は、その生じた損害につき賠償責任を負います。
債務者らは、退職に当たってこのような「貴社の企業秘密保持に関する誓約書」は提出していませんでした。
なお、債権者において、これらの就業規則の変更や誓約書の作成をしたのは、債権者の役員の間で営業秘密の管理並びに競業避止義務を定める就業規則及び特約整備の必要性が認識されたためでした。
2 債務者らの地位
債務者伊藤真は、昭和56年以降債権者の看板専任講師として債権者の業務である司法試験指導に携わり、昭和61年4月には監査役に就任しました。そして、平成7年3月に監査役を辞任し、同年4月、退職金1000万円を受領して、同年5月25日まで担当した講義の終了をもって債権者との契約関係は終了しました。
債務者西肇は、昭和57年ころから債権者において働くようになり、昭和59年5月に取締役に就任し、昭和61年4月から平成5年12月まで代表取締役の、その後平成6年3月まで監査役の各地位にありましたが、同月退職しました。
3 覚書による合意
債務者伊藤真は、債権者の会長の肩書を有し債権者の意思決定の権限を有する反町勝夫との間で、反町勝夫が債権者のためにすることを示して、平成7年4月24日、覚書を取り交わして次の内容の合意をしました。
(一) 債権者は債務者伊藤真の個人用として、同債務者の行った2年分の講義カセットテープ及び教材を引き渡す。
(二) 同債務者は、同債務者が行った講義に関する制作物一切の著作権・編集権が債権者に帰属することを確認する。
(三) 同債務者は、債権者を退職後、債権者と競合する他社の業務に参画し、若しくは、同債務者が債権者以外の者とともに、又はその者の下で、あるいは単独で、債権者と競合する業務を行う場合は、事前に債権者と協議する。ただし、同債務者は早稲田経営学院及び辰巳法律研究所とは、今後一切関わりを持たない。
(四) 同債務者は在職中、知り得た業務に関するノウハウ・秘密を漏洩しない。
(五) 債権者は、同債務者に対し、退職金1000万円を支払う。
4 債務者らの競業行為
債務者らは、平成7年5月2日、国家試験、資格試験等の受験指導等を目的とする株式会社法学館を設立し、債務者西肇が代表取締役に就任したのを始めとして当初は同債務者の一族が取締役3名及び監査役1名からなる役員を占めていましたが、同年5月26日、うち取締役1名及び監査役が辞任し、取締役に債務者伊藤真の父伊藤勉、監査役に債務者伊藤真が就任しました。
債務者らは、西村勝美とともに、同年6月9日、反町勝夫のほか、債権者の取締役全員に対し、司法試験受験指導を行う機関を作り、司法試験受験指導を行うなどと告げた上、その直後から、大学生、司法試験受験生を対象に「伊藤真からの手紙」と題するパンフレットを頒布して司法試験受験指導を行う「伊藤真の司法試験塾」の講座に入会するよう勧誘し、同年6月及び7月には説明会を開いて講座申込を募集し、同年10月から本格的に講座が開始されました。
そこで、債権者は、債務者伊藤真に対し、競業避止義務を定める従業員就業規則、役員就業規則及び個別の特約に基づき、債務者西肇に対し、役員就業規則及び従業員就業規則に基づき、司法試験受験予備校の営業等の差止めを求めて仮処分命令を申し立てました。
【判決】
東京地方裁判所は、以下の理由により、債権者の申立をいずれも却下しました。
まず、従業員の退職後の競業避止義務条項を追加した本件就業規則の変更は、従業員に退職後まで競業避止義務を課さなければ債権者の保護されるべき正当な利益が侵害されることになる場合において、必要かつ相当な限度で競業避止義務を課するものであるということができ、その合理性を肯定することができる、とした上で、以下のように述べました。
・・・競業避止義務を定める特約が、もともと当事者間の契約なくして実定法上労働契約終了後の競業避止義務を肯定し得る場合について、競業禁止期間、禁止される競業行為の範囲、場所につき約定し、競業避止義務の内容を具体化しつつ競業避止義務の存することを確認したものであるか、それとも、そのような場合ではなく競業避止義務を合意により創出するものであるかを区別する必要がある。前者の場合には、競業行為の禁止の内容が労働者であった者が退職後であっても負うべき秘密保持義務確保の目的のために必要かつ相当な限度を超えていないかどうかを判断し、右の限度を超えているものは公序良俗に反して無効となるものと考えられる。右の判断に当たっては、労働者が使用者の下でどのような地位にあり、どのような職務に従事していたか、当該特約において競業行為を禁止する期間、地域及び対象職種がどのように定められており、退職した役員又は労働者が職業に就くについて具体的にどのような制約を受けることになるか等の事情を勘案し、使用者の営業秘密防衛のためには退職した労働者に競業避止義務賦課による不利益を受忍させることが必要であるとともに、その不利益が必要な限度を超えるものではないといえるか否かを判断すべきであり、当該特約を有効と判断するためには使用者が競業避止義務賦課の代償措置を執ったことが必要不可欠であるとはいえないが、補完事由として考慮の対象となるものというべきである。これに対し、後者の場合には、労働者は、もともとそのような義務がないにもかかわらず、専ら使用者の利益確保のために特約により退職後の競業避止義務を負担するのであるから、使用者が確保しようとする利益に照らし、競業行為の禁止の内容が必要最小限度にとどまっており、かつ、右競業行為禁止により労働者の受ける不利益に対する十分な代償措置を執っていることを要するものと考えられる。
さらに、競業避止義務違反又はその違反の虞があるために競業行為の差止めを請求するには、当該競業行為により使用者が営業上の利益を現に侵害され、又は侵害される具体的なおそれがある場合であることを要するものと解するのが相当であることは既に述べたとおりであり、この実体的要件を許容しない内容の特約は、公序良俗に反して無効であるというべきである。
そして、以下のように述べ、本件における競業避止義務特約は、債務者伊藤真については無効であるとしました。
・・・債権者の監査役の職務内容が実定法上委任契約終了後の競業避止義務を肯定し得るようなものであったことの主張疎明はされていないから、本件における競業避止義務特約は、もともと当事者間の契約なくして実定法上委任契約終了後の競業避止義務を肯定し得る場合についてのものではなく、競業避止義務を合意により創出するものであることになるところ、監査役についてまで競業行為を禁止することの合理的な理由が疎明されておらず、使用者が確保しようとする利益が何か自体明らかではなく、競業行為の禁止される場所の制限がなく、同債務者に対して支払われた退職金がその金額が1000万円にとどまり、同債務者の専任講師としての貢献が大きかったことに照らし、右退職金が監査役退任後2年間の競業避止義務の代償であると認めることはできないことからすれば、競業禁止期間が退職後2年間だけ存するという比較的短期間に限られたものであることを考えても、目的達成のために執られている競業行為の禁止措置の内容が必要最小限度にとどまっており、かつ、右競業行為禁止により労働者の受ける不利益に対する十分な代償措置を執っているということはできないから、同債務者と債権者との間の本件役員誓約書及び本件役員就業規則における退職後の競業避止義務に関する条項の内容の約定は、公序良俗に反して無効といわざるを得ない。
債務者西肇については、代表取締役として債権者の営業秘密を取り扱い得る地位にあったものといえるから、秘密保持義務確保の目的のために必要かつ相当な限度を超えているとは認められず、前記競業避止義務特約が公序良俗に反して無効であるということはできないとしつつ、「同債務者が株式会社法学館の代表取締役を務め、株式会社法学館が営業主体となって「伊藤真の司法試験塾」名での司法試験受験指導を行っていることだけでは、同債務者が秘密保持義務に違反する行為を行い、又は違反する行為を行う具体的なおそれがあると認めるに足りず、そのほかには同債務者が秘密保持義務に違反する行為を行い、又は違反する行為を行う具体的なおそれがあると認めるに足りる疎明資料はない。」としました。
明確な基準はない
この裁判例と昨日の裁判例をあわせて読んでいただければわかるように、競業避止義務特約の有効性は、情報の質や管理方法、当該従業員の立場や地位、退職時の条件等、様々な要素によって決まってきます。
元従業員が退職後に、自社の大切な企業秘密を利用してがっぽり儲けているなんて、会社としては絶対に許せない気持ちになりますよね・・・
しかし、それが必ず契約違反になるとは限りません。
「伊藤真」は、レック時代から既にその名前がブランドになるほどのカリスマ講師でした(私も講義テープ(当時はカセットテープでした・・・)でお世話になりました)。
それほどのやり手の人材を退職後も縛ろうと思えば、相当な対価を支払っておくべきだったのでしょうね。実際、2年間も「伊藤真」が受験業界からいなくなるというのは、受験生にとっても大きな痛手でしたでしょうから、それだけの価値のある講師にはそれなりの待遇が必要だったと思います。