タクシーに転職するまで ④【お墓のセールスマン】
1992年、31歳の時に、私は墓石営業の仕事を始めた。
前職の中古ビデオ屋の仕事が駄目になったので、何か高収入の仕事はないかと、新聞の募集広告で見つけたのだ。
私は、その頃、妻と生まれたばかりの息子と一緒に横浜の街で暮らすようになっていた。
アパートは、ランドマークタワーが見える西区の高台にあった。
私と妻は、前から横浜に住みたいと思っていたので、念願の生活を手に入れて、毎日楽しく暮らした。
と書きたいところだが、ビデオ屋を辞め、引っ越しもしたので、貯金がなくなり、1日も早く稼げる仕事を探さなければならなかった。
私が就職したのは、霊園事業 を行う墓石の販売会社だった。本社は東京にあり、私は 出来たばかりの神奈川営業所に配属された。
私は営業の仕事は全くの初めてだったが、特に物怖じすることもなく、どんどん仕事を進めていった。
会社では、横浜近郊に自社開発の新規霊園を立ち上げていたので仕事はやりやすかった。同じ霊園内に競合の石材店がいなかったからだ。
私は霊園のチラシを、周辺の住宅に片っ端からポスティングして回った。仕事が終わってからやったので1日1000枚ぐらい。同期の営業社員は他に3人いたが、誰もやらなかったので、私は一人で黙々と暗くなるまでやった。全てのチラシに、分かるように自分の印鑑を押した。
次の土日に反応が出た。チラシを見たお客が霊園を見に来て、その場で契約してくれたのだ。 3.0㎡が1件、1.5㎡が1件。
墓石工事の売上にして2件で500万円くらい行った。
これには私も驚いたし、同僚や上司も驚いた。大した努力ではなかったが、私は最初の月に1600万円の売り上げを上げた。
後から考えると、この新規霊園の周辺には霊園がなく、近くにお墓を建てたいと思っている人がたくさんいたということだった。絵に書いたようなビギナーズラックだった。
私は半年ほどその霊園を担当して、墓石工事の契約の仕方、霊園の管理、法事や納骨の手伝い、お寺との付き合い方等を学んだ。そして、その後、鎌倉や藤沢の別の霊園も販売するようになった。
売上としては、毎月1,000万から1,500万円ほどをキープし、 1年後には神奈川営業所の所長に昇格した。
もちろん営業会社の管理職などやったことがないので最初は戸惑ったが、立ち止まることも出来ず、多忙な日々を送ることになった。
営業所長の仕事としては、新人営業マンの教育、新規顧客情報を得るためのテレフォンコール人員の管理、工事契約書のチェック、墓石工事部とのやり取り、営業ミーティング、霊園チラシの作成等、多岐に渡った。
他にも、横浜市内のお寺への挨拶、新規霊園の視察、資料作り、本社での営業会議など、予定がどんどん入って目の回るような忙しさだった。
入社して5年目に入った頃、私は本社勤務を命じられた。本社の営業課長だ。
その頃、神奈川営業所には10名ほどの営業社員がいたが、本社にも同じぐらいの営業社員がいた。
私は正直言って行きたいとは思わなかった。なぜなら、今まで以上に忙しくなると思われたからである。
営業社員も、私よりベテランの猛者がたくさんいて、苦労することは目に見えていた。
何故、私が東京の営業課長にならなければならなかったのか。
伝え聞いた話だが、社長が、「鍛え直すためだ」と言っていたそうだ。
私はそんなことは望んでいなかった。出来れば神奈川でそのままやらせて欲しかったが、断るわけにはいかなかった。
私は東京の営業課長になった。
それから、仕事は神奈川営業所の倍の忙しさになった。朝は7時から夜の12時まで仕事をして、それでも終わらず、家にも帰れず休みを取ろうにも取れない。
私は仕事が早い方ではなく、書類仕事など、どうしても時間がかかってしまう。
上司は、事務の人間に振り分けろと言ったが、私にはうまく出来なかった。人を使うのが下手だった。
東京営業所は、社長直轄で、社長は優しいところもあるのだが、怒ると鬼軍曹のようになった。年齢は55歳位で、営業会議でも常に怒鳴りっぱなし。営業社員は震え上がり、常に精神的に追い込まれていた。
今だったらブラック企業とかパワハラとかそういう言葉もあるが、30年前は営業会社にそんな概念はなかった。
私は上と下に挟まれ、針の筵の上にいるような気分で毎日を送り、まともに休養をとることも出来ず、ただただ奴隷のように働くしかなかった。
それから1年後。
私は、さらに増え続ける仕事を、やっとの事でこなし続けていた。それは、完全に私の能力を超えていた。
睡眠不足で、道を歩く時も、半分寝ながら歩いた事もあった。
ある日、私はやっと取れた休日を家で過ごしていたのだが、突然電話が鳴った。電話に出ると、社長がものすごい勢いで怒鳴ってきた。
「何で遅れたんだ!」
「え? 何がですか?」
社長は、私の返事に、さらに激怒した。
「キャンペーンの書類だ! 何で遅れたんだ!」
社長は、グループ会社のクレジットカード・社員申し込みの取りまとめ提出が半日遅れたことを言っていた。
確かに私は半日遅れてしまった。墓石工事の契約書の発注が増えて手が回らなかったのだ。本業ではないクレジットカードの書類だから、そのくらい大丈夫だろうという思いがあった。
社長は、その件をグループ会社から聞いて腹を立て、休み中の私に電話をかけて来たのだ。
「あれほど、間に合わせろと言っただろう!」
あまりに一方的で高圧的な言い方に、私の中で何かが切れた。
「うるせえな。発注の書類が終わらなかったんだよ。どれだけ残業してると思ってんだ!」
私もタメ口になって言い返した。
「なんだその言い方は!」
「うるせえ! 辞めてやるよ。辞めりゃいいんだろ!」
私は電話を切った。
自分でも驚いた。まさか社長に対して、こんなに言い返すとは思っていなかった。よっぽど、うっぷんがたまっていたのだろう。
私は、会社に退職届を郵送した。
上司から何回か連絡が来たが、私は出なかった。
もっと何か言ってきたら、残業代の未払いで労働基準監督署に駆け込もうと思っていた。
しかし、会社は何も言ってこなかった。
代わりに退職に関する書類が事務的に送られて来た。私はそれにサインして送り返した。
そうやって、6年間の私の墓石営業の仕事は終わった。
辞め方としては、とてもまずい形で、いろんな人に大きな迷惑をかけたと思うが、私はそうするしかなかった。
そうでなければ、会社に殺されていた。
ああして社長と喧嘩して辞めなければ、とても辞められる状況ではなかった。
自分の心とからだ、そして、命を削ってまで仕事をする必要があるだろうか?
その時、私は37歳になっていた。振り出しに戻ってしまった。
私は35歳の時に、横浜にマンションを購入していた。3,500万円だった。
銀行ローンは35年で、月々の支払い10万円。ボーナス時に15万円。年間にすると150万円。
これをどうしても払わなければならなかった。
私は、またまた稼げる仕事を探さなければならなかった。
そして、ある意味、禁断の世界へ踏み込もうとしていた。
次に選んだ仕事は、不動産のフルコミッション営業だった。私はその仕事で地獄を見ることになる。
(お墓のセールスマン 終わり)