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タクシーに転職するまで ➁【2時間ドラマ】

私がテレビドラマの世界に入ったのは、23歳の時だ。今から39年前である。
随分と年月が経っているが、その頃の記憶は今でも鮮明に残っており、撮影所の門をくぐったのは、つい昨日のような気がする。

当時のテレビドラマ界は、2時間ドラマが全盛期で、月曜日から土曜日まで、殆ど毎日のように新しい作品を放映していた。
月曜ゴールデン。火曜サスペンス。木曜ゴールデンドラマ。金曜女のドラマスペシャル。土曜ワイド劇場。ザ・サスペンス。等々。
テレビ局と作り手は制作に追われ、作っても作っても間に合わないという感じだった。

私が、制作進行Nさんの助手として初めて参加したのは土曜ワイド劇場の一本で、星由里子さん、林隆三さん、中山仁さん達が出演していた。
横浜を舞台にしたサスペンスで、山手の洋館をロケセット として使い、殺人事件や車のカーチェイス、爆破シーンが盛り込まれた作品になっていた。
もちろん、私は右も左も分からない下っ端の存在だった。しかし、ドラマを作る現場の一員となった充実感は感じたのだった。

当時の撮影は、殆どが16mmのフィルムカメラを使用しており、監督の掛け声、カチンコを叩く音、それに合わせて役者が演技を始める。
撮影は、朝から晩までひたすらその作業を重ねていくのだが、フィルムに命が吹き込まれる一瞬一瞬を目の前で体験出来たのはゾクゾクするくらい面白かった。
私は、テレビドラマや映画で見たことのある役者さんの芝居を目の前にして、心を躍らせたのだった。

制作進行助手の仕事は決して楽ではなかった。
朝は6時に撮影所のスタッフルームに入り、飲み物の準備や弁当の手配をし、ロケ場所の地図を車両部に配り、機材の積み込みを手伝い、駅などの集合場所ではスタッフやキャストが到着しているかを確認、撮影場所では車の交通整理などをした。
とにかく現場が潤滑に回るように注意を払い、先を見ながら動くのが制作進行の仕事で、その内容は多岐にわたった。
私は、朝早くから夜遅くまでフルで働いた。休みもほとんどなかった。
辛いこともあったが、毎日が新しい経験ばかりで、楽しいことの方が多かった。

20日後、土曜ワイド劇場の撮影はクランクアップし、私は何とかNさんの助手をやり遂げた。
出来上がった作品を撮影所の試写室で見た時の感動は今でも忘れない。

しかし。
最初 N さんに言われた通り、 ギャラは安く最初の作品は5万円だった。
これではとても生活は出来なかった。しかし、これが業界のしきたりで、未経験者は実績を積んで少しずつギャラを上げていくしかなかった。

私は2本目まで N さんの下で助手を務めた後、次の作品では1人で制作進行をやることになった。火曜サスペンスだった。
私は台本を読み込んで、やらなければいけないことを細かく箇条書きにした。そして、出来るだけミスをしないように細心の注意を払い、現場に臨んだ。
それでも何度か大きな失敗をした。一度は役者さんをロケバスに乗せないまま出発したこともあった。
私は、後でその人に何度も謝罪した。
そして、現場で製作主任に随分と怒られた。
そんな手痛い経験を何度も重ねつつ、他の人に助けられながら、私はやっとのことで、 制作進行の仕事を終えることができた。

ありがたい事に、その後、少しずつ 仕事が入ってきた。
私は上の人に恵まれていた。制作主任やチーフ助監督が、次の作品で呼んでくれたのだ。
制作進行のギャラは2本目が8万円。 3本目が10万円。4本目が12万円だった。
とても生活できる金額では無かったが、私は何とかしがみついた。

とにかく忙しさに殺されるような毎日だった。そして現場は厳しかった。
佐久間宣行さんもYouTubeでAD時代を振り返って言っていたが、トイレの中で隠れて弁当を食べたこともあった。
他の人と同じように座って食べるなんて許されなかったのだ。

しばらく現場を続けるうちに、私はさらに欲が出て助監督になりたいと思うようになった。
カメラの横でカチンコを打つ姿が、とても羨ましく思えたからだ。そのポジションは、役者の演技に近く、ドラマ作りの中で一番核心の場所だと言えた。
私は一度なりたいと思ったら、何が何でもなってやろうと思った。
自分で言うのもなんだが、その時の私のやる気と行動力は、凄かったと思う。若かったのだ。

私は、制作進行を数本務めた後、チーフ助監督や製作主任、プロデューサーにお願いして、サード助監督として次の作品に付いた。
今思えば、随分と図々しい行為だったと思う。
助監督になれたかわりに、ギャラは12万から10万に下がった。

当時、サード助監督のメインの仕事は、小道具を準備する事、そして、カチンコを打つ事だった。
しかし、私はカチンコを打つのが下手くそで、随分と現場で叱られた。
叱られたことが悔しくて、夜、多摩川の河川敷に行って何度も叩く練習をした。

私は、それから2年近くサード助監督を務め、約10本の2時間ドラマに付いた。年齢は、25歳になっていた。
仕事自体はやり甲斐があり、毎日があっという間に過ぎて行った。

ギャラは、その後15万円までアップしたが、生活は苦しかった。
1本15万円のギャラと言っても、毎月仕事が入って来るわけではない。
時々、1ヶ月か2ヶ月まるっきり仕事が入って来ない時もあった。
その間はバイトをして必死に食いつないだ。

しかし、テレビ局の下請けプロダクションの中には、いい加減な会社もあった。ギャラの遅れや未払いが何度か重なり、私は収入が無くなり、アパートの家賃を滞納するところまで追い込まれた。
好きで入った撮影の仕事だったが、その夢が生活を壊そうとしていた。

私は、2か月間仕事がなかった時に、新宿のレンタルビデオ店でバイトする事にした。時給は千円で、1か月フルで働くと、20万円以上になった。その頃のレンタルビデオ界は、活気があったのだ。そして、私の生活は、少しだけ安定に向かった。
私は、ある日経営者に呼ばれて、「中古ビデオの買い取りと販売を始めるので、そこの責任者になって欲しい」と言われた。
給料は25万円。儲かったら、ボーナスも出すと言われた。
私は、受けるかどうしようか迷った。
経営者の誘いを断って、助監督に戻るか。
それとも、ビデオ店の仕事を受けて助監督を辞めるか。
二つに一つだった
私はひたすら考え、そして悩んだ。

撮影の仕事は楽しかったが、そのギャラだけでは食べていけなかった。
それどころか貧乏まっしぐらだった。
ビデオ店の仕事を受ければ、おそらく食べていけるだろう。
月に25万円。その金額は、十分魅力的だった。

私は、迷った挙句、中古ビデオの販売をやると、経営者に返事した。
そして、助監督の仕事を辞めてしまったのだった。

(2時間ドラマ 終わり)

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