リクエスト 26 紗希 2023年12月8日 22:01 ーーこの写真のような部屋に住みたいーーある朝、妻の菜月はインテリア雑紙の1ページを指で差した。そんな結婚17年目の年の瀬。「ここだけで20帖は、有りそうだけど。しかも真っ白だから、掃除が大変だし。観葉植物も置きたいの?」「そう。10種類は欲しいな」妻は平然と答える。余りに現実味の無い話しに、僕はただ黙っていた。「雪雄は嫌い?こんな感じの部屋」「好き嫌い以前の問題で、答えようが無いよ」「以前の問題」「そう。おとぎ話かSFにしか聴こえない。それより大掃除の続きをしないと」僕は要らない物を選別していた。断捨離である。3年、使って無い物。着てない服。本当は、1年使用して無い物は、断捨離した方がいいそうだが、その度胸が僕には無いのだ。念の為に取って置いた10年以上前の紙類が、やたらと多い。主に銀行や役所等のからの、ダイレクトメールに、かなり前の書類と、何かのメモ書きがたくさん。菜月はまだ写真を観ている。そして「窓からは海が見えて」ますますハードルを上げている。僕が相手にしないからか、妻は黙ってしまった。とにかく断捨離を終わらせないと。ゴミ袋に詰め込み、雑誌類は紐で縛る。リサイクルに出せそうな服を選ぶ。「部屋はこの一部屋でいいの。二階建てで、一階でカフェを開きたい」僕は思い切り深いため息を、わざとついた。「菜月、あのさ」「雪雄のいう[以前の問題]って、資金のことだよね」「菜月の理想を叶える為には、いったい幾ら必要かを考えれば、自ずと答えは出てるだろう?」僕の言葉を訊くと、菜月は隣の部屋に行ってしまった。怒らせたかな。だけど云うべきことは、ちゃんと云わないとな。「この服はどうかな。リサイクルに出せそうか?いやアウトだな」パンパンに膨らんだ、ビニール袋が増えて行く。残すことにした服を見た時、アレ?と思った。「なんか僕のばかりだな。菜月の新しい服がほとんど無い」そういえば靴もそうだ。その時、急に目の前に通帳が出て来たので、僕は一瞬焦ってしまった。「これを見て欲しいの」僕に通帳を渡す、菜月の眼光が鋭い。「何も、そんな怖い顔しなくても」そう云って通帳を開いた。?何だ。この金額は。「菜月、これは」「1300万、貯めたの。結婚前の貯金も含めた金額がそれ」「……」「こっそり貯めたから、ヘソクリになるけど。だってせっかく共働きしてるし、私たちには子供がいないでしょう?」それはそうだけど。ヘソクリ。1300万。僕は、我に帰るまでに、多少の時間を要した。「凄いことは認めるよ。でも、まだまだ足りないのは判るよね。場所にもよるけど。菜月はどこに住みたいの」「葉山。鎌倉。逗子のどれか」よりによって、高級住宅地ばかりじゃないか。「高いのは判ってる。でも妥協はしたくないの。もしかしたら、人生最後になる大きな夢を叶える為には」最後の夢ーー。そうか……。こんな大きなことを叶えるのだとしたら、僕らの年齢を考えると、そうなるのか。「だけどね、これは私のわがままで、雪雄にだって、叶えたいことがあるかもしれない。それを教えて欲しいの。二人で考えたいから」僕が叶えたい夢か。中学までは、漫画家になりたいと思って描いてたな。落選ばかりで、数年で諦めたけど。どこまで本気だったのか……。大学の頃は、数人の仲間で卒業したら、いつか皆んなで、こんなことをしたいよな!なんて話してたけど。それも就職したら、忘れていった。菜月は僕と似たような家庭環境で育った。それは愛情とか幸せとは、程遠い家庭の元で、僕等は生き延びて来た。夢など描いたところで、叶いっこない。それなら最初から夢は持たない方がいい。好きでこう思うように、なったわけじゃない。生きていく為には鎧が必要だったのだ。傷付かないように。もう、十分過ぎるほど、心は傷だらけだった。僕も、たぶん菜月も。だけど僕と違って、菜月は諦めずに、夢を持ち続けていたんだな。僕はようやく本気で考えてみようと思った。「菜月、二人共通の通帳にも、確か1000万貯まってたよね」菜月は頷いた。「僕には菜月のような、絶対に叶えたい夢はないよ。だから菜月の夢を叶える為に協力する。ただ、一つだけ、ずっと気持ちの奥にある、やってみたかったことがあるんだ」「それは、どんなこと?私も協力したい」「菜月が描いているカフェと違ってしまうけど。訊いてくれるかな」「もちろん訊くよ。雪雄のやりたかったことも叶えたいもの」『お母さん、お腹が空いた』母はめんどくさそうに僕を見て、舌打ちをした。『ご飯作ってないよ。その辺にあるのを、適当に食べな』お母さんが何も作ってないことは、知っていた。毎日そうだから。でも僕は、今日は違う。きっと違う。僕が知らない内に、お母さんは何か作ってくれたかもしれない。祈るような気持ちで、僕は訊いてみたのだ。だから凄くがっかりした。『雪雄の顔を見ると、辛気臭くなる。やだやだ』僕は泣きそうになったけど、泣いたらもっと、お母さんに嫌われるから我慢した。僕は、お小遣いも、おやつも貰ったことが無い。探して見たけど、やっぱりどこにもお菓子なんか、なかった。冷蔵庫を開けて、中を覗く。ビールがたくさん冷えてるだけで、食べるものは何もない。奥の方に、しなびたキュウリがあったから、それを食べることにした。でも、キュウリ一本だけじゃ空腹のままだ。僕は必死になって食べ物を探した。するとカップラーメンを見つけたので、僕はお湯を沸かすことにした。沸騰したお湯をカップラーメンに、入れようとしたら、お母さんが大声で僕に云った。「ちょっと雪雄、なにやってんのよ。それはアタシが食べるんだから、やめてよね!」僕は絶望的な気持ちになった。ひたすら水を飲み、空腹を満たそうとしたけど、お腹が膨れただけで、食欲は無くならない。「鬱陶しいから、もう寝なさいよ」イライラが酷くなったお母さんに、そう云われて、僕は自分の部屋に行くと、布団に入ることにした。無理矢理、寝るために。夜中。笑い声がして、僕は目が覚めた。こっそり覗くと、お父さんとお母さんは、僕の知らない人たちと、麻雀をしていた。その中の一人が、『雪雄も大きくなっただろう』そう云った。お父さんは、『全くミスったわ。まさか子供が出来るなんて思ってなかったからな』『アンタが着けなかったからじゃないよ』お母さんが、そう云うとお父さんは『お前だって飲まなかったからいけないんだろ。ちゃんと避妊すれば良かったんだ』『あ〜あ、子供なんて欲しくなかったのに。しくじった』そう云って、お母さんは大きなタメ息をついた。その時、小学生だった僕には、はっきりとは意味を理解出来なかった。ただ自分は、お母さんにも、お父さんにも、欲しくなかった子供なんだということだけは、判った……。〈菜月!お風呂掃除してないの?やりなさいって云ってあるわよね〉〈ごめんなさい。今やるから〉〈全く、とろいんだから〉〈そこまでキツく云わなくても〉父がそう云うと、母はとたんに、ヒステリーを起こす。〈なによ。文句があるならあなたが、やりなさいよ〉〈文句なんかないよ〉〈だったら黙ってて!〉〈お母さん、成績表〉終業式の日、私は嬉しくて母に渡そうとした。〈別に興味ない〉〈でも見て欲しいんだ。お願い〉母は、いやいや受け取ると、私の成績をチラッと見た。〈4は一つだけで、あとは全部5を取ったんだ。勉強頑張ったよ〉私は興奮気味に話した。きっと誉めてもらえる。そう思っていた。母は、何も云わないで、成績表を引き出しに締まった。私はあまりにもショックで、涙がポロポロと溢れてしまった。母は横目で私を見ると、〈なに期待してるの?バカみたい〉それだけ云って、台所に行ってしまった。なぜ、母がこれほどまでに、私に冷たく当たるのか。その訳を知ったのは、私が中学を卒業する時だった。近所で私のことが、ちょっとした話題になっていたらしい。〈菜月ちゃんは、女優さんになれるね。あれだけの美少女だもの〉親戚の人たちも、同じことを父と母に話していたのだ。〈菜月ちゃんを芸能界に入れたらどうだろう。きっと人気が出るよ〉このことが、母は気に入らなかった。母は美人だから、廻りはお姫様のように扱っていたと訊いたことがある。母も自分が、どれだけ綺麗かを、よく知っていた。だけど私が成長するにつれ、自分より私に、周りの人は注目するようになってしまった。母は私を自分の敵だと思うようになっていた。敵なんかじゃないのに。私はお母さんの娘だよ。お母さん、ねえ!けれど遂に母は、私を赦すことはなかった。結婚して家を出るまでずっと。私は母の敵のままだった。たぶん、今も……。太陽が、海を黄金色に染める。目を細めるほどの眩しさが広がっていた。晴れた日の、この光景に飽きることはない。いま僕と菜月は、窓から鎌倉の海が見える部屋に住んでいる。あの時二人で話してから、半年後に、僕らは早期退職をした。退職前の休みの日には、物件探しに葉山や鎌倉方面に出掛けた。退職した後、僕は専門学校に通い、本格的な珈琲の淹れ方を、菜月は店で提供する軽食と、スイーツを教わる為、料理学校で学ぶことに精を出した。せっかくの貯金と退職金を、少しでも減らさないようバイトも並行する毎日。少しでもローンの額を減らしたい。その気持ちも強かった。僕らは疲れてはいたが、情熱がそれを上回っていたので頑張れた。初めての感覚だ。そして遂に、理想的な物件が見つかる日が訪れる。それがこの部屋だった。老後の為に貯めた貯金。それを使うことに、かなりの勇気と覚悟が必要だった。今だって怖い。けれど、何とかなる!そう自分に云い続けた。自分を信じようと決めたのだから。大きな決断をする時には、大嘘を着く必要が有ると、どこかで訊いたことがある。正にそうだと思った。そうしなければ、一歩も踏み出せない。着々と開店の準備は進んでいる。食品衛生責任者の取得。開業届けの提出。思っていたより簡単で、安堵した。それともう一つ。飲食店営業許可証。これはカフェでアルコールを提供する為には、必要だと知った。菜月の夢を叶える為だけなら、必要ではない。これは僕のやりたいことの為だ。ライブBARをやってみたいという夢。とっくに葬り去ったはずだ。だが菜月に触発されて、呼び戻した、僕がやりたかったこと。週に3日、金・土・日、夕方から23時まで開くことにした。「雪雄、買い物なんだけど、一緒に行かない?」「いいよ。晩ご飯の食料を調達するんだろう」「そうなの。いいかな」「もちろん」僕等は外に出て、地元をあちこちを散策しながら歩く。それはとても楽しい時間だ。今日は有名な、鎌倉野菜の市場へ向かう。野菜はこの市場で買うことにしている。今日も瑞々しい野菜が並んでいる。菜月も僕も、かなり気合いを入れて野菜を選ぶ。カフェで、ランチを提供することにしたので、力が入る。地元の人たちが来てくれた場合、きっと舌が肥えているはずだ。買い物を終えた僕等は、海岸に寄ることにした。夏の喧騒は、今は無い。菜月はただ黙って海を見つめている。妻の今の心境は、僕には想像が付かない。波の音、風の音。海鳥の鳴く声。菜月は海を見つめたまま、僕に云った。「私ね、両親に可愛がられたかったんだ」風が菜月の髪を、幾度も舞い上がらせる。「私の想いは届いては、くれなかったけど、雪雄が応えてくれた」菜月はそう云うと、僕を見た。「私のリクエストに初めて応えてくれたのが雪雄だった。本当にありがとう」菜月の眼差しを、僕は受け止めてあげられているだろうか。まるで僕の気持ちが判ったみたいに、菜月は微笑んだ。「雪雄は私に愛をくれてるよ。私にはよく判るの。私のリクエストは、夢を叶えて欲しいだけじゃなかった」「……」「私からずっと、両親にリクエストしていたこと。私のことを愛して欲しいって」僕は妻の言葉に、泣きそうになっていた。菜月を抱きしめると、僕は云った。「それは、僕も同じだよ。菜月も僕に愛をくれてる。ありがとう」僕は、これからも妻のリクエストに応えていきたい。出来る限りのことを、してあげたい。そう、思った。菜月は云った。「頑張ろうね、雪雄。そして楽しもう!」「うん。楽しもう!それから」「野菜が重たくなって来たので、そろそろ帰りませんか」「了解です。マスター」そう云って、菜月は笑った。それは、太陽に照らされた海のように、輝くような笑顔だった。 了 ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #note #短編小説 #海 #愛情 #いつもありがとうございます #お金の使い方 #夫婦のパートナーシップ #叶えたいこと #覚悟と勇気 26