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リクエスト

ーーこの写真のような部屋に住みたいーー


ある朝、妻の菜月はインテリア雑紙の1ページを指で差した。


そんな結婚17年目の年の瀬。

「ここだけで20帖は、有りそうだけど。しかも真っ白だから、掃除が大変だし。観葉植物も置きたいの?」

「そう。10種類は欲しいな」

妻は平然と答える。


余りに現実味の無い話しに、僕はただ黙っていた。

「雪雄は嫌い?こんな感じの部屋」


「好き嫌い以前の問題で、答えようが無いよ」

「以前の問題」

「そう。おとぎ話かSFにしか聴こえない。それより大掃除の続きをしないと」


僕は要らない物を選別していた。

断捨離である。

3年、使って無い物。着てない服。
本当は、1年使用して無い物は、断捨離した方がいいそうだが、その度胸が僕には無いのだ。

念の為に取って置いた10年以上前の紙類が、やたらと多い。

主に銀行や役所等のからの、ダイレクトメールに、かなり前の書類と、何かのメモ書きがたくさん。


菜月はまだ写真を観ている。

そして

「窓からは海が見えて」

ますますハードルを上げている。

僕が相手にしないからか、妻は黙ってしまった。

とにかく断捨離を終わらせないと。

ゴミ袋に詰め込み、雑誌類は紐で縛る。

リサイクルに出せそうな服を選ぶ。


「部屋はこの一部屋でいいの。二階建てで、一階でカフェを開きたい」

僕は思い切り深いため息を、わざとついた。


「菜月、あのさ」

「雪雄のいう[以前の問題]って、資金のことだよね」

「菜月の理想を叶える為には、いったい幾ら必要かを考えれば、自ずと答えは出てるだろう?」


僕の言葉を訊くと、菜月は隣の部屋に行ってしまった。

怒らせたかな。

だけど云うべきことは、ちゃんと云わないとな。


「この服はどうかな。リサイクルに出せそうか?いやアウトだな」

パンパンに膨らんだ、ビニール袋が増えて行く。


残すことにした服を見た時、アレ?
と思った。

「なんか僕のばかりだな。菜月の新しい服がほとんど無い」


そういえば靴もそうだ。


その時、急に目の前に通帳が出て来たので、僕は一瞬焦ってしまった。

「これを見て欲しいの」

僕に通帳を渡す、菜月の眼光が鋭い。


「何も、そんな怖い顔しなくても」

そう云って通帳を開いた。

?何だ。この金額は。


「菜月、これは」

「1300万、貯めたの。結婚前の貯金も含めた金額がそれ」

「……」


「こっそり貯めたから、ヘソクリになるけど。だってせっかく共働きしてるし、私たちには子供がいないでしょう?」


それはそうだけど。

ヘソクリ。1300万。

僕は、我に帰るまでに、多少の時間を要した。

「凄いことは認めるよ。でも、まだまだ足りないのは判るよね。場所にもよるけど。菜月はどこに住みたいの」


「葉山。鎌倉。逗子のどれか」

よりによって、高級住宅地ばかりじゃないか。

「高いのは判ってる。でも妥協はしたくないの。もしかしたら、人生最後になる大きな夢を叶える為には」


最後の夢ーー。

そうか……。こんな大きなことを叶えるのだとしたら、僕らの年齢を考えると、そうなるのか。


「だけどね、これは私のわがままで、雪雄にだって、叶えたいことがあるかもしれない。それを教えて欲しいの。二人で考えたいから」


僕が叶えたい夢か。

中学までは、漫画家になりたいと思って描いてたな。

落選ばかりで、数年で諦めたけど。
どこまで本気だったのか……。


大学の頃は、数人の仲間で卒業したら、いつか皆んなで、こんなことをしたいよな!なんて話してたけど。

それも就職したら、忘れていった。


菜月は僕と似たような家庭環境で育った。

それは愛情とか幸せとは、程遠い家庭の元で、僕等は生き延びて来た。

夢など描いたところで、叶いっこない。
それなら最初から夢は持たない方がいい。


好きでこう思うように、なったわけじゃない。

生きていく為には鎧が必要だったのだ。
傷付かないように。
もう、十分過ぎるほど、心は傷だらけだった。

僕も、たぶん菜月も。


だけど僕と違って、菜月は諦めずに、夢を持ち続けていたんだな。


僕はようやく本気で考えてみようと思った。

「菜月、二人共通の通帳にも、確か
1000万貯まってたよね」

菜月は頷いた。


「僕には菜月のような、絶対に叶えたい夢はないよ。だから菜月の夢を叶える為に協力する。ただ、一つだけ、ずっと気持ちの奥にある、やってみたかったことがあるんだ」


「それは、どんなこと?私も協力したい」


「菜月が描いているカフェと違ってしまうけど。訊いてくれるかな」

「もちろん訊くよ。雪雄のやりたかったことも叶えたいもの」




『お母さん、お腹が空いた』

母はめんどくさそうに僕を見て、
舌打ちをした。


『ご飯作ってないよ。その辺にあるのを、適当に食べな』

お母さんが何も作ってないことは、知っていた。
毎日そうだから。


でも僕は、今日は違う。
きっと違う。
僕が知らない内に、お母さんは何か作ってくれたかもしれない。

祈るような気持ちで、僕は訊いてみたのだ。

だから凄くがっかりした。


『雪雄の顔を見ると、辛気臭くなる。やだやだ』

僕は泣きそうになったけど、泣いたらもっと、お母さんに嫌われるから
我慢した。

僕は、お小遣いも、おやつも貰ったことが無い。

探して見たけど、やっぱりどこにもお菓子なんか、なかった。


冷蔵庫を開けて、中を覗く。

ビールがたくさん冷えてるだけで、食べるものは何もない。

奥の方に、しなびたキュウリがあったから、それを食べることにした。


でも、キュウリ一本だけじゃ空腹のままだ。

僕は必死になって食べ物を探した。
するとカップラーメンを見つけたので、僕はお湯を沸かすことにした。


沸騰したお湯をカップラーメンに、入れようとしたら、お母さんが大声で僕に云った。

「ちょっと雪雄、なにやってんのよ。
それはアタシが食べるんだから、やめてよね!」


僕は絶望的な気持ちになった。

ひたすら水を飲み、空腹を満たそうとしたけど、お腹が膨れただけで、食欲は無くならない。


「鬱陶しいから、もう寝なさいよ」

イライラが酷くなったお母さんに、そう云われて、僕は自分の部屋に行くと、布団に入ることにした。

無理矢理、寝るために。


夜中。


笑い声がして、僕は目が覚めた。

こっそり覗くと、お父さんとお母さんは、僕の知らない人たちと、麻雀をしていた。


その中の一人が、
『雪雄も大きくなっただろう』
そう云った。

お父さんは、
『全くミスったわ。まさか子供が出来るなんて思ってなかったからな』

『アンタが着けなかったからじゃないよ』

お母さんが、そう云うとお父さんは
『お前だって飲まなかったからいけないんだろ。ちゃんと避妊すれば良かったんだ』

『あ〜あ、子供なんて欲しくなかったのに。しくじった』
そう云って、お母さんは大きなタメ息をついた。


その時、小学生だった僕には、はっきりとは意味を理解出来なかった。


ただ自分は、お母さんにも、お父さんにも、欲しくなかった子供なんだということだけは、判った……。



〈菜月!お風呂掃除してないの?
やりなさいって云ってあるわよね〉

〈ごめんなさい。今やるから〉


〈全く、とろいんだから〉

〈そこまでキツく云わなくても〉
父がそう云うと、母はとたんに、ヒステリーを起こす。

〈なによ。文句があるならあなたが、やりなさいよ〉

〈文句なんかないよ〉

〈だったら黙ってて!〉


〈お母さん、成績表〉
終業式の日、私は嬉しくて母に渡そうとした。

〈別に興味ない〉

〈でも見て欲しいんだ。お願い〉

母は、いやいや受け取ると、私の成績をチラッと見た。

〈4は一つだけで、あとは全部5を取ったんだ。勉強頑張ったよ〉

私は興奮気味に話した。
きっと誉めてもらえる。
そう思っていた。

母は、何も云わないで、成績表を引き出しに締まった。

私はあまりにもショックで、涙がポロポロと溢れてしまった。

母は横目で私を見ると、
〈なに期待してるの?バカみたい〉

それだけ云って、台所に行ってしまった。


なぜ、母がこれほどまでに、私に冷たく当たるのか。

その訳を知ったのは、私が中学を卒業する時だった。


近所で私のことが、ちょっとした話題になっていたらしい。

〈菜月ちゃんは、女優さんになれるね。あれだけの美少女だもの〉

親戚の人たちも、同じことを父と母に話していたのだ。


〈菜月ちゃんを芸能界に入れたらどうだろう。きっと人気が出るよ〉

このことが、母は気に入らなかった。

母は美人だから、廻りはお姫様のように扱っていたと訊いたことがある。

母も自分が、どれだけ綺麗かを、よく知っていた。


だけど私が成長するにつれ、自分より私に、周りの人は注目するようになってしまった。

母は私を自分の敵だと思うようになっていた。


敵なんかじゃないのに。

私はお母さんの娘だよ。
お母さん、ねえ!


けれど遂に母は、私を赦すことはなかった。
結婚して家を出るまでずっと。
私は母の敵のままだった。

たぶん、今も……。




太陽が、海を黄金色に染める。

目を細めるほどの眩しさが広がっていた。

晴れた日の、この光景に飽きることはない。



いま僕と菜月は、窓から鎌倉の海が見える部屋に住んでいる。


あの時二人で話してから、半年後に、僕らは早期退職をした。


退職前の休みの日には、物件探しに葉山や鎌倉方面に出掛けた。

退職した後、僕は専門学校に通い、本格的な珈琲の淹れ方を、菜月は店で提供する軽食と、スイーツを教わる為、料理学校で学ぶことに精を出した。


せっかくの貯金と退職金を、少しでも減らさないようバイトも並行する毎日。

少しでもローンの額を減らしたい。その気持ちも強かった。


僕らは疲れてはいたが、情熱がそれを上回っていたので頑張れた。


初めての感覚だ。


そして遂に、理想的な物件が見つかる日が訪れる。
それがこの部屋だった。

老後の為に貯めた貯金。

それを使うことに、かなりの勇気と覚悟が必要だった。

今だって怖い。

けれど、何とかなる!

そう自分に云い続けた。

自分を信じようと決めたのだから。

大きな決断をする時には、大嘘を着く必要が有ると、どこかで訊いたことがある。


正にそうだと思った。

そうしなければ、一歩も踏み出せない。


着々と開店の準備は進んでいる。


食品衛生責任者の取得。

開業届けの提出。

思っていたより簡単で、安堵した。


それともう一つ。

飲食店営業許可証。

これはカフェでアルコールを提供する為には、必要だと知った。


菜月の夢を叶える為だけなら、必要ではない。

これは僕のやりたいことの為だ。


ライブBARをやってみたいという夢。

とっくに葬り去ったはずだ。


だが菜月に触発されて、呼び戻した、僕がやりたかったこと。
週に3日、金・土・日、夕方から23時まで開くことにした。


「雪雄、買い物なんだけど、一緒に行かない?」

「いいよ。晩ご飯の食料を調達するんだろう」

「そうなの。いいかな」

「もちろん」

僕等は外に出て、地元をあちこちを散策しながら歩く。

それはとても楽しい時間だ。


今日は有名な、鎌倉野菜の市場へ向かう。

野菜はこの市場で買うことにしている。


今日も瑞々しい野菜が並んでいる。

菜月も僕も、かなり気合いを入れて野菜を選ぶ。
カフェで、ランチを提供することにしたので、力が入る。

地元の人たちが来てくれた場合、きっと舌が肥えているはずだ。


買い物を終えた僕等は、海岸に寄ることにした。

夏の喧騒は、今は無い。

菜月はただ黙って海を見つめている。

妻の今の心境は、僕には想像が付かない。

波の音、風の音。
海鳥の鳴く声。


菜月は海を見つめたまま、僕に云った。

「私ね、両親に可愛がられたかったんだ」

風が菜月の髪を、幾度も舞い上がらせる。


「私の想いは届いては、くれなかったけど、雪雄が応えてくれた」

菜月はそう云うと、僕を見た。


「私のリクエストに初めて応えてくれたのが雪雄だった。本当にありがとう」

菜月の眼差しを、僕は受け止めてあげられているだろうか。


まるで僕の気持ちが判ったみたいに、菜月は微笑んだ。

「雪雄は私に愛をくれてるよ。私にはよく判るの。
私のリクエストは、夢を叶えて欲しいだけじゃなかった」


「……」


「私からずっと、両親にリクエストしていたこと。
私のことを愛して欲しいって」

僕は妻の言葉に、泣きそうになっていた。


菜月を抱きしめると、僕は云った。

「それは、僕も同じだよ。菜月も僕に愛をくれてる。ありがとう」


僕は、これからも妻のリクエストに
応えていきたい。
出来る限りのことを、してあげたい。

そう、思った。


菜月は云った。

「頑張ろうね、雪雄。そして楽しもう!」

「うん。楽しもう!それから」

「野菜が重たくなって来たので、
そろそろ帰りませんか」


「了解です。マスター」

そう云って、菜月は笑った。
それは、太陽に照らされた海のように、輝くような笑顔だった。


      了














































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