掌編小説−待つ女(ひと) 20 紗希 2023年9月22日 20:24 朝6時。リビングのカーテンを開ける。霧に包まれた街。このところ、霧の朝が多い。視線を降ろす。いつからか始まった私の日課。赤い煉瓦造りの喫茶店。その壁に寄りかかる女性の姿。これもお決まりの光景。それはマンションの5階からの風景の一部。こちらを見上げる訳でも無い。けれど、何を思っているのかを、私は知っている。窓から離れ、キッチンに入る。コーヒーメーカーに挽きたての豆と水を入れて、スイッチを押す。近くにオープンしたパン屋で買った、クロワッサン。これが、かなり美味しい。私はこのままで十分だけど、貴方は違う。ナイフで切れ目をいれて、チーズとサニーレタスを挟むのが好みだ。「おはよう。いい香りだ」「おはよう。朝食出来たから」貴方は素直に椅子に座ると、窓を見た。「今朝も霧がかかってる」独り言のように話す。コーヒーカップに淹れたての、ブルーマウンテンを注ぐ。チーズとサニーレタスが挟んであるクロワッサンと一緒に、貴方の前に置いた。「ありがとう。朝から食欲が出るメニューで助かるよ。いただきます」パリッとクロワッサンを噛む音が好き。チッチッチッ前祝いに、贈られた時計の針が、 (そろそろですよ)そう告げた。「仕方がない。会社へ行く時間だ」「そうね。雨が降らないといいけど」「……濡れるのもいいさ。たまには」そう云って貴方は笑顔を見せた。最後のーー。「行ってらっしゃい」「あゝ、行って来る」玄関から、出ようとした貴方は「風呂、沸かしといてくれるか」背中を向けたまま、そう云った。「うん。判った」それを訊くと貴方は、ゆっくり歩き出し、ちょうど止まったエレベーターに乗った。ドアが閉まる直前の、少しの隙間から、私のことを見た貴方の目を、私はたぶん、忘れることは無い。 さ・よ・な・らそう云っていた。もう会うことはない。彼が、この部屋に帰ることも。友達が前祝いにと、渡してくれた時計。私たちの関係を、話せなかった。だから贈ってくれたのだ。結婚の前祝い。そう云って。痛かったなぁ。前からずっと、胸が痛かった。自己中だよね、こんなこと云うの。毎朝、待ち続けた貴女も痛かったですね。彼の、奥さん……。でも今はすみませんでしたも、ごめんなさいも、申し訳ありませんでしたも、云いたくないのです。私には既に、新たな痛みが宿ってしまったから。寂しさや、孤独の日々が、痛みと一緒に私の胸の中に入り込んでしまった。予測はしていたけど。私はこの痛みに、いつまで耐えることが出来るだろう。貴方が買ってくれた、真紅の薔薇が、花びらを散らしていた。 了 ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #掌編小説 #男と女 #ありがとうございました #霧 #薔薇の花びら 20