Photo by mime 夕暮れ時 26 紗希 2021年4月2日 05:16 彼と待ち合わせをした。ずっと前に。ただ「夕暮れ時に、この場所で。じゃあな」彼はそれだけ云うと、走って行った。「いつの夕暮れ時なの」わたしの問いには答えず、彼は坂道を走って下りながら手を振った。わたしは毎年、約束したのと同じ日の同じ時刻に同じ場所に立っている。何年になるだろうか。高一で約束してからだ。少しして彼、俊也は引っ越してしまった。知ってはいたが、やはり寂しい。俊也とは小学校から一緒だった。最後まで、電話番号を教えてと云えなかった。住所は知ってたけど、自分から手紙を書くのは悔しく思った。だから、わたしは待つのを辞めなかった。「夏子、何ぼんやりしてる。11時近いぞ」父の声に我に返る。半分寝ていた。「ごめん、急ぐよ」「あんまり夜更かしするなよ。今日は予約が入ってるし頼むぞ」私は父とお弁当屋をやっている。ボリュームがあって安いから、割と繁盛している。母は病気がちで寝ていることが多い。「こんちは。出来てる?」「相変わらず早いな。一つくらいなら直ぐ出来るから待ってな」「悪いな、いや客が来ないから暇でさ。そうすっと、不思議と腹が減るんだよ」この人は靖二さん。同じ商店街で靴と傘を売っている。50はとっくに過ぎてるけど独身の一人暮らしだ。「はい、お待たせしました。唐揚げ弁当290円になります」「安いよなぁ。この量でさ」「バイトも雇わないで頑張ってますもん」「そういやなっちゃんは幾つになった?三十路に入った?」「コホン。靖二さん女性に年齢は……」「悪い、そうだった。まぁなっちゃんは何歳になっても美人さんだから急ぐこともないわな」「夏子を貰ってくれるような男はいないな。コイツは見かけによらず、男勝りな性格だしな」「あ〜ヤダヤダ。男ってどうして繊細な女心を分からないんだろ」「何が繊細だ、名前を付けるのを間違えたな。夏子じゃなくて夏雄が正解だった」「ふ〜んだ。お父さんには一生、乙女心は分からないわ」「ちょ、ちょっと親子喧嘩は無しだ、責任感じるなオレ。そうだ、美代子さんの容態はどうだ?」「お母さんはずっと同じよ。精神的な病いだから素人の私にはよく分からないの」「そうかぁ、早く良くなるといいな。弁当ありがとな。じゃあ」「まいどー!さて、そろそろ戦争勃発だぞ」父が云い終わる前に、既にお客さんたちが集まって来た。「鮭弁当と唐揚げ弁当。二つともご飯は大盛りで」「は〜い、ありがとうございます!」「生姜焼き弁当三つ」「毎度!少々お待ちを」近所の会社の人たちや、商店街の人が買いに来てくれる。1時を過ぎて、ようやく人が引いた。「やれやれ、お疲れ夏子。先に美代子と昼飯を食べて来な」「うん、そうさせてもらう。お腹ペコペコ」私は調理場から上がり、自宅用のキッチンに行って、鍋焼きうどんを二人分作り母の寝ている和室に運んだ。「お母さん入りますよ。鍋焼きうどんを作ったの、食べよう」母は布団ではなく、縁側に座ってた。「風邪引くわよ。部屋に入ってお母さん」母は小さく頷き、部屋に入って来た。「降るかしらね」「え?何?」「初雪。降りそうな気がするんだけど」「雪かぁ、もう11月も後半だし、降ってもおかしくはないわね」一人用の土鍋の蓋を開けると、熱々の白い湯気が立ち上る。「自分で作っておいて変だけど、このグツグツ煮えてる様を見ると、猫舌の私は当分食べられないからガッカリだわ」母は微笑みながら、自分の海老天を私の鍋に入れた。「食べないの?お母さん。このお店のお惣菜は全部、美味しいよ」「夏子は早朝から働き通しだから、体力を付けなきゃね」「……ありがと、お母さん」私は慎重に食べ始めた。過去に何度も火傷をしてるから、食欲に負けないようにしないと。熱いけど、私は何故だか鍋焼きうどんが大好きだ。私の“冬”のイメージかもしれない。「あ、お母さんダメだよ」母は時折、爪を噛む。かなりの時間、噛むのをやめない。医師からはストレスの一つでしょうと云われいる。ギザギザになった爪から血が滲む時もある。なんなのだろう、母に爪を噛ませる理由。私の両親は、お見合い結婚だ。その時、母は既に気持ちが不安定になる日があった。けれどそれを訊いても父の母への想いには、何の変化もなかった。「美代子さんをずっと守ります」今でもこの時の発言に父は誠実だ。私はそんな父を尊敬している。サラリーマンを辞めて、お弁当屋を開いたのも、自分の目の届くところに母がいるようにしたからだった。母の様子に変化が出始めたのは、母が大学を卒業する頃かららしい。祖父と祖母からは、そう訊いた。「その時期、お母さんに何かあったの?」祖父も祖母も、複雑な表情をしているだけで、何も話さない。母に何かあったんだ。卒業後、母は普通のOLとして働いていた。けれど会社でも、急に泣き出したり、仕事中でも窓から空を見上げては、爪を噛み始めることから、クビになってしまったのだ。「あっ!」そういえば今でも母が爪を噛み出すのは、たいてい縁側にいた時だ。空 空。 。 。昼食を食べ終えた母は、布団に入っている。小さな寝息が聴こえた。私は静かに縁側へ行ってみた。どんよりと、厚い雲が空に広がっている。「確かに雪が降って来ても、おかしくない天気だわ」そんなことを思っていた時、微かに音が聞こえて来た。ただの飛行機だった。雲で機体は見えないけれど、確かにそう。飛行機……。もしかして……母が爪を噛むことと、飛行機は何か関係があるのだろうか。「そんなわけないか」私はスヤスヤ寝ている母の顔を見ていた。深夜、私はいつものように眠らずに起きていた。本を読んだり映画を観たり、完全に趣味の時間だ。写真を見るのも好きで、今夜は図書館から借りて来た【昭和と子供たち】という写真集に見入っている。【子供たち】と、うたってはいるが、小さな子だけではなく、10代の学生も載っている。色んな表情や服装が見れて面白い。「あれ?この人」ベッドに寝そべって見ていた私は思わず正座をして〈そのページ〉に見入ってしまった。そこには知らない学校の校庭と、放課後の生徒が数名が写真になっていた。離れた場所からの撮影なので生徒の顔はハッキリ分からない。けど、これは……。日本人には珍しく、O脚ではないスラリとした綺麗な脚。割に目立つ、左側がかなり下がってる肩。友達と話す時も、夢中になると軽く爪を噛むクセ。「この学生、お母さんだ!」私は何故か、異常に喉が渇きキッチンに行って冷蔵庫から水のペットボトルを取り、部屋に戻った。ゴクゴクと一気に半分飲んでしまった。母を見つけたことは私を興奮させた。だが、もう一つ引きつけられることが、この写真には写っていた。それはスケッチしている男子生徒の姿だった。明らかに母を描いているのが分かる。昭和も40年代生まれだ。男女交際だって普通にあっただろう。ただ、恥ずかしがり屋で人の後ろに隠れてしまう性格の母が、男の子と交際しているとは思えないけど。「こんなことってあるんだ」まさか突然、若い頃の母と写真を通して対面することになるとは。このことは、お父さんには話さない方がいいんだろうか。「まさか、嫉妬するなんてことは無いよね」カタッ タンタンタン「お父さんが階段を降りて行く、ということは」恐る恐る時計を見た。私は力が抜けそうになった。「徹夜で今日一日を頑張らないと」ふわぁ「またあくびか。いつもにも増して今日は眠そうだな」「だって寝てないもの」「寝てないって、一睡もか。全く呆れるわ、お前には」「その代わりに、可愛いお母さんに会えたからいいの」「なんだそれ」「お父さんも会いたい?」「母さんは今も十分過ぎるほど可愛いからな。まぁ夏子がどうしてもと、云うのなら」「ならいい」「えっ」「別に、どうしてもなんて思ってないし」「いや、それは……」「あ〜あ、勿体ない。本当に可愛いんだから、お母さん。だからこそ、お父さんのライバル候補もいたかも」「ライバル?」「そう。熱い視線を送ったりするような」父は黙り込んでしまった。からかい過ぎたかな。どうしよう。私はひたすらキャベツの千切りを作りに没頭した。「夏子、誰かに訊いたのか」「な、何を?」「事故のことだ。俊也さんが乗ってた飛行機の」「俊也さんって誰なの?飛行機の事故?それって」「そうか。知らなかったんだな。余計なことを云っちまったな俺は」「ねぇ、いったい何の話しをしてるの?凄く気になるから教えてお父さん」「……そうだよな、気になって当然だ」父は持っていた菜箸を置くと、「見せたいものがある。夏子も一緒に二階の部屋に行こう」「時間、間に合うかな。お弁当作りの」「直ぐに戻れば大丈夫だ」父と私は二階にある誰も使ってない部屋に入った。部屋は物置に、なりつつあった。父は押し入れを開けると、体を中に入れて、何やら四角いものを奥から引っ張っり出して来た。それは紙で何十にも包まれ、ビニール紐でグルグル巻にされていた。見るのが怖くなった。父は勢いよく紙を破り紐はハサミで切った。「これは、お母さんがお嫁に来た時に持って来たんだ。夏子、観ていいぞ」私は受け取ったが、見るのに躊躇していた。だが勇気を出して、四角の正体に視線を移した。一枚の絵だ。薄らと色を塗ってあった。母を描いたものだ。隅に、“toshiya”とサインが入っている。「これは俊也が美代子さんの為に描いた絵だ。だが下書きなんだ」「お父さん、俊也さんを知ってるの?」「大学で知り合い、友達になった。彼から美代子さんのことは訊いていたよ。そしてあの日、俊也が美代子さんに絵を渡す為に搭乗した飛行機は墜落してしまった」「そんな……」「人の運命は予測なんか付かない。俊也は別の便に乗る予定だったんだ。だが持って来た絵が下書きだと気づいた彼は、完成した絵を取りに自宅に戻ったんだ」私は目を閉じた。「完成した絵は、彼と天国へ行ってしまった。この下書きは、俊也のご両親が美代子さんへと、送ってくださった物だ」母は、独り言をいいながら笑う時が、たまにある。その笑顔は、初々しく娘の私から見ても愛らしい。たぶん俊也さんと話しているのだろう。「お父さん、何故いままで私に何も話してくれなかったの?」「それは……俊也の友達の男が美代子さんと結婚したことを夏子が、どう思うのかを考えると云えなかった」「お父さんもお母さんが好きだったんでしょう?」「それは、もちろんだ」「私は、お父さんのような人と結婚した、お母さんは幸せだと思う」「夏子……本当か?そう思ってくれるのか?」私は頷いた。「ちわ〜。また早く来ちまった。おや?泣いてるのか?また親子喧嘩したか?」「うるさい、泣いてないぞ。玉ねぎを切ってただけだ」「良かった〜。今日も暇だから、また腹が減ってさ。何にするかな」「康二さん、ハンバーグお勧めです」「ハンバーグか。ずっと食べてないな。よし!それもらうわ」「は〜い!」「おや、美代子さん、大丈夫?」「おはようございます、康二さん。今朝は気分がいいので少しだけ、顔を出そうかなと思って」「お母さん、もうすぐ忙しくなるから座って見てて、動くと危ないよ」「はいはい」「アジフライ弁当一つ、メシは大盛りで」「はい少々お待ちを」「ハンバーグ弁当をください」「ありがとうございます!」母は調理場の隅に座って、誰かと話している。時折、うんうんと頷きながら今日も親指の爪を噛む。 (完) ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #短編小説 #母 #飛行機 #待ち合わせ #肖像画 #爪を噛む #夕暮れどき 26