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『映画クレヨンしんちゃん オラたちの恐竜日記』の笑いと感動と結末を考察

親子ときょうだいの成長物語だった。ひと夏の切ない「思い出をかけぬけて」。ナナとバブルの最後はあれで良かったのか?「将来楽しみだ」。

本記事では、声優とスタッフの発言を引用しながら、『映画クレヨンしんちゃん オラたちの恐竜日記』を考察する。

『映画クレヨンしんちゃん オラたちの恐竜日記』は2024年8月9日に公開された。監督は佐々木忍(ささきしのぶ)、脚本はモラルだ(敬称略)。

私、街河ヒカリは現在までの映画クレヨンしんちゃんを全作品鑑賞した。原作漫画を全巻読んだ。その経験を踏まえて考察する。先に要旨を述べると、私は『オラたちの恐竜日記』を高く評価しているが、しかし、『オラたちの恐竜日記』にはまとまりがない、と考えている。本記事は全文無料であり、およそ7300文字ある。

本記事は2024年8月11日に公開したが、2024年8月12日に更新した。

ここから先にネタバレがある。

ここからネタバレがある。

ひと夏の切ない成長物語

まず冒頭、しんのすけがテレビでディノズアイランドを観る、という展開は、『バカうまっ!B級グルメサバイバル!!』の冒頭に似ている。わざと似せたのだろうか?

カスカベ防衛隊のいつもと違うファッションが新鮮で素敵だった。キャラクターデザインを務めた末吉裕一郎(すえよしゆういちろう)の発言が劇場版パンフレットに掲載されたので、引用する。

 カスカベ防衛隊メンバーの衣装は全て僕が描きました。監督からは場面場面で変えたいってオーダーだったので、例えばディノズアイランドに行く時は余所行きみたいな感じにしたんです。プロデューサーからも今現在の子どもたちの服装も少し取り入れてほしいというリクエストがありましたね。

出典:劇場版パンフレット キャラクターデザイン 末吉裕一郎

過去の映画クレヨンしんちゃんに登場しなかったキャラや登場頻度が低かったキャラも『オラたちの恐竜日記』には登場していて、オールスターの感じがあった。売間久里代(うりまくりよ)は『オラたちの恐竜日記』で初めて映画に登場したらしい。

恐竜の作画は良かった。手書きならではの味わいがあった。

『映画クレヨンしんちゃん オラたちの恐竜日記』に登場する恐竜は、 福井県立恐竜博物館の監修のもと、すべて手描きで描かれている。

出典:劇場版パンフレット 完全保存版!恐竜設定画集

野原しんのすけ役の声優、小林由美子(こばやしゆみこ)はバブル・オドロキーについて次の発言をした。

バブルは決して悪い人ではないですよ。夢をみんなに与えたかっただけ。愛する妻を亡くし、プレッシャーに負け、本来の目的を忘れて暴走しちゃったんですよね。

出典:劇場版パンフレット 座談会 カスカベ防衛隊大集合!

私はバブル・オドロキーから、現実社会のインフルエンサーを連想した。社会的に強い注目を浴びた人が、インフルエンサーとして持て囃され、期待に応えようとするあまりに極端な思想に陥ってしまい、最初の純粋な想いを失ってしまう。そのインフルエンサーへの社会的評価が、良い方向にも悪い方向にも一瞬で切り替わってしまう。そんなインフルエンサーが現実社会にもいるかもしれない。

『オラたちの恐竜日記』の全体を貫くテーマは、親子関係だ。きょうだい関係でもある。

シロとナナの関係は、親子のようでもあり、きょうだいのようでもある。しんのすけたちカスカベ防衛隊とナナの関係もまた、親子のようでもあり、きょうだいのようでもある。もちろん、ビリーとナナの関係も同じだ。

バブル・オドロキーとビリーとアンジェラの繊細な関係と感情の機微が、物語の軸になっていった。

ビリーのキャラには深みがあった。ビリーを演じた北村匠海(きたむらたくみ)と顔が似ていた。北村匠海の発言を引用する。

 演じたビリーはとてもまっすぐな男の子。それ故に生き方がちょっと不器用で塞いでしまったところがあったと思うんです。それが野原家と出会ったことによって、心が解き放たれていったのだと思いますが、その変化は声を当てるうえですごく大事にしていた点でした。

出典:劇場版パンフレット 声のゲスト出演 北村匠海

ビリーは優しくて、真面目で、まだ若くて頼りなさがあった。ビリーには陰があった。このビリーの陰が、『オラたちの恐竜日記』の全体に切ない雰囲気を生み出していた。ビリーには「弟」っぽさがあった。実際にアンジェラの弟だった。しかしビリーはカスカベ防衛隊に出会い、お兄さんのような役割になった。

アンジェラの心情がじわじわと変化していく過程が、味わい深かった。顔つきも柔らかく、明るくなっていった。ビリーとアンジェラの関係も変化した。ビリーはアンジェラを「アンジェラ」と読んでいたのに、最後には「姉さん」と呼んでいた!

ロボットの恐竜には、ビリーの研究が活かされていた。台詞がうろ覚えなので間違っていたら申し訳ないが、ビリーが恐竜の骨格について研究した成果が、ロボットの恐竜の声に活かされていたから、ロボットの恐竜は声でコミュニケーションをすることができていた。これが伏線だった。

渋谷でロボットの恐竜が暴れていたとき、窮地に追い込まれたナナは鳴き声を上げた。ナナの鳴き声を聴いたロボットのスピノサウルスが駆けつけた。ロボットのスピノサウルスは、ナナを攻撃しようとしていたロボットの恐竜に反撃し、倒した。ここでビリーの研究成果が発揮され、ナナを助けた。ナナはスピノサウルスだから、ロボットのスピノサウルスとコミュニケーションをすることができたのだ。ナナとロボットのスピノサウルスとの関係も、親子関係のようだった。

野原ひろしはこう言った。

「子供っていうのはなあ、親の見てないところで自分なりにいっぱい考えて成長していくんだ。その可能性を信じるのが親の務めだろうが」

ビリー、アンジェラ、ナナ、シロ、しんのすけ、カスカベ防衛隊。みんながちょっとずつ不器用に成長していった。『オラたちの恐竜日記』は、ひと夏の成長物語だ。

恐竜は絶滅し、恐竜は過去であるが、現代を生きる人々には未来がある。これが対比になっている。

劇場版パンフレットから、監督の佐々木忍と脚本のモラルの発言を引用する。

佐々木 今回、初めてしんちゃん映画の監督を務めさせてもらいましたけど、僕自身は主題歌の『オラはにんきもの』が好きで、改めて聴いた時にその中の「将来楽しみだ」という歌詞が良いなって思い、裏メッセージとして、それを伝えられればなっていうのがありました。一方でプロデューサーから、恐竜をやってみてはどうかという案があって、恐竜って古い過去のモノじゃないですか。でも、自分が描きたいのは「将来に楽しみがある」って未来のこと。それは対比の存在としては良いのかなって思ったんです。
モラル 僕もしんちゃんの映画は初めてでしたけど、監督が仰った“将来楽しみだ”というところが、ひとつスタート地点としてありましたね。しんのすけをはじめとする「カスカベ防衛隊」の“ひと夏の成長”みたいなのを、シロとナナに繋げて描けたらいいな……ってところから始まりましたね。

出典:劇場版パンフレット スタッフインタビュー 監督:佐々木 忍×脚本:モラル

ちなみに劇場版パンフレットでは「将来楽しみだ」と漢字で表記されていたが、「オラはにんきもの」の歌詞では「しょうらい楽しみだ」とひらがなで表記されている。

My Hair is Bad の主題歌「思い出をかけぬけて」の切なさが、『オラたちの恐竜日記』にすごく合っていた。

ここまで私は『オラたちの恐竜日記』の良い要因を書いたが、しかし私は『オラたちの恐竜日記』にはまとまりがないと考えている。まとまりがないと考えた理由をこれから書いていく。


物語を進める四つの力

『オラたちの恐竜日記』の全体を貫く問いは四つある。この四つの問いが、物語を進める力になり、物語の軸になる。

一つ目は、「しんのすけたちは、ナナをバブル・オドロキーに奪われるか?ナナをバブル・オドロキーから守ることができるか?」である。

二つ目は、「バブル・オドロキーとビリーとアンジェラの関係はどうなるか?」である。

三つ目は、「人間と恐竜は共存できるか?」であり、さらに具体的な問題に変換すると「ナナは凶暴化するのか?」である。

四つ目は、「ディノズアイランドの恐竜とは何か?」である。

一つ目、二つ目、三つ目の問いは、親子関係の問いであり、きょうだい関係の問いでもある。

「しんのすけたちは、ナナをバブル・オドロキーに奪われるか?ナナをバブル・オドロキーから守ることができるか?」という問いの答えは、はっきりした。ナナをバブル・オドロキーに奪われることはなかった。ナナはバブル・オドロキーから守られた。

残りの三つの問い、つまり、残り三つの軸について、これから考察する。


バブル・オドロキーはどうなった?

「バブル・オドロキーとビリーとアンジェラの関係はどうなるか?」という問いについて考えたい。ビリーとアンジェラについてはすでに書いたので、バブルについて考えたい。

バブル・オドロキーについての説明を劇場版パンフレットから引用する。

バブルは、亡くなった妻のために夢を叶えようと頑張った。だが、彼が頑張れば頑張るほど、次のアイデアを求められ、彼は追い込まれ、どんな手段を使ってでも嘘をついてでも、世間の注目を浴びなければと考えるようになっていく。

出典:劇場版パンフレット オドロキー一家の知られざる過去

ここまでのバブル・オドロキーの変化には、筋が通っている。もちろん良くないが、悪役としては、筋が通っている。

しかしその後、バブル・オドロキーはさらに変化した。バブル・オドロキーは、ディノズアイランドのロボットの恐竜たちを操作し、街を破壊し、人々を誘拐した。このときのバブル・オドロキーには、どのような考えがあったのだろうか?バブル・オドロキーは何を目的にしていたのだろうか?台詞がうろ覚えだが、たしかビリーはバブル・オドロキーに「だれも父さんを認めない」と言っていたはずだ。街を破壊して人々を誘拐したバブル・オドロキーは、自分が社会からどのような評価を受けると予想したのだろうか?私はバブル・オドロキーの考えが分からなかった。このときのバブル・オドロキーには筋が通っていない。

ビリー、アンジェラ、ナナ、シロ、しんのすけ、カスカベ防衛隊のみんなは成長した。しかしバブル・オドロキーは成長しただろうか?

終盤に渋谷の街でビリーとアンジェラと対峙したバブル・オドロキーは、ビリーとアンジェラの真摯な想いを聴き、迷いが生じたような顔をした。しかしその後、バブル・オドロキーが自分の考えを直接言葉にすることは無かった。バブル・オドロキーが問題の解決のために行動を起こすことは無かった。私は最後にバブル・オドロキーが自分の意思で行動して問題の解決を目指してほしかった。最後のひと押しがほしかった。

バブル・オドロキーの行動に筋が通っていなかったことと、最後のひと押しが無かったことが原因で、『オラたちの恐竜日記』がまとまらなくなった。


恐竜をどう表現したいのか?

次に、「ディノズアイランドの恐竜とは何か?」という問いについて考えたい。

ディノズアイランドの恐竜は本当はロボットだった。ナナは本物の恐竜だった。

後半でロボットの恐竜はタイヤを回転させて移動したり、火を噴いたりしていた。パキケファロサウルスは頭から光を放出し、プロジェクターのようなスクリーンのような役割を果たした。これらはもはや恐竜ではなく、ロボットらしさ、機械っぽさが強調されていた。生き物っぽさがなかった。

クレヨンしんちゃんシリーズは子ども向けだから、人が生き物を攻撃する表現を避けるはずだ。しかし、人がロボットを壊す表現なら、許容されやすいだろう。だから『オラたちの恐竜日記』においてロボットの恐竜を壊す表現があったのだろう。

全体を通して、恐竜をいろいろな文脈に解釈することができる。

場面によっては、「ロボットらしさはない。機械っぽさはない。野性的で、迫力があって、かっこいい、本物のような恐竜」と解釈することもできる。

別の場面では、「ロボットが奇妙な動きをしている」というギャグとして解釈することもできる。例えば、モーニング娘。の「LOVEマシーン」の場面では、ロボットの恐竜が人のように踊っていた。

ナナを助けたスピノサウルスを「ロボットなのに、感情のある本物の生き物みたいだ」と感動的に解釈することもできる。

ロボットが街を破壊して人々を誘拐した場面を「ロボットとAIが暴走すると、人々の意思に反して人々に危害を加える。ロボットとAIは危険だ」と解釈することも、可能かもしれない。おそらく『オラたちの恐竜日記』の制作者たちにその意図はないのだろうが、そういう解釈もできてしまうかもしれない。

『オラたちの恐竜日記』は、恐竜の表現にまとまりがない。

恐竜の表現にまとまりがないことが、ギャグのセンスに影響する。『オラたちの恐竜日記』のギャグについて、これから考察する。


深刻さか、笑いか、感動か?

後半の渋谷ではシリアスさがあった。危機感と緊迫感があった。しかし何度もギャグが挟まっていた。

特に際立っていたギャグは、もちろん、モーニング娘。の「LOVEマシーン」だ。観客の子どもの親世代を意識したのだろう。映画クレヨンしんちゃんシリーズでは、ほぼ毎回マサオくんが強気になって目立って活躍することがお決まりのパターンになっている。今回は「LOVEマシーン」がマサオくんの見せ場だった。

しかし、「LOVEマシーン」の前に危機感と緊迫感があったから、私は「マサオくんが踊る必要はないのでは?マサオくんが踊る時間がもったいないのでは?」と思ってしまった。しかも、この踊っている恐竜はロボットだ。なぜこのロボットが踊っているのか、はっきりしなかったため、私は少し困惑した。ロボットの制作者の趣味が反映されているのかもしれないが。

だから私は「LOVEマシーン」でそこまで笑えなかった。笑えたが、盛り上がり切らなかった。

その他にも私は笑った場面がいくつもあった。しかし、「こんなに深刻な場面なんだから、そんなギャグを挟まずに速くストーリーを進めたほうがいいんじゃないの?」と思った場面があった。前述のように、恐竜の表現にまとまりがなかったため、私は「この場面では、ロボットの恐竜は笑いのネタなの?」と少し困惑してしまい、ロボットの恐竜に対する意識を切り替えることができなかった。

映画クレヨンしんちゃんシリーズでは、深刻な場面に場違いなギャグがぶちこまれる、というのが定番になっていた。このギャップこそが、映画クレヨンしんちゃんシリーズの魅力であり、くだらないおもしろさである。しかも感動がある。しかし、この深刻さと笑いと感動の組み合わせが、非常に難しいのだ。

『オラたちの恐竜日記』は、深刻さ、笑い、感動のすべての要素があったが、深刻さと感動が強く、そこに笑いの要素を強引に詰め込んでしまった。だから雰囲気が乱れてしまい、その場面の方向性がぼやけてしまった。


ナナ

最後に、「人間と恐竜は共存できるか?」「ナナは凶暴化するのか?」という物語の軸について考えたい。

ナナは凶暴化したが、元に戻った。だから物語は良い方向に収束したように思えた。

しかし、最後はナナが犠牲になった。

ナナの最後はあれで良かったのだろうか?

ビリーは「人間と恐竜が共存するのは無理なんだ」と言っていた。この考えはどんな結論になったのだろう?無理なのか、無理ではないのか、どちらだろう?『オラたちの恐竜日記』において、明確な結論が出なかった。

しんのすけたちがナナと一緒にいるためには、ナナの凶暴化を止めることと、ナナをバブル・オドロキーから守ることの両方が必要だった。そもそも「ナナは凶暴化する可能性がある」という要素は、『オラたちの恐竜日記』に必要だったのだろうか?この凶暴化の要素がもし無くても、「しんのすけたちがナナをバブル・オドロキーから守る」を軸にして物語が成立するはずだ。


総括

劇場版パンフレットによると、『オラたちの恐竜日記』の上映時間は1時間46分である。映画館では最初に宣伝があるので上映時間が1時間55分だった。子ども向けの映画にしては少し長い。いろいろな要素を詰め込みすぎたのではないだろうか。

私は『オラたちの恐竜日記』がおもしろいと思う。私は感動した。しかし、最後にまとまりがない。私は『オラたちの恐竜日記』を、歴代の映画クレヨンしんちゃんシリーズの中で上位に位置づけているが、最上位には位置づけない。


小ネタ

野原ひろしは冒頭で「会社でプロジェクトのリーダー 任されちゃって」と言った。アンジェラは恐竜プロジェクトのリーダーだった。アンモナー伊藤は恐竜プロジェクトのリーダーになることを目論んでいた。「プロジェクトのリーダー」が大人たちの事情として共通していた。

もし他にも小ネタを見つけたら、ここに追記するかもしれません。


来年

映画クレヨンしんちゃんでは、最後に来年の予告映像が流れることが毎年恒例になっている。今年も流れた。

しんのすけが「オラはにんきもの」を歌った!これも親世代を意識している?「ナマステ」という台詞があった!来年の映画クレヨンしんちゃんはインドがテーマか?

この記事の前半で引用したが、もう一度佐々木忍監督の発言を引用しよう。

佐々木 今回、初めてしんちゃん映画の監督を務めさせてもらいましたけど、僕自身は主題歌の『オラはにんきもの』が好きで、改めて聴いた時にその中の「将来楽しみだ」という歌詞が良いなって思い、裏メッセージとして、それを伝えられればなっていうのがありました。

出典:劇場版パンフレット スタッフインタビュー 監督:佐々木 忍×脚本:モラル

『オラたちの恐竜日記』の次回作予告に、佐々木忍監督の好きな「オラはにんきもの」が流れた!


以上です。

この記事のヘッダー画像には、劇場版パンフレットの表紙を使用しました。

私、街河ヒカリが書いたクレヨンしんちゃんの記事は、こちらのマガジンにまとまっています。

お読みくださり、ありがとうございました。

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