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自己責任論への反論の一つに「自分で選ぶことはできないから」があるが、それだけでは足りない。本人の主体性が奪われる。
たいていは自分から他者へ「あなたは自己責任だ」と主張する際に「あなたがそれを選んだから」というロジックが使われる。
「あなたは自分でホームレスになることを選んだんだから、生活保護を受けてはいけない」
「あなたは自分でこの仕事を選んだんだから、文句を言ってはいけない」
だから自己責任論への反論の一つとして、「自分で選んだわけではない」というロジックが使われる。「いくつもの先天的要因や社会的要因や強制力があってこうなったのだから、本人の力では解決できない。社会のリソースを使って解決すべき問題なのだ」と。
たとえば、ホームレス生活をする人の中では知的障害・発達障害を持つ人が高い割合を占めること、貧困家庭の出身である人(保護者(親)が低収入だった人)が高い割合を占めることが、調査から示されている。自分の力ではコントロールできない要因がいくつも積み重なった結果がホームレス生活なのだ。
(ところで、ホームレス生活をする人のうち障害者が占める割合については、調査によって様々な数値があるため、ここには載せないでおく。保護者(親)の収入についても同様だ。どなたか、手短にデータをまとめて教えてくれませんか?)
調査研究が進むにつれ、ありとあらゆることが「選ばない説」に近づいている。
これはホームレスに限ったことではない。
その時代の経済、政治、戦争が、その人の人生を左右する。生まれつきの性を自分では選べない。容姿や性格は遺伝的要因がある。学歴や年収は親と子で相関がある。
かつては後天的だと考えられていたこと、本人が自分の力で達成したと思われていたことが、実は先天的であり、その個人の力では達成不可能であると解明されている。
それらの調査研究については、非常に多くの書籍やウェブサイトで解説されている。多すぎて読み切れない。
(これも余談だが、遺伝的要因、先天的要因、社会的要因とその人の人生との相関について、幅広く簡潔に網羅して解説している文献やサイトがあったら教えてください)
※2019年2月2日に追記
心理学者の小塩真司先生が2019年2月2日に公開したnoteで、優生学、心理学などの様々な分野の歴史的経緯をまとめてくださった。「遺伝が原因」と言われることで救われる人もいれば、「環境が原因」と言われることで救われる人もいる、と小塩真司先生はおっしゃっている。
遺伝と環境と運命論と自己責任論
※これ以降の文章は、私が小塩真司先生の文章を読む前に書いたものである。
私は、「選んだ説」より「選ばない説」を支持している。
しかし「選ばない説」には欠点がある。
「選ばない説」の欠点は、「当事者の主体性を無視すること」である。
わかりやすくするため、「当事者の主体性を無視すること」をさらに細かく分けて考えることにしよう。
「選ばない説」の欠点1
1点目は、相手を分かったつもりになってしまう恐れがあることだ。
鈴木さんという人がいると仮定しよう。「鈴木さんが字を読めない原因は、生まれつきの脳の障害だ。鈴木さんが選んだわけではない」というケースがあったとして、「脳の障害」と結論を出し、それで終了してしまう恐れがある。「脳の障害」が原因であるという解釈は正しいが、それだけでは足りない。問いが深まらない。鈴木さんがどのような世界と対峙しているかが分からない。
「選ばない説」の欠点2
2点目は、問題が真の問題からずれていくことだ。
「鈴木さんには生まれつきの障害があるから」「伊藤さんは生活保護の申請を拒否されたから」と、他者から見た問題にばかり注目すると、本人にとって重大な問題からずれてしまう。本人にとって納得できる答えが見つからない。
「選ばない説」の欠点3
3点目は、自分の意見を主張するための道具として相手を利用してしまうことだ。つまりダシにされること、代弁の問題だ。こんな意見が典型例だ。
「現代の日本の格差問題は深刻で、本当は働きたいのに、仕事に就けない人がいる。ホームレス生活をしている人たちは本当はホームレス生活をしたくないのに、社会から排除されたためにホームレス生活を強いられているのだ」
それではホームレス生活をする人の意思が無視されてしまう。そこで語られる「ホームレス」は語り手の幻想である。実際は「おれはホームレスのままでいいよ」と言う人もいる。幻想が社会に流通する。
「選ばない説」の欠点4
4点目は、世界の彩りの豊かさを見逃してしまうことだ。先ほども述べたが、相手が対峙する世界を見ることができない、ということだ。
「親が低収入だと子どもも将来低収入になる」という傾向はたしかにあるが、その枠組み(パターン)を鈴木さんや伊藤さんや田中さんに当てはめて解釈すると、「親が低収入だと子どもも将来低収入になる」という先入観が強まるばかりで、新発見がない。逆に言うと、その人が何を考え、どんな行動をしたかを知ることで、相手と共に問いを立てれば、双方の考えを深めることができる。
つまり「選ばない説」では、当事者が受動的な存在になってしまう。「田中さんは親から教育を受けることができなかった」「伊藤さんは生まれつき肌の色が人と違うから差別された」―これだけでは当事者の能動性、つまり「その人がどのような世界と対峙しているか」が分からない。
「選ばない説」の欠点5
5点目は、当事者へのエンパワーメントにならないということだ。しかし、私、街河ヒカリは「問題を自分で解決するべき。人に頼ってはいけない。甘やかすな」などと考えているわけではない。うまく説明できないので小説に頼ることにしよう。
アントニイ・バージェスの超有名な小説『時計じかけのオレンジ』においては主人公たちは犯罪をして刑務所に送られるのだが、そこで主人公たちは更生のために洗脳を受ける。『時計じかけのオレンジ』においては「選択」という言葉が繰り返し登場する。主人公の選択を無視して脇役たちが勝手に問題解決のための議論を進める場面があり、そこで主人公は「このおれはどうなるんだ?」とわめいてしまう。
(出典:アントニイ・バージェス『時計じかけのオレンジ[完全版]』p.199,早川書房、2008年)
この小説における善悪の基準が複雑すぎて私には整理できないのだが、「選んだ・選ばない論争」の重要なヒントになると思うのだ。
もう一度書こう。
私も、「選んだ説」より「選ばない説」を支持している。しかし「選ばない説」には欠点がある。
「選ばない説」の欠点は、「当事者の主体性を無視すること」である。
そこで私はわかりやすくするため、「当事者の主体性を無視すること」をさらに細かく5点に分け、ここまで記述した。
1点目から5点目は互いに重複するので、セットにして考えてほしい。
「選ばない説」には欠点がある。じゃあどうすればいいか?―それについては世界中で大昔から多数の人が考えてきたのであり、私一人の力ではとても書き尽くすことなどできない。しかし、かなり大雑把で曖昧であるが、いくつかの道を手短にまとめてみよう。
一つは、既に書いたのだが、「その人たちが対峙する世界を知る」ことだ。「その人たちを知る」だけでは足りない。「その人たちが対峙する世界を知る」のだ。自分と相手を切り離すのではなく、「自分が相手にどう向き合うか?」を重視する。
もう一つは当事者研究やオープン・ダイアローグのように、その問題の当事者が自分たちを研究対象にすることだ。
この二つの他にも道はあると思うので、これを読んだ皆様からコメントをいただきたい。
自分の力で選べることがほとんどないこの世界で、それでも人の主体性を尊重し、世界を彩りで豊かにするためには、どうしたら良いのだろう?
私の考えは全然まとまっていない。
最後に、私が着想を得た文献を載せよう。
佐々木 俊尚
『「当事者」の時代』
光文社、2012年
佐々木俊尚氏は「弱者や少数派の人びとを勝手に代弁する現象」を「マイノリティ憑依」と呼んで批判した。『「当事者」の時代』は非常に長く複雑で読みづらいのだが、私はこの本から多大な影響を受けた。
岸 政彦,石岡 丈昇,丸山 里美
『質的社会調査の方法 他者の合理性の理解社会学』
有斐閣、2016年
ものすごく評判がいい教科書である。
著者である石岡丈昇先生は、フィリピンのマニラでボクサーの参与観察を行った経験を基に、<「人びと」ではなく「人びとの対峙する世界」を知る>というアプローチを提案している。
中島 岳志
『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』
朝日新聞出版、2013年
(2011年に単行本が出版されたが、現在販売されているものは2013年に出版された文庫のみ。内容はほぼ同じ)
中島岳志先生ご本人の発言によると、先生は小林秀雄の文章表現を「日本伝統の、自らに問いかける表現」と捉え、社会学者の宮台真司先生の手法を「自分と相手を切り離している。それでは分かったつもりになってしまう」と批判している。そこで先生は小林秀雄の流れを汲み、「相手と自分を切り離すのではなく、『自分がいかにして相手と向き合うか?』を重視する」という方針を掲げ、この本を書いたとのこと。
アントニイ・バージェス 著、乾 信一郎 訳
『時計じかけのオレンジ 完全版』
早川書房、2008年
非常に有名な小説である。
※2019年2月2日に追記
繰り返しになるが、小塩真司先生が「遺伝と環境と運命論と自己責任論」と題した文章で、歴史的経緯をまとめてくださった。ただし、私のこの文章は、小塩真司先生が「遺伝と環境と運命論と自己責任論」を公開する前に書いたのである。
今回のnoteのヘッダー画像には、sinhさんが撮影した渋谷の夜の写真を使いました。ありがとうございました。sinhさんのnoteページはこちら。
以上です。
連載企画「街河ヒカリの対話と社会」について
誰もが日常的に体験する悪口、嫌味や皮肉、詭弁、ネットスラングについて考察します。一見すると個人の問題に思えることでも、実はよく考えると社会の問題とつながっているのではないか、との仮説を立て、個別具体的な事柄から普遍性を発見したいと思います。1か月に1回から4回程度の更新です。マガジン「街河ヒカリの対話と社会」にまとめています。
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