問題は解決したか?映画『しん次元 クレヨンしんちゃん 超能力大決戦 とべとべ手巻き寿司』の特異な脚本を考察
なぜしんのすけは「仲間」と言ったのか?社会の問題はどうなる?あの言葉が結論か?評価が割れた特異な脚本を考察するため、声優とプロデューサーの発言を参照する。
映画『しん次元!クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦 ~とべとべ手巻き寿司~』は2023年8月4日に劇場公開された。本稿を執筆している8月10日までの時点では、観客からの評価が割れている。今作が初の試みである3DCGについての意見はそれほど多くない。3DCGについては高評価を得ているようだ。しかし脚本についての意見が目立っている。今作の脚本にはこれまでの『クレヨンしんちゃん』作品とは異なる特徴があるためだ。本稿では、劇場で販売されているパンフレットに掲載された声優とプロデューサーの発言を引用しながら、私の視点から論点を整理し私の意見を述べたい。
私、街河ヒカリは現在までの映画クレヨンしんちゃんを全作品鑑賞した。原作漫画を全巻読んだ。その経験を踏まえて『とべとべ手巻き寿司』を考察する。本稿は約8900字あり、全文が無料だ。
これ以降では映画のネタバレを含むので、未視聴の方は読まないでほしい。
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ここからネタバレになる。
論点1 頑張れ!
『とべとべ手巻き寿司』のメッセージの核は「頑張れ」だ。私はしんのすけや野原一家たちが非理谷充に「頑張れ」と叫んだことに驚いた。
まず、『クレヨンしんちゃん』において「頑張れ」という台詞は珍しい。さらに現代の日本においては過労死の問題や働き過ぎの問題が提起され、効率化が重視されている。現代の日本では根性論的な意見は避けられがちだ。
パンフレットに掲載された小林由美子(野原しんのすけ役)の発言を引用する。
「頑張れ」と表裏一体の概念が「仲間」だった。
再び小林由美子の発言を引用する。
また、パンフレットには野原一家の声優のディスカッションが掲載されており、ここでも「仲間」について言及されていた。
私は予告編を観たとき、しんのすけの言う「仲間」が野原一家やカスカベ防衛隊たちを指すのかと思い、「しんのすけが『仲間』って言うのか?」と違和感を抱いた。あの予告編は意図的にミスリードを狙ったのだろう。『とべとべ手巻き寿司』を鑑賞して「なるほど!」と意表を突かれた!みつるくんのことだったのか!
しんのすけは初対面の人とすぐに打ち解ける。空気を読まない。怖い物知らずでもあり、無礼でもある。
しんのすけは非理谷充の記憶の世界に入り、みつるくんの悲しみの背景を知らずに的外れなのんきなコメントをした。しんのすけは「離婚」と言う言葉を知らず、魚の名前だと勘違いしていた。このズレが、『クレヨンしんちゃん』作品の毎度おなじみの展開だ。実にしんのすけらしい。
玉入れを見ているだけだったみつるくんはしんのすけに励まされ、玉入れに挑戦し、しんのすけと一緒に喜んだ。諦める癖が染み込んでいたみつるくんに変化が起きた。いじめっ子に襲われても、みつるくんとしんのすけは諦めなかった。いじめっ子と闘った。
『とべとべ手巻き寿司』の観客からは「しんのすけはケンカをするキャラじゃない」と違和感を抱いた感想も上がっている。たしかに、普段のしんのすけは悪役を目の前にしてもふざけたり、悪役のペースを崩したり、のらりくらりとかわしたりする。『とべとべ手巻き寿司』のように直接闘うことは珍しい。しかし、私は直接闘うことがあってもいいのではないかと思う。
ここで重要なのは、闘いに勝つことではない。諦めないことだ。
この舞台は記憶の世界なのだから、もし仮に闘いに勝ったとしても、みつるくんがいじめられた過去は変わらないだろう。余談だが、『とべとべ手巻き寿司』の冒頭でティッシュを配っていた非理谷充に絡んでいた3人組は、このいじめっ子3人組の現在だろう。本当の敵はいじめっ子ではない、非理谷充でもない、非理谷充の負の感情だ。負の感情に勝つための闘いなのだ。暗黒の光だった非理谷充が、白い光であるしんのすけに照らされた。しんのすけは太陽のようだった。家族でも恋人でも友達でもない、「仲間」であるしんのすけが、非理谷充の救いだった。
しんのすけはそこまで自覚できていないだろうが、野原一家と深谷ネギコと池袋教授はしんのすけが救いなのだと理解した。だから野原一家たちは「頑張れ」と言ったのだ。ヌスットラダマス2世が理解していたかは、私には分からない。
私は、しんのすけと野原一家たちが記憶の世界のみつるくんに言った「頑張れ」には説得力を感じた。重みを感じた。なぜなら非理谷充はしんのすけの「仲間」だからだ。
しかし、私は『とべとべ手巻き寿司』の「頑張れ」は、『とべとべ手巻き寿司』の他の要因と整合性が取れていないと考えている。その理由をこれから述べよう。
論点2 社会の問題はどうなるのか?
『とべとべ手巻き寿司』では現代社会の問題が何度も説明されていた。「不景気」「高齢化」「ウイルス」などの現実的な語句で、しかも「この国の未来は暗い」「問題を先送りにしてきたツケが周ってきた」と悲観的に語られていた(台詞はうろ覚えなので間違っている可能性がある)。
パンフレットに掲載された吉田有希(よしだゆき)プロデューサーへのインタビュー記事から引用する。
『とべとべ手巻き寿司』の最後、モンスター非理谷から元に戻った非理谷充に、ひろしはかなり長い時間を費やし「頑張れ」という想いを説明していた。ひろしは非理谷充が「まだ行動していない」と言い、非理谷充に「自分を幸せにすることよりも誰かを幸せにしようと思え」「誰かを幸せにすれば自分も幸せになれるんだ」と諭した(うろ覚えなので台詞が間違っている可能性がある)。『とべとべ手巻き寿司』のそれまでのストーリーから、なぜこの台詞が導出されるのだろう?論理的に飛躍していないか?
非理谷充個人に対して「頑張れ」と言っても社会の問題は解決しない。『とべとべ手巻き寿司』の前半で社会の問題を提起したのに、後半では個人の頑張りに収束させてしまった。これでは整合性が取れていない。結局、社会問題の具体的な解決策を出したわけではなく、この国の未来についてはっきりとした結論を出したわけではなかった。
もし『とべとべ手巻き寿司』に現実の日本社会の設定が適用されるなら、非理谷充の問題は、個人の頑張りで解決すべき問題ではない。たとえば、非理谷充に金がなくて空腹なら、生活保護を初めとした社会制度によって解決すべきだ。警察が非理谷充を誤認逮捕しそうになったなら、警察の行動に原因がある。いじめっ子から暴行と脅迫を受けたなら、学校や警察や法律の力で解決すべきだ。しかし『とべとべ手巻き寿司』はフィクションだ。どの程度まで現実の日本社会の設定が反映されるのだろうか?
私はホームレス生活の方々を支援する組織に所属している。私はホームレス生活の方々に「頑張れ」と言ったことは一度もない。私が出会ったホームレスの方々の中には、非理谷充のように社会への復讐を考えていた人は、いなかった。私たちが出会ったホームレスの方々の中には、非理谷充に近い年齢の男性がいた。この人は所持金がほとんどなく、空腹だった。私たちは組織の予算を利用して食品を購入し、この人に手渡した。この人は居宅生活を希望したため、私たちはこの人を役所に連れて行き、生活保護の申請の支援をした。この人は生活保護費を利用して家賃を払い、アパート生活を始めることができ、就職することができた。しかしその後、この人の問題は解決しなかった。私は守秘義務があるため詳細をここに書くことは避けるが、とにかく問題の解決は簡単ではない、ということだけは強調したい。
ところで、『とべとべ手巻き寿司』では「日本」という言葉と「世界」という言葉の両方が使われていた。日本の問題と世界の問題を区別する意図があるのかないのか、よく分からなかった。
論点3 なぜ社会に復讐するのか?
非理谷充の人生がうまくいかないことと、復讐することを接続する論理がなかった。幼稚園の立てこもりのとき、よしなが先生は「子どもたちは関係ない」と反論していた。まったくその通りだ。
『とべとべ手巻き寿司』の脚本は、「非理谷充の復讐は非論理的だった。意味不明だった。空虚だった。八つ当たりだった」ということを表現したいのか?それとも「非理谷充の復讐には論理的な理由があった」ということを表現したいのか?よく分からなかった。
非理谷充が復讐したことは、暗黒の光が原因なのか?それとも非理谷充が自分の意思で復讐したのか?どこまでが非理谷充の意思なのか、どこまでが暗黒の光が原因なのか?その区別がはっきりしなかった。
最後のメッセージ「頑張れ」は、諦めることへの反論であり、孤独であることへの反論だった。しかし復讐への反論にはなっていない。
論点4 責任はどうなるのか?
映画『とべとべ手巻き寿司』の原案となったエピソードは、原作漫画26巻の「しんのすけ★ひまわりのエスパー兄妹」である。この漫画の最後、悪の超能力者は超能力を失い、深谷は「彼を責めるのはよしましょう 暗黒パワーに支配されていたのですから」と言った。
『クレヨンしんちゃん』シリーズはフィクションなのだから、現実的な設定がなくてもよい。現実的な法律や警察や司法など、無視しても良い。
しかし映画『とべとべ手巻き寿司』では現実の社会問題について言及したのだから、非理谷充の責任と罪についても現実社会に即して解釈しないと、整合性が取れない。
暗黒の光に当たった後、超能力を獲得した非理谷充は街を破壊し、人々を傷つけ、非理谷充が報道された。もし現実的な設定があるなら、非理谷充は罪に問われ、前科が付き、就職は困難になるだろう。そんな非理谷充はどうやって頑張ればいいのだろう?
『とべとべ手巻き寿司』において、非理谷充の責任と罪にどんな結論が出るのか?「非理谷充は暗黒のパワーに支配されていたから、非理谷充に責任能力はなかった。だから非理谷充に罪はない」という結論なのか?「非理谷充は自分の意思で超能力を駆使したのだから、責任能力があった。非理谷充に罪がある」という結論なのか?それとも「これは非理谷充の個人の問題ではない。社会の問題だ」という結論なのか?はっきりとしなかった。
論点5 いじめっ子と非理谷充はどう違うのか?
『とべとべ手巻き寿司』の冒頭では非理谷充の困窮ぶり、弱者性、性格の悪さ、かっこ悪さが強調されていた。
服装、容姿、アイドルへの愛と絶望。「非理谷充」という名前は、「非リア充」の意味だろう。「リア充」や「非リア充」という言葉は、2023年の今では古い。非理谷充はちょっと昔のいかにも「オタク」な人物であり、「オタク」のステレオタイプだと私は感じた。
道で倒れた非理谷充にひろしは「大丈夫か?」と声を掛けたのに、非理谷充はひろしに反発した。「どいつもこいつもオレをバカにしやがって」とひねくれて拗ねていた。その後、ひろしの焼き鳥を盗み食いした。
警察に誤認逮捕されそうになったときにも非理谷充は警察に自分の潔白を説明することができなかった。ここからも非理谷充のコミュニケーション能力の低さが感じられた。
その後、非理谷充は社会への復讐を始めた。
『とべとべ手巻き寿司』の前半では、非理谷充の表現に現実の生身の人間らしさがなかった。非理谷充が記号的だった。ステレオタイプだった。
しかし非理谷充の記憶の世界において、非理谷充、つまりみつるくんは生身の人間らしく、濃厚に表現された。みつるくんはしんのすけと一緒にいじめっ子3人に立ち向かった。しかし、いじめっ子はいったいどのような背景を抱えていて、どんな思想を持つのか、深い表現は何もなかった。あの文脈においてはいじめっ子の背景や思想は重要ではなく、みつるくんとしんのすけが諦めないこと、頑張ることが重要だった。つまりいじめっ子が記号的であり、非理谷充が生身の人間的だったのだ。
一方、超能力で暴れた非理谷充は、一般人から見たら、あのいじめっ子と同じように加害者だ。一般人は非理谷充にどんな事情があるかなど知らない。しんのすけがいじめっ子に「オラの仲間をいじめるなー」と叫んで立ち向かったように、一般人たちが非理谷充に「オラの仲間をいじめるなー」と叫んで立ち向かう構図もあるんじゃないのか。
いじめっ子と非理谷充にどのような違いがあるのだろうか?
『とべとべ手巻き寿司』の全体を通して、登場人物がある文脈では記号的になり、別の文脈では生身の人間的になり、映画のストーリーにとって都合のいいようにコロコロ変わってる。
最後、モンスター非理谷から元に戻った非理谷充に、野原一家たちは「頑張れ」と言い、非理谷充が頑張ろうと決心したが、この変化が唐突だ。本当に頑張ることができるのか?ここに至るまでの非理谷充と野原一家たちの関係構築を、心の距離を縮める過程をもっと丁寧に描くべきだった。
論点整理
ここまでの論点をまとめよう。
非理谷充の諦めとしんのすけたちの「頑張れ」が対比になっている。孤独な非理谷充としんのすけの「仲間」意識が対比になっている。これらは整合性が取れている。
もし『とべとべ手巻き寿司』が、現実社会の問題については表現せず、「孤独であり諦め癖が染み込んだ非理谷充が、しんのすけたちに出会い、仲間を見つけ、頑張る決心をした」という脚本なら、きれいにまとまる。
しかし、現実社会の問題を提起したために、軸がぶれてしまった。問題提起と結論が噛み合っていない。個人の問題と社会の問題が混ざっている。意思と責任の範囲が不明確だ。現実的な設定とアニメ的・漫画的な設定が混ざっている。記号的な人物描写と生身の人間的な人物描写が都合良く切り替えられている。非理谷充の心情と行動の変化が唐突であり、変化する過程が物語として表現されていない。
『とべとべ手巻き寿司』は、たくさんのネタがあるのに、きちんとまとまっていない。手巻き寿司なのにネタがまとまっていない(うまいこと言った)。
さらに深く考えるために
『とべとべ手巻き寿司』は、社会的な弱者についての考えが浅い。社会的な弱者について深く考えるとき、「かわいそうランキング」という概念が有用だ。本稿では字数の都合上「かわいそうランキング」について述べないが、私が書いた記事を読んでほしい。
「30」の意味
『とべとべ手巻き寿司』は映画クレヨンしんちゃんの第31作であり、第1作の公開が1993年だったため、今年で30年が経過したことになる。「3D」と「30」は文字の形が似ている。だから今年公開したのか?
非理谷充の年齢は30歳だ。しんのすけがみつるくんの記憶の世界に入ったとき、みつるくんは少しずつ年を取ったが、しんのすけは5歳のままだった。みつるくんが年を取ってもしんのすけはみつるくんの「仲間」だった。これは私たち観客と『クレヨンしんちゃん』の関係を隠喩しているのだろうか。私たちが年を取ってもしんのすけは5歳のままであり、しんのすけはいつでも私たちの「仲間」だ、ということだろうか。
映画クレヨンしんちゃんの変遷
映画クレヨンしんちゃんは原恵一さんが監督と脚本から退いた後、停滞した。しかし2013年に『バカうまっ!B級グルメサバイバル!!』が公開され、再び盛り返した。2013年以降の作品はファンたちから高く評価されている。詳しくは私の記事を読んでほしい。
2021年の『謎メキ!花の天カス学園』は名作だ。歴代の映画クレヨンしんちゃんの中でも特に評価が高い。『バカうまっ!B級グルメサバイバル!!』と『謎メキ!花の天カス学園』はどちらも、うえのきみこ脚本だ。
そして今年の『とべとべ手巻き寿司』は、評価が割れている。3DCGということもあり、私は歴代の映画クレヨンしんちゃんの中で『とべとべ手巻き寿司』を例外のように位置づけている。
小ネタまとめ
「池ちゃん」「ヌスちゃん」には笑った!友達なのかよ!どういう関係だよ!これは2次創作が盛り上がりそうだ。ヌスットラダマス2世は何がしたかったのだろう。最後にも「世界を転覆させる」と言っていた。そのあと野原一家たちと一緒に手巻き寿司を食べていた。
ヌスットラダマス2世の建物の中で生活していた人たちはそのあとどうなったのだろう。
冒頭で非理谷充は暴行犯に間違えられたが、あの暴行犯って結局誰だったんだろう。伏線じゃなかったのか。
モンスター非理谷がひろしの靴下を飲み込むよりも前に、モンスター非理谷はひろしの靴を飲み込んだ。私の見間違いだったら申し訳ない。あの靴はどうなったのだろう。靴の匂いはモンスター非理谷に効果がなかったのだろうか。
エンドロールが漫画だったことには感動した!素晴らしいアイディアだ!3DCGの最後に漫画へのリスペクトが込められた。
エンドロールの漫画で、超能力を使って車を直した様子が描かれていた。超能力で他にも何か直したのだろうか?その後手巻き寿司を食べる場面では、しんのすけとひまわりが超能力を使えなくなった様子も描かれていた。
エンドロールで手巻き寿司を食べるとき、非理谷充は「手巻き寿司はじめてなんです」と言って戸惑い、うまく巻くことができなかった。リアルだ。それを見た深谷ネギコが「たべる?」と言って非理谷充に手巻き寿司を差し出していた。このときの深谷ネギコの「くすっ」とした顔がすごくいい。原作漫画に特有の、クレヨンしんちゃん的な笑顔だ。
映画クレしんでは、映画のエンドロールの後に来年の映画の予告映像が一瞬流れることが毎年恒例になっている。今年も予告映像が一瞬流れた。来年の映画クレしんは!恐竜だ!これは予想していなかった!そして来年は3DCGじゃなくて2次元の今まで通りの絵だ。楽しみ。
以上です。
この記事のヘッダー画像には『しん次元!クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦 ~とべとべ手巻き寿司~』パンフレットの表紙画像を利用しました。
私、街河ヒカリが書いたクレヨンしんちゃんの記事は、こちらのマガジンにまとまっています。
お読みくださり、ありがとうございました。