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絵本を読まない子どもが辿った活字の沼:母と本棚とキラキラ物語

子どもの頃、絵本を読んだ記憶があまりない。いや、正確にはほとんどない。代わりに私を待っていたのは、活字の世界だった。お姫様のドレスや王様のマントがキラキラ輝く外国の物語、謎めいた推理小説、そしてなぜか遠ざけていた日本文学──そんな私を本好きにしたのは、一風変わった母親だった。母は読書家を通り越して、本の魔術師のような存在で、茶の間の壁一面を本棚にする人だった。おかげで「家に本棚がない」という文化ショックを、友達の家で味わうことになる。

絵本を通り越して活字沼にダイブした幼少期。母が買ってくれた世界名作全集や、風邪をひいた私に差し出されたのは桃缶ではなく推理小説だった。そんな私でも例外的に愛した絵本が「ぐりとぐら」。だが小4の授業中、「ごんぎつね」のラストで「兵中のばか!」と叫んだのは完全なる黒歴史だ。今回は、そんな母との本の思い出と、私の読書遍歴を振り返ってみたい。←迷惑な叫びも含めて。

母という異端児、そして壁一面の本棚

母がとんでもない読書家だったことは、私の人生における「これは確実に影響受けたランキング」の堂々一位だ。茶の間の壁一面を、本棚という名のラワン材とコンクリートブロックで埋め尽くしていたのだから、その光景を見て育てば、「本棚のない家なんて存在しない」と信じ込むのも無理はない。ところが友達の家に遊びに行った時の衝撃たるや、「本棚が……ない!!」←幼い私はその場で時が止まった。

そもそも母は、地元ではちょっとした有名人だったらしい。北海道の小さな町(毛蟹がおいしい)で育った母は、昭和全開のツケ文化をフル活用。「これ、ツケでお願いね」と本屋でサラッと言い放つ人だったらしい。その話を聞いた時、私は思わず「それって昭和版の信用スコアってやつ?」と突っ込まずにはいられなかった。もちろん、当時の私は「信用スコア」なんて単語を知らなかったけど、そのくらい母のやり方は型破りだったのだ。

でも、今思えばその「異端児」な母のおかげで、私は本の楽しさを知ったんだと思う。家中に本が溢れている環境で育ったら、そりゃあ本好きになるよね。←母に感謝、そしてツケ文化に乾杯。

世界名作全集とキラキラに吸い寄せられるカラス

小学生の頃、母が買ってくれた「世界名作全集」。これがもう、箱入りの全24巻という豪華仕様で、「これさえあれば他に何もいらない」と思わせるほどの存在感だった。箱から出すたびに漂うあの新品の本の匂い、そして煌めく外国の物語たち。お姫様のドレスはもちろんキラキラ、王様のマントもキラキラ、背景に広がる外国の風景だってキラキラしてる。これぞ、幼い私の魂をわし掴みにする魔力だ。←完全にカラス仕様の琴線。
「家なき子」からすら、キラキラを感じる始末である。

一方で、日本名作全集も確かに買ってもらった記憶はある。が、こちらは箱を開けた瞬間に記憶が封印されている模様。理由は明白だ。キラキラしていないから。日本の山奥で木を切り出す話とか、村の貧しい家族の話とか、どれも地味でどんより。そんな地味な世界に私の心が踊るはずもない。

その後、推理小説の沼にどっぷり浸かる日々がやってくる。シャーロック・ホームズ、アルセーヌ・ルパン、アガサ・クリスティ。これらの登場人物はいつだって私の隣にいてくれた。でも、ここでもやっぱり日本文学には目が向かない。「蟹工船」?うん、それはいいかな。←プロレタリア文学を華麗にスルー。
とはいえ、日本の本格推理、新本格、社会はミステリーは読んだよ!

キラキラがないものには目もくれない、そんな幼少期の私は、やっぱりカラスの生まれ変わりだったのかもしれない。←母が与えてくれたキラキラがなかったら、どんな味気ない人生を送っていたことやら。
ちなみに、アクセサリーはキラキラなスワロフスキーが大好物だ!

絵本の思い出はカステラの香りと「兵中のばか!」

絵本?正直、子どもの頃の私にとってそれは「ちょっと通り過ぎた世界」だった。が、例外的にハマったシリーズがある。「ぐりとぐら」だ。あのフライパンで作るカステラ!あれを見た幼い私は、「これなら私でも作れる!」と根拠のない自信を持ち、台所に突撃した。そして結果はお察しの通り、台所は粉と卵のカオス、母は頭を抱える日々。←むしろ「ぐりとぐら」シリーズは母の忍耐を鍛えるために存在していたのかもしれない。

他にも「手袋を買いに」とか「きつねのおきゃくさま」には心を奪われた。特に「きつねのおきゃくさま」は、優しさがふんわり染み渡る名作で、子どもながらに「ああ、人間ってこんな風に優しくなれるのかな」と思ったものだ。一方で、「ごんぎつね」は私の黒歴史の一つを生んだ作品だ。

小4の授業で、クラス全員で「ごんぎつね」を音読したあの日。ラストでごんが撃たれる場面に至り、感極まった私は突如として教室中に響く声で叫んだ。「兵中のばか!なんでごんを撃つんだ!!!」。教室は一瞬で凍り付き、先生は固まり、クラスメートたちは「何が起きたの?」という顔で私を凝視。その空気に気づいて後悔するかと思いきや、涙を流しながら「ごんが可哀想だろうが!」とさらに追撃。←ただの迷惑児。

振り返れば、あの瞬間こそが私と絵本の関係のピークだったのかもしれない。絵本の中で美味しそうなカステラを夢見て台所を荒らし、動物たちの物語で心を揺さぶられ、時には授業を台無しにする。そんな不器用な幼少期を過ごした私は、今でも「ぐりとぐら」のフライパンカステラの香りを思い出すと、ほっこりと笑みがこぼれる。そして、「兵中のばか!」と叫んだ自分を思い出して、こっそり頭を抱えるのだ。

風邪の特効薬は桃缶ではなくホームズ?

風邪をひいた時、普通の家庭では桃缶が出てくるらしい。甘くて冷たいあの桃缶、風邪で弱った体に染み渡ると聞く。だが、我が家では違った。桃缶?そんな洒落たものは出てこない。その代わりに母が差し出したのは、本だ。「これでも読んでいれば治るから」と渡されたのは、なんとシャーロック・ホームズ全集。←治療法、斬新すぎません?

熱にうなされながら読み始めたホームズの世界。名探偵の推理が進むにつれて、体調も良くなっていくような気が……したのかどうかは覚えていない。でもインフルエンザ中に「四つの署名」を読破した記憶は鮮明だ。母曰く、「病気の時こそ活字が心を癒やしてくれる」のだそうだ。確かに、桃缶よりホームズの推理の方が頭は冴えた気がする。←気がするだけ。

でも今思えば、これって母流の教育の一環だったのかもしれない。「読書はどんな時でもあなたを救う」と言いたかったのだろう。風邪の治療に本を使うなんて聞いたことがないけど、結果的に私はそのおかげで本好きになったのだから、母の作戦勝ちだ。桃缶より甘く、鮮烈な救いをくれたのは、やっぱり本だったのかもしれない。←ただし、来世では桃缶も添えてほしい。

活字は私のキラキラであり、カステラであり

社会人になるまで、日本文学とはほぼ無縁だった私。でも一度取り憑かれると逃げられない、それが活字という魔物だ。星新一のショートショートはいまだに色褪せないし、新井素子のコバルト文庫を開けば、あの頃の胸の高鳴りが蘇る。←あの青い表紙、今もキラキラして見える。

絵本の記憶は少ないけれど、それでも私を形作ったのは、間違いなく活字だった。お姫様のドレスがキラキラした世界名作全集、台所を荒らした「ぐりとぐら」のカステラ、推理小説の緻密な世界――それらが私に「次へ進む力」をくれた。たとえそれが病気中に無理やり渡されたホームズだったとしても。←母、今なら著作権より医療法違反で訴えられる可能性あり。

活字の世界には、私をどこか遠い場所へ連れて行ってくれる力がある。現実の世界がどんなにぐちゃぐちゃでも、そこにはカステラの香りやキラキラした物語が待っている。これからも私は活字沼を泳ぎ続けるだろう。ただし、兵中を許す日は来ない。←あれだけはどうしても納得いかない。

「二十四の瞳」と私の黒歴史テスト

そういえば、黒歴史がもう一つあった。
「二十四の瞳」。このタイトルを聞いて、今でも胸がザワつく。なぜなら、これは私の中学1年時代の黒歴史の一部だからだ。学力テストの国語問題に、まさかの「教科書には載っていない文学作品」が出題されたのだ。その問いはこうだ。「この小説の題名を答えなさい」。いや、読んだことないし!←そもそも、そんな予習している中学生どこにいるの?

案の定、テスト返却の日がやってきた。問題の正解率が芳しくなかったらしく、国語教師は鼻息荒くこう言い放った。「これは常識だ!12人の教え子が登場するだろうが!」。いやいや、知るわけないでしょ!「教え子が12人」って情報、普通の中学生がどこで仕入れるのか聞きたいくらいだ。←その説明で逆に混乱する生徒たち。

ちなみに、私は「教え子が12人」というヒントを受けてもなお、頭に浮かんだのはクリスマスソングの「12 Days of Christmas」だった。←完全に間違った方向へ脳内旅行。結果として「答えられなかった」という事実だけがテスト用紙に残り、黒歴史となった。

「二十四の瞳」。それは私に、「常識」という名の重圧と、文学の世界における無知の怖さを教えてくれた一冊……いや、まだ読んでいないので「教えてくれた」とも言い切れない。←でも読んだら負けた気がして、いまだに手を出していない。



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