![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/144771839/rectangle_large_type_2_4ef85cf9effe84c2b68092e55bd01b26.jpeg?width=1200)
無意識を感じる
3年ほど前、安曇野に行った後に記事を書きました(「安曇野への旅」)。それは旅日記のような体裁でしたが、一部、ちょっと考えを深めて書いた部分があり、それは私にとってずっと気になっていることなので、改めてその部分だけを切り取って記事にすることにしました。それは碌山美術館へ行った時に感じたことを元に書いたことです。碌山美術館は荻原守衛の彫刻・絵画等を展示しています。以下「安曇野への旅」からの引用です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
荻原守衛の経歴などについて書かれているコーナーで、彼がロダンより受けたアドバイスを見つけました。
汝が私ないしは、ギリシア、エジプトの傑作にしろ、それらを手本になどと思っては駄目だ。仰ぐべき師は至る所に存在しているではないか。自然を師として研究すればそれが最も善い師ではないか
![](https://assets.st-note.com/img/1682214489770-kSUv4p4esN.jpg?width=1200)
少し前に、「自然」について違う側面から考えるようになったきっかけがあり、このロダンの言葉に興味を持ちました。きっかけとなったのは河合隼雄の『無意識の構造』(中央公論新社)の中に書かれていることですが、それについて引用を交え少し書きます。旅の話から少し離れますので興味ない方はとばしてください。
この本の中に「自我」と「自己」の違いについての記述があります。「自我」とは意識できていること、「自己」は無意識の中にあり意識化できないことです。無意識の中に私にとっての重要研究テーマ「言葉にならないこと」があると思っていて、そこに自己(心の中心)があるという考えは、とても興味深く惹かれるものです。
以下の引用では、ざっくりしたくくりであると思いますが、西洋人は、意識できる自我が心の中心と思っている傾向があるのに対し、東洋人は、無意識の中にある自己の存在を、ちゃんと把握できないながらも感じていて意識と無意識の均衡をとろうとする傾向があること、無意識内の自己を知ることは難しいためそれをシンボルに投影することで把握しようと試みること、その自己のシンボルとしてあるがままの自然というのは適しているというようなことなどが書かれていると理解しています。
自己という考えは、日本人には西洋人よりも受け入れやすいように、著者には感じられる。 無意識と明確に区別された存在として、意識の中心としての自我を確立することは、西洋の文化のなした特異な仕事ではないかと思われる。そして、その確立した自我を心全体の中心と見誤まるほどに、彼らの合理主義が頂点に達したころに、ユングが自己などということを言い出したのではないか。そのため、彼は心の中心が自我ではなく自己にあることを何度も繰り返して主張している。しかし、実のところ、自己の存在は東洋人には前から知られていたことではなかったろうか。というよりは、東洋人は意識をそれほどに確立されたものと考えず、意識と無意識とを通じて生じてくる、ある漠然とした全体的な統合性のようなものを評価したのではないだろ うか。
西洋人は自我を中心として、それ自身ひとつのまとまった意識構造をもっ ている。これに対して、東洋人のほうは、それだけではまとまりを持ってい ないようでありながら、実はそれは無意識内にある中心(すなわち自己)へ志向した意識構造を持っていると考えられる。ここで、自己の存在を念頭におかないときは、東洋人の意識構造の中心のなさのみが問題となり、日本人 の考えることは不可解であるとされたり、主体のなさや、無責任性が非難されたりする。
自分の無意識内に存在する自己へと志向することは、実のところ至難のこと なので、日本人の多くは、その自己を外界に投影し、ー
自己は無意識界に存在していて、それ自身を知ることはありえないと述べ た。ただ、われわれは自己のある側面をシンボルという形で把握すること ができる。
(物語に出てくる自然を例に挙げ)
自己の象徴として、自然物が選ばれることもよくある。自然はいわば、ある がままにあるものとして、自己の象徴に適していると言える。
これらを読んだ時、自分が漠然と考えていたことが裏付けられるような感じがして、さらに自然との関りについて気づかされ、なるほどそうなのかと感動しました。
自然の風景と向き合っている時心がなごむのは、あるがままのその姿にあるがままの自分(自己)を重ねているからなのかもしれない、人間も自然の一部であることを無意識のうちに感じ取っているのかもしれない、そんな考えも浮かんできました。自然との触れ合いが人の心に及ぼす影響とその大切さについて改めて考えました。
ロダンの「自然を師とせよ」という言葉は、造形についてのみ語ったのかそれ以外のことも含めていたのかわかりませんが、気づきとしての自然というのは、今私にとって大きな関心事となっています。
さらに、展示室の壁面に彫られていた、孤雁という彫刻家の言葉にも目をとめました。
![](https://assets.st-note.com/img/1682214489702-Pqg0Hkp5lC.jpg?width=1200)
自然はただそこにあり、それをどう感じるかは人それぞれですね。私は歳を重ねるごとに手が大きくなって、より感動するようになっている気がします。
(引用ここまで)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今も時折、無意識について考えます。意識と無意識の間をいったりきたりしているのかなと感じることがあります。
頭で考えてやろうとしていることと、何かしら違和感があるような時、自我と自己との間に葛藤があるのかなと。理性と感情の違いのような。
無意識の領域があることを意識できていると、何事も断言できないと思えてきます。思考がより深まるような、よりわからなくなるような。
「言葉にならないこと」を感じつつ、書いています。