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パフォーマンスと不在の目

メディア・テクノロジーがもたらす多様なコミュニケーション空間の拡大のなかで、パフォーマンスにおける観客の視線は拡張・拡散している。その結果、現在パフォーマンスは、「不在の目」を介して評価される、映える虚構に主軸をおいた目線によって支えられているといった構造になっているように思えてならず、私は戸惑いと違和感を感じている。

「作品はそれ自体では完結せず、つくり手がつくった後に、鑑賞者が鑑賞することによって初めて成立する」ということは、一般的な自明の理になっている。哲学者のジャック・ランシエールは、芸術家のものでも観客のものでもない、『第三のモノ』としてのパフォーマンスを提唱している。
「観客は観察し、選択し、比較し、解釈する。自分が見ているものを、違う舞台のうえで、あるいは別種の場ですでに目にした数々のものに結びつける。そして自分の目の前にある詩を構成する要素を使って、自分自身の詩を組み立てる。パフォーマンスを自分なりにやり直すことで、それに参加するのである。(中略)こうして、観客は距離をとった観客であると同時に、提示されたスペクタクルの能動的な解釈者になるのである。』ランシエールの主張が正しいとするなら、現代における芸術の創作と鑑賞には、大きな地殻変動が起こっているのかもしれない。

ダンス展の背景

近年、主に英語圏の大型美術館などで、ダンスなどのパフォーマンスを上演する流れが台頭している。クレア・ビショップは、この変化が美術館のホワイトキューブと劇場のブラックボックスが遭遇する〈グレーゾーン〉を作り出していると「Black Box, White Cube, Gray Zone」の論文で展開、この新たなパラダイム形式としてのグレーゾーンに、美術館で上演されるダンスなどのパフォーマンスを位置付け、それを『ダンス展(the dance exhibition)』と命名した。
高度に多様化したメディア環境によって、歴史的に評価されている作品であれ、現代美術であれ、「アート」と紐づくものが、美術館だけを住処とはしておらず、領域を横断する作品が次々と生まれてくる現代アートの状況下では、美術とダンスの区別もまた、自明のものではなくなっている。そもそも「アート」を体験する場として、美術館やギャラリーは劇場と同様の選択肢の一つにすぎないと考えるべきなのだろう。

なぜ、多くのビジュアルアーティストがダンサーを雇い、多くの振付師が美術館で発表するという状況になったのか?
美術館で鑑賞される対象としての身体は、通常別のメディアで表象された身体、身体を扱った作品が一般的だが、パフォーマンスは、生きた身体が鑑賞対象となる。未来派、ダダ、フルクサス、ハプニング、ボディアートと、パフォーマンス・アートの歴史が示すように、ビジュアル・アート・パフォーマンスは、パフォーミング・アーツと拮抗し、技術を排除した関係にあった。ビジュアル・アート・パフォーマンスの重要な要素は、場所と観客の偶発性であり、イデオロギー的な強度は、イベントの特異性にかかっていた。

60年代のフルクサス、70年代のコンセプチュアル・アートからの影響から派生し、90年代になると、作品の内容や形式よりも「関係」を重んじる芸術作品、作品の質的判断以上に、作品の日常性との関係性を重視する「リレーショナル・アート」が台頭してくる。ある状況や出来事を生み出す過程やそれにともなう人々の「参与」をその本質としている「リレーショナル・アート」において、個々のアーティストが雇われた労働力に取って代わられる、つまりパフォーマーが交換可能な存在となり、パフォーマンス・アートを単一のカリスマ的アーティストから切り離した。

ダンサーの身体は、様々な身体表現を可能にする技術や情報を蓄積しており、それがもたらす美性は、多くのパフォーマンス・アートに欠けていたものを提供することができる。90年代にはパフォーマンスを行う方法として、多くのアーティストが「再演」に関心を持ち始め、再演がダンサーに委託されることが一般的になり、再現芸術の流行と同時に美術館は単発のイベントで、パフォーマンスをプログラムするようになった。

このような流れを背景に、振付家が美術館の開館時間に合わせて作品を拡張したり、ビジュアルアーティストがダンサーを雇ってパフォーマンスを行ったりするイベントとして、「ダンス展」が2000年代から頻繁に開催されるようになった。ダンスが展覧会に挿入されると、ブラックボックスとホワイトキューブの両方の鑑賞の慣習が破られる。展覧会では、観客の位置が定まっていないため、観客の行動を取り巻くプロトコルは安定しておらず、ゆえにパフォーマンスは即興性に富むが、舞台公演に付随する視座の誘導が消えるため、最終的に観客のダンス体験は、平板で一面的なものとなる傾向にある。

パフォーミング・アーツの美術館やギャラリーへの移行は、ホワイト・キューブとブラック・ボックスが新しいテクノロジーの影響下で変化し、最終的にはハイブリッドな装置を生み出すために収束するという、直接的なつながりとしてだけでは、捉えることはできない。ダンス展はブラックボックスとホワイトキューブの曖昧さだけでなく、これら2つの装置に浸透し、共存しているレジームを前面に押し出している。この問題が表面化したものとして、ベルリンの劇場フォルクスビューネのディレクター退陣という出来事が記憶に新しい。

パフォーマンスとソーシャル・ネットワーク

ビショップの定義するグレーゾーンの特徴のひとつにソーシャルメディアがある。私たちの生活がポータブル・テクノロジーに支配されるようになったのとまったく同時期に、ダンス展が登場した。ダンス展とデジタル・テクノロジーとの共生関係は、このジャンルの普及と人気の基盤となり、観客の性格に大きな変化をもたらした。ビショップは、「絵画や彫刻以上に,空間の中の生身の身体には,特に写真映えする何かがあり,観客はそれを捉え,媒介したいという衝動に駆られるのだ」と語っている。
2008年頃から欧米の大型美術館でスマートフォンによる撮影が許可され始めた。撮影無法地帯に陥った場でのダンスは、観客にとって、スマホカメラからSNSにアップするための素材として捉えられている。美術館でのパフォーマンスは、人間の目ではなく、カメラの目のために上演され、ライブ・オーディエンス以上にSNSオーディエンスのために上演されているとも言える状況だ。
パフォーマンスの画像は、世間の関心を記録し、社会的な関連性を喚起する。パフォーマンスの動画や写真がSNSで流れることは、若年層への訴求や経済効果に対して極めて有効な手段だが、そこに常に「不在の目」が介在する状況を私達はどう捉えたらいいのだろう。これは視覚偏重の情報消費社会の加速に加担することになるのではないだろうか。

舞踊学者のアンドレ・レペッキは、パフォーマンスにおいて、観客と目撃者を根本的に区別することを主張している。観客は受動的で無言の共犯者であり、パフォーマンスをSNSにアップし、作品に関する最新の情報をグーグルで検索し、見ているものの曖昧さを排除するための情報を探す。パフォーマンス全体を見ているのは目撃者で、観客はチェックインとチェックアウトを繰り返すだけである、という。これに対してビショップは、目撃者を承認することは、プレゼンスの優位性を強化し、媒介技術を否定し、作家の役割を過大評価することになると述べ、さらに、劇場での完全な没入と集中という理想は、1870年代にワーグナーがバイロイトの劇場を設計したときに生まれたのであり、それまでの西洋の劇場には、人々周辺の気晴らし的な娯楽や社交が多く存在していたとし、注目と散漫の弁証法のルーツは、演劇やダンスではなく、より広範な産業化の文脈にあると指摘している。

注目と散漫の構造

近代の資本主義が人間の知覚を再構築した結果、注目と散漫という2つの関心事を生み出し、現在の新自由主義的な労働のデジタル化が、テイラー・システム化された注目の効率性に疑問を投げかけている。コンピュータは、現在私達の生活には欠かせないものになっているが、それは仕事の効率を妨げる散漫のメカニズムであると同時に、仕事が私たちの家庭、休日に侵入することを可能にするツールでもある。今日の消費者資本主義の理想的な対象は、近代とは別の構造的な矛盾の中にある。

注目は内省的で、デジタル(光学的)なものとは関係のない他の状態の連続体として存在している。これらの内的状態は、かつては創造性に不可欠なものと考えられていたが、今日では非生産的な時間として軽視される傾向にある。ダンス、演劇、オペラ、古典芸能などの長編作品は、このような内省のための豊かな空間を提供する。
舞台演出家のロバート・ウィルソンは、70年代の時間と今日の時間の違いは、パフォーマンスを見ることと、心の中の「内的な旅」との間の双方向の揺らぎが、パフォーマンス、内的な漂流、サイバースペースを三角化する三方向のコミュニケーションへと開かれたことであると述べている。社交性としての観客のモデルに立ち返ることで、この三方向のコミュニケーションとしてダンス展を捉えるならば、観客の注目と散漫は常に本質的に絡み合っていること、観客の注目は外在化され、その外に向けられたものがオンライン上にあると考えることができる。

時間の再構成化

三方向のコミュニケーションの傾向は、近年のパフォーマンスの再時間化として表れている。例えば、マリア・ハッサビの《PLASTIC》(2015年)は、テクノロジーに関連して生身の身体を抑圧することと再主張することを同時に行うダンス展を、特に簡潔な方法で例示している。この作品は、美術館で行われる多くのパフォーマンスと同様に驚くほどローテクなもので、静止した身体の対位法的な構成となっている。美術史における彫刻やインスタレーションのパラダイムとは異なり、時間の構成に特徴がある。作品の本質的な構造である「ループ」を維持する必要があるため、ハッサビはパフォーマーに細部まで振付をし、パフォーマーはカウント刻むように動く。
カニングハム以降、多くの振付家が音楽的なリズムではなく、時計の時間を利用するようになったが、ハッサビのパフォーマーは、そのデジタルな精度をiPhoneによって内面化している。展覧会においてのパフォーマンスでは、舞台装置を取り払って,空間と時間の中の身体という、いわゆるパフォーマンスの「ゼロ度」を露出させることを試みる傾向にあるが、これらを実行するための上演持続時間を組織する手段として、ハッサビがテクノロジー(デジタル・ループ)を取り込んでいることは、興味深い。
ダンス展は、生きた人間の身体との密接な関係を強調するために、大部分が非技術化され、削ぎ落とされた制作アプローチを主張する一方で、その構造そのものにデジタル技術の刻印を負っていると考えることもできるのではないだろうか。

数値化と価値生成

ここで、評価という側面にも目を向けておきたい。美術館で行われるパフォーマンスは、SNSの「いいね」などの定量的な評価方法を用いて、鑑賞者に評価されることが多くなっている。社会的領域で機能するこれらのパブリック・プラットフォームは、人気に金銭的価値を与え、「特定の市場においてある種の資本を備える」ことになる。SNS、グーグル検索、マウスクリックを介して常に伝達される統計や数字は、私たちの社会生活を分類・評価し、広告市場での商品化の指針となっている。こうした定量化のメカニズムは、今やキュレーター、コレクター、批評家や観客の選択や批判的判断に影響を与えている。つまり、アート作品への関心の量や品質の証明は、数値に依存しているとも言える。例えばスマートフォンへの過度の依存に象徴されるように、目に見える、あるいは耳に聞こえる共鳴信号への依存の増大によって煽られている状況での価値生成、さらにデジタルで生成された数値を測定することでパフォーマンスに価値を与える現代的な方法が、この先の主流になってくるであろう。

今日、私たちが直面しているのは、ネットワークをベースにした、生産のパフォーマティブな方法を促進するインフラ環境への機関の変革なのだ。この変容は、ヴェネツィア・ビエンナーレ2017のドイツ館にアンネ・イムホフが出展した《ファウスト》に象徴されている。
私的、公的、商業的領域の境界が曖昧な不安定で流動的な領域の中で、観客は「自発的な」共同のパフォーマーとしての役割を果たすために、多かれ少なかれ参加型の方法で行動するよう促される。 4〜5時間行われたというパフォーマンスの写真やSNSにアップされている断片的な動画を見ると、パフォーマーは大勢の携帯電話ユーザーに囲まれており、彼らはデジタル複製の被写体として最適な生きた彫刻のように振る舞っている。ここでの振付は、身体的な動きと社会的な動きの組み合わせを目的としているのではなく、参加型のイメージの再生産と、SNSを介した、あるいはメディア内での流通を目的としている。イムホフの作品は、「映える虚構」に主軸をおいた目線を意識し、経済主導の定量化の論理に適合させている。

アーティストがパフォーマンスというメディアを使って効果的に活動するためには、自らをアクターとして位置づけ、SNSなどのメディア報道によって効果的に展覧会や舞台作品を展開しなければならなくなってきていることは、無視できない傾向であろう。

尊厳としての文化

展覧会は経験をデジタルで記録し、その経験を循環させたいという鑑賞者の欲求を満たし、その技術的な媒介は,鑑賞者としての自己構成だけでなく,被験者や展覧会自体にとっても不可欠なものとなっている。

この考察は、大学院のディスカッション課題として取り組んでいるのだが、「同じ展示で撮影が禁止だった場合、鑑賞者が作品や空間から感じることが全く違うのではないかと思うので、そんな実験をどこかでやっているのであれば、知りたい」と投げかけたところ、昨年、豊田市美での久門剛史さんの個展で、最後の数日を撮影禁止にしたことについて、作家本人がステイトメントを出していたことを、ゼミの方が教えてくれた。ちょうど撮影禁止になった期間に、私はこの展示を鑑賞しており、揺れ動く布、立ち位置によって微妙に変化する音、光と影、全てが繊細で独特の緊張感に満ち、とても繊細なものの現象を捉えることの豊かさを体感し、自分の存在も含めた空間そのものがパフォーマンスであったことに、いたく感動したことを思い出した。久門さんのステイトメントを読み、あの展示空間が記念写真を目的とした人で埋め尽くされた光景を思うと、とても胸が痛んだ。

美学的な判断にしても、空間の選択にしても、どれほど市場の力が、さまざまな形で芸術活動を左右しているか。片側では「現代的な構造の罠」が、反対側では「オリジナリティの欠如」が待ち受けている。こうした状況をどれだけ意識し、どれだけ共犯関係を構築できるか、ということに自覚的である必要性を自分の作品制作でも痛感した。
自己と他者、リアルとバーチャル、時間と空間…、人は身体を通して外の世界とつながる。尊厳としての文化というのは、言い換えれば、状況に巻き込まれない自由、ある状況にいながら別の空間を保持できるということではないだろうか。空間や状況とそれに対する態度、フレームの見方を変える力で自らの局面を開いていきたいものだ。

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