ピッコロモンド 高峰秀子の思い出
高峰秀子は松山善三と結婚後、女優の仕事を半分に減らし、ようやくのこと本来の自分を実現し始める。その際の二本の柱は、文筆、そして十代のころから集めていた骨董品であった。
高峰秀子は、子役として五歳から仕事漬けで学校へ行っていない。簡単な計算が生涯できなかったし、結婚当初、この世には辞書というものがあり、分からないことは「辞書を引く」のだということを知らなかった。しかし、文才は隠しようもなく花開いた。出会った偉人達、谷崎潤一郎、梅原龍三郎は言うに及ばず、土門拳、黒澤明、自分が雇った数十人の女中たちにいたるまで、ずけずけと活写する。
このようにずばりと遠慮もなくものが言えるのは、通例「育ちが良い」からなのだが、彼女の育ちはむしろ悲惨である。五歳の時から、無学な養母とその係累を彼女ひとりの収入が支えていたのだ。だが「育ちのよさ」に匹敵するものを、境遇にも関わらず引き寄せる天性のパワーの持ち主だったのだろう。でなければ、あれほど「偉い人たち」にこころから愛されるわけがない。ともあれ、高峰秀子が言うところの「雑文」を読むと、映像ではなく文章というものがいかに「そのものをえぐり取る」力を持っているのかを、再認識する思いである。
高峰秀子は抜群の「たとえ」能力を持っていて、松本清張を「船箪笥」と看破した。人間観と古物を一瞬で合体させたのである。それをあるとき天声人語が取り上げ、それからわたしは高峰秀子の読者になった。その「たとえ」の醍醐味は以下の文にも彷彿としている。平成六年。高峰は潮出版社から「忍ばずの女」という本を出した。そのあとがきに、この文章がある。
「松本清張と船箪笥」だと、どちらもイメージはすぐに浮かぶので「なるほど!確かに」となるが、ここでの問題はフグの白子とは?そして司馬遼太郎の筆跡とは?である。ところがいまはインターネットでググるという便利な一手がある。画像検索をかけるとたちどころに解決する。いい時代になったなあ、とつくづく思う。試していただきたい。(もちろん両者を、ググる前から、知っている方には無用であるが)
ところで、わたしは高峰秀子の「実物」に一度会ったことがある。1971年か72年ごろで、そのころ母が癌で病院を出たり入ったりするようになり、それと同時にわたしは母との確執から抜けだし、自分の価値観をやっと行使出来るようになった。すなわち高峰秀子の店で、自分の意思により器をひとつ買ったのである。
高峰秀子がある時期、丸の内のビルの一角で「ピッコロモンド」という骨董店をやっていたことはよく知られている。エッセイ「瓶の中」には、その店についての一文がある。
そう、そのお金のない若い人がわたしだった。高峰秀子当人が店番をしていた「ピッコロモンド」に、それとは知らずに、例によってカラに近い財布でふらふらと迷い込み、五個一万円の値札のついていた染め付けの煎茶茶碗のうちの、たったひとつを二千円で買ったのだ。
地味な紺のワンピースの女店主は、まじっとわたしを数秒かけて見つめ、手伝いの青年にその茶碗を包ませた。無遠慮で、愛想のかけらもなく、堂々としていた。本当に茶碗を一個だけ買う若い子が現れたと、半ば興味を持ち、半ば呆れていたのかもしれない。
高峰秀子が持つ、心の闇、深井戸のようなニヒリズム、それは「瓶の中」にはただの一行も書かれてはいない。しかしその「眼差し」は、氷塊のようにわたしの心に残り、長い間溶けることはなかった。