エデン条約編感想:百合園セイアの楽園を証明し続けるために《対策委員会編、パヴァーヌ編、カルバノグ、最終編他全ての感想を含む》
はじめに
本noteは「百合園セイア」が大好きな先生による、百合園セイアを理解したいという「不可能な証明」、楽園を信じるための道程です。ティーパーティーの百合園セイアとのお茶会で談笑するとき、彼女の本心を理解したと信じられる自分でありたい、そのための努力を怠らないようにしたいという片想いの七転八倒です。その努力に際して百合園セイア以上に様々な生徒や大人の振る舞いが引用されていきますが、全ては「百合園セイア」の理解に繋がります。
このnoteには百合園セイアを理解したいけれど、思考回路以前に彼女の用いる単語の読みや意味などを掴むところからまず難しい、という先生が一定数いらっしゃるという事実に対して、全ての先生が少しでも素敵なお茶会に至るための方法はないかという検討もあわせて必死に、本当に必死に行ったのですが討ち死にしました。その討ち死にの過程を消してもよかったのですが、たとえ無意味であっても足掻くのをやめるべきではないとアズサが言っていたので残してあります。残してありますが、それを読む必要はありません。読まなくてよいように本noteは構成されています。
もうすぐに目次がみなさんの目に入ります。「目次に至ったら全てを表示を選択して、一番下の「百合園セイアとお茶会を」をクリックしてください」。冒頭と末尾の間に1万~2万字なにやら書かれていますが、読む必要はありません。読むことでかえって初読の楽しみを損ないます。百合園セイアとエデン条約、楽園の存在証明の話を楽しみたければどうか太字に従ってください。初読を終えて、私がどんな風に討ち死にしたのか興味があれば改めて通読くださいませ。
討ち死にの流れ
建前
本noteではまず興味を惹くために、筆者が確認した限りでの、読みに苦慮されているソシャゲシナリオ上の漢字たちの例示を行います。次に「現代人はできるだけ漢字読めた方がいいだろ派」と「別に読めなくても問題ないだろ派」をそれぞれ概観します。その上で「読めるようになって損はない」「しかしそれにはコストがかかる」とします。「学校教育における現場もこれ以上コストを払いがたい」という悲鳴も確認します。そして、問題解決に寄与できる存在としてソシャゲを挙げます。たとえばなぜフルプライスあるいはミドルプライスなどのADV等もあるのにソシャゲを推すのかということについても述べます。しかしながらソシャゲ開発側に何の益もない負担をかけるのは酷です。インセンティブがありません。そこで、へへ……公的支援とか……もらえませんかね……と結びます。産学官連携は今の社会のブームです。実際連携して教育に寄与しているゲームも存在します。ソ、ソシャゲもなんとか……と揉み手するのが本論です。
本音
ごちゃごちゃと長いこと、2万字も論述が続きますが、その内容に実践的価値はありません。この提案がまるで現実的でなく、決して実現しないことを私が誰よりわかっています。これは、どうしようもないのになんとかしたいという、私の無意味な足掻きです。
私程度がどれだけ考えたってどうしようもないとわかっています。そして、それは私が努力を怠る理由にはならないのです。
私がそこに至るための方途を見つけられなかった「目的地」は、ただひとつ。それは本論の結びにあります。
「百合園セイアとお茶会を」
「すべての先生が、先生として。
百合園セイアの言葉に耳を傾け、理解しようとするために」
結び以外の全てを読み飛ばして構いません。結び以外は、全く実現可能性のない、ただの無意味な努力の積み重ねに過ぎないのですから。
僕が愛するすべてのものへ
僕は頭良さそうなキャラが頭良さそうなことを言っているのが好きです。ざっくり言うとそういうことになるのですが、たとえば卯月コウさんはユーモアを交えて簡潔にまとめると次のような指摘を百合園セイアに対して行っています。
こういったキャラクターが単純に好きというのもありますが、親近感も覚えます。たとえば日常会話で「ああ確かに! 仰るとおりです! うん、概してそのような傾向がありますね!!」と口にして「概してw」と失笑された経験が僕にもあります。友達がいないと言われる百合園セイアですが僕も友達がいません。終日(これを「しゅうじつ」でなく「ひねもす」と読むのが百合園セイア型人間の特徴です)書に淫し(本ばかり読んでと言わずに書に淫しと言うのが以下略)日常会話能力が全く養われていないのです。
岩波文庫ばかり読んでそうがピンと来ないひとのために幾つか実例を引用しましょう。
なお、上記は両方岩波文庫の青ラベル(哲学・思想・美学・音楽・自然科学)分野の記載ですが、青ラベルのしかも哲学を選んだのは百合園セイアがそういう人間だからと私が勝手に期待しているからです。
以上に挙げてきた画像を以て「どのへんに難読漢字があったんだ……?」と首を傾げる人もあるでしょう。実際筆者も「ブルーアーカイブは難読漢字が少なくて読みやすいなあと思っていた口です(比較対象はHypergryphやHoYoverseあたりです)。
しかし上掲の画像は様々な実況を確認したところ十分に難読に見えます。「能わぬ」「攪拌(本を読まずとも実験をせずとも料理をするなら分かる人も多い気がするのですが……)」「褪せて」「戴冠(さいかんと誤読されることもしばしばあります。裁判の「裁」にぱっと見似てないこともないのでそこからの試みかもしれませんね)」は難読の可能性があります。もう少しだけ見てみましょう。
難読らしい漢字の例
読めなくて当然のもの
筆者の知る限り実況者を苦しめる最高難易度の漢字がこの「縺れあい」です。わりとスラスラ読む人でも苦戦します。おそらく二択までは読みを絞れるでしょう。「もつれあい」か「ほつれあい」が正しいと。最悪なことに「もつれる」と「ほつれる」では意味が真逆です。つまり、読めないと発言意図を逆解釈してしまうのです。なお、正解は「もつれあい」です。
難読レベルの参考までに。常用漢字表に記載がないどころか漢検1級の対象です。この「???」はキャラクターの造形として言語にメチャクチャ強い人なので「もつれる」でなく「縺れる」と記載した方がしまる感じがして好きですが、確かにルビなしでぶん投げてくるのはなかなか極悪です。
まだまだ問題はあります。高卒レベル、つまり漢検2級を持っているガチガチの文系人間を想定しましょう。"「エンジニア部が卓上引張試験機」を調達した。"をどう読むでしょう? 「引張」の反対は「圧縮」です。「圧縮」は「あっしゅく」と読みますから「引張」は「いんちょう」と判断するかもしれません。漢検2級どころか「常用漢字」のレベル――ですが誤答です。「引張」の読みは「ひっぱり」です。ちなみに筆者の持っている辞書には「引っ張り」はあっても「引張」は記載がありませんでした。「引っ張り」の用例に「引っ張り試験」もありましたが、筆者はそのように「引張試験」を記載する例は見たことがありません。更に次です。"「セナ部長が腹腔鏡下小切開後腹膜悪性腫瘍手術を施した」"。理系の人間ですら正答が難しいかもしれません。たとえば生物学に興味がある人なら「腔腸動物」を「こうちょうどうぶつ」と読みますよね。言葉に強いからこそ「腔」を「空」からの想定で「くう」を百姓読みせず「こう」と読むことに誇りを持つ文系人間すらいるかもしれません。しかしセナ部長が「腹腔」を読む場合「ふくくう」が正しいです。ちなみに筆者は「口腔外科」を探そうとして「こうこうげかはどこでしょうか」と訊ねて大恥をかいたことがあります。更に筆者の辞書には「肉芽」の読みに自信満々に「にく-が」としか書いてありませんが「肉芽」は「にくげ」ですよね。セナ部長に文書送るときはやっぱり「救急医学部長氷室セナ先生御侍史」とかになるんでしょうか……うちで医系とやりとりするときはまだ使ってるんですよね「御侍史」。自分のところに「与吉先生御侍史」で文書が届いてはじめてこの語を見たときビビり散らかしました。ちなみに「御机下」を使ったことはまだありません。
RABBIT小隊がカルバノグ1章でシャベルをシャベルと言ってくれたときは安心しました。「円匙」と言われたらまた混乱が生じかねません。連邦生徒会長直属の法執行機関であるSRT特殊学園生が「円匙」と口にしたならば、彼女達の時刻の読み上げ方などから類推して「えんぴ」と読むのが正しいでしょう。ちなみに筆者の辞書には「えんし」であり「えんぴは誤読」と明示があります。ですが各種業界で通用する言葉の用い方をリアルに追求するならば「えんぴ」と言わせるべきでしょう(ちなみにシャベルと聞いて園芸用の小さなアレを想像した人もあるかもしれません。「関東」「関西」でシャベルの想起させる物品は異なります。JISに従えば足をかける部分があるのがシャベルです)。
以上から以下が導けます。
辞書的な理解だけでは正しく生徒の発言を読めるとは限りません。
ただ、あまりにも解決が難題すぎてこのような類は扱いません。そしてこの「辞書的な意味でなく実際の使用のされ方」にも着目しなければ、発言意図が正しく伝わらないということを後にマエストロを例に論述します。つまり「単語が読めなくても意味が通じれば大丈夫なんじゃない?」について「単語を読めて、辞書的な意味を把握していてすら、どのような状況で用いる言葉なのか」を把握しなければ「キャラクターの発言意図、性格、発言した相手に向ける感情」が掴めないことがあるのです。それをマエストロを例に後に述べることになります。
義務教育レベルで読めるはずのもの
「汗顔」――「汗顔の至り」という成句で概ね使用されます。「いやはや汗顔々々」などもアリかもしれませんね。さて、これに関する国の意識はいかがでしょうか。
汗顔は中学生レベルの漢字です。しかも常用漢字表上の用例として「汗顔」が挙げられています。つまり、国としては義務教育の範疇で是非とも読めてほしい単語なわけです。しかし難読です。ある実況者が「汗顔」を全く詰まらずサラッと読んだことについて「汗顔すらっと読んだ!?」と驚愕するものすらありました。国が義務教育で求めるレベルと実際の読字能力には乖離があるかもしれません。
次はこちらです。
「去就」――「きょしゅう」です。先述した「終日(ひねもす)」のように特殊な読みをするものではありません。書いてあるものをただ音読みするだけです。常用漢字として、「去」は小学3年生、「就」は小学6年生レベルで「キョ」と「シュウ」と読めることを知ることができます。理論上は。ちなみに「汗顔」同様常用漢字表に用例として記載があります。
つまり、現実を直視せず机上の教育理論だけで考えた場合、山海経高級中学校の梅花園が誇る天才教官春原ココナちゃんと同い年の11歳(5年生)なら読めなくても仕方ありませんが、1つ上の6年生さんなら遅くとも卒業式の頃には「去就」は読めるはずなのです。ですが、現実はそうなっていない――教育が適当に機能していないおそれがあります。
余談1:難読漢字にはよみがなを振ってほしいという思いについて
素朴な思いとして「難しい字にはよみがなを振ってほしい!」というものがあります。冒頭に挙げた「縺れ」などがそうです。ですがこれ、物書きにとっては簡単な問題ではないのです。「よみがなを振るのにコストがかかる」ということが言いたいのではありません。「一般レベルで何が難読漢字なのか」を物書きは適切に把握できていない節があるのです。
たとえば筆者は「少なくとも高校レベルなら読めるはずのもの」の例として、以下ふたつの画像を用意しました。そして筆者が想定した語がどの程度の難読性を持つかについて理解するに至り愕然としました。
「些事」(さじ)と「与り」(あずかり)です。
「些」は義務教育レベルで見た覚えがないから高校レベルかなと思っていました。事実は違います。漢検準1級レベルです。
もうひとつは「与り」。「与」という文字は義務教育で習います。実際常用漢字表にも記載されています。しかし――
常用漢字表に「あずかり」という読みの記載はありませんでした。こちらの難読性もまた、実際には漢検準1級レベルです。
漢検準1級は「大学・一般レベル」であり、2022年度の大学進学率が57%弱であることを鑑みても「普通なら読める」とはとても言えない難易度です。
高校レベルを一般と仮に想定すれば求められる漢検のレベルは「2級~準2級」程度であり、実際筆者も中学か高校かで準2級を取得して以降漢検に挑戦すらしていません。
つまり、難読漢字にできるだけ配慮しようと思っても、以下のような困難があるのです。
①を厳密に意識することすら「常用漢字表」や「漢検」の記載・対象に対する全知が要求されます。膨大なシナリオ量に対応し、そもそも文章だけでなく他班との折衝も発生するシナリオ(翻訳)班に更に追加でそれだけの理解と検証のコストを割けというのはあまりに酷です。現実的ではありません。
加えて②のように教育理論と実態が乖離しているおそれがあります。①の仕事を完璧に行ったとして、それでよしとして「去就」や「汗顔」にふりがなを振らなかった場合、それは不親切と捉えられかねません。
そもそも開発側にふりがなを振らせるに十分なインセンティブがないように思われます。「読めない漢字があってもたいてい文意の把握に問題ない」だろうからです。
「去就」が読めなくても先生がホシノの先生なら、ホシノの学籍上の進退には先生のサインがいることくらいわかります。
「些事」が読めなくてもアビドスごときは全く問題にはならないが先生は要注意人物として扱いたいという黒服の意図は読めます。
「与り」が読めなくても貴方のしったことではないではないですか、と言いたいことくらいわかります。
先の例で語の把握がなければ内容の把握に困るのは「汗顔の至り」くらいでしょう。「ヒエロニムスを不完全な形で先生の前に出してしまったのは「???」だが、すぐに完成させてみせる」この発言をしたマエストロの心情を適切に理解するためには「汗顔の至り」の把握が不可欠です。「汗顔」とは辞書的には「非常に恥じ入っていること」をあらわしています。恥ずかしくて汗出てきたわ、って意味ですね。そこに「至り」がついています。つまり「恥じ入る気持ちが極点に達している」ことを形式的には意味します。
ではマエストロは「不完全な非エロを先生の前に出しちゃって超はずかしいよぉ~////」と読んで終わりでいいのでしょうか。違います。
「汗顔の至り」という言葉は日常シーンでは通常使用しません。一応過分な賞賛を受けた場合にも使える言葉ですが、たいていは謝罪するときに顔から汗が噴き出し恥じ入る程申し訳ない思っている、と示す意図でたいへん格式張って謝るときに使います。格式張るとは「礼儀作法などをやかましく、堅苦しくふるまう」ことです。
マエストロがこの「汗顔の至り」という言葉を使用するに至る流れは次です。
これだけの情報ではまだ理解には不十分です。マエストロはどのような人物に敬意を払っているでしょうか。
まず、以下はアリウス分校の生徒に「木の人形」と言われたときのマエストロの反応です。
マエストロは人を指して「木の人形」呼ばわりするアリウスの生徒を「無作法」だと非難します。マエストロは芸術家ですから、その芸術性を理解して敬意を払い、「マエストロ」と呼んでほしいものだと嘆きつつ「子供」に期待するのも無理な話かと理解を示しつつ「子供」相手では話にならないと判断します。そして「子供」は「知性、品格、経験」を備えるべきだという考えを示します。
そして、マエストロの「不完全なヒエロニムス」を前にして「命すら削る切り札」である「大人のカード」を取り出した先生に、マエストロはどう思ったでしょうか。
マエストロは先生の「知性と品格、礼儀と信念、培ってきた経験と知恵」を高く評価します。「子供」に求めた「知性、品格、経験」の他に「礼儀と信念と知恵」までもを評価しているのです(連邦生徒会長が「大事なのは経験ではなく、選択」と口にしたことも是非思い出されるべきでしょう)。
そのような素晴らしい素質を備えた「先生」ならばあの「子供」とは違って敬意をもって芸術を語り合うに値する、「私の「崇高」」を理解してくれると期待します。そして、興奮しながら「私の作品に、全力で応えてくれたまえ!」と叫ぶのです。
結果として、先生は「大人のカード」で「不完全なヒエロニムス」を撃破し、マエストロは深く感謝します。そして、同時に「汗顔の至り」だと口にするのです。
何故彼は「汗顔の至り」だと口にしたのか。理由は明白です。
敬意に値する素晴らしい大人である「先生」は「全力」を以て彼の芸術に向き合ってくれました。彼の「礼儀」に対してマエストロは「不完全な代物」で応えたのです。「先生の全力」という「礼儀」に「礼儀」で応えるならば、マエストロは「マエストロの全力として完成品のヒエロニムス」を対峙させるべきでした。しかし、それができなかった。
先生が命を代償にしてまで払ってくれた「礼儀」に応えられず「不完全」を提出したことにマエストロは深く恥じ入り、「格式張って(覚えているでしょうか、「礼儀作法などをやかましく、堅苦しくふるまう」の意です)」「汗顔の至り」だと口にしたのです。
知性と品格をもって礼儀正しく振る舞うことがマエストロの美学です。だからここで使う言葉は格式張った言葉である「汗顔の至り」でなくてはならないのです。この表現によってマエストロの礼儀作法を重視するひととなりをぐっと深く知ることができますし、またマエストロが彼なりにどれだけ先生に礼儀作法を尽くして敬意を払っているのかも理解することができます。
ゆえにここを読み解くためには「汗顔の至り」という語をただ読めるだけではなく、その辞書的な意味を知るだけではなく、そのような格式張った言葉がどのような場面で一般に用いられるのかという言葉の実践についての理解までもが求められます。この語をここまで把握できているのといないのとでは、「マエストロという人間の在り方」と「マエストロが先生に向ける敬意の強さ」を理解できないのです。
ゆえに、本当に本当に万全を期すならば「ふりがなをふる」だけですら不足なのです。「解説」が要るのです。
そこまでやれるわけがないだろう……?
確かに普通はそうです。ただ、「そこまでやっている実例」は存在します。別のソシャゲ「崩壊3rd」(内部に附属するビジュアルノベルコンテンツですが、そんなことを言っても艦長以外にはわけがわからないので正確な記載はしません。webでも読めるからゲーム外コンテンツとも呼べるとかそういう細かい指摘もどうかご容赦ください)ですが以下をご覧ください。
「エイダ」という少女が「エ、イ、ダ」と発言したことについて、音声・音韻系の舌の動きを妙に強調されます。そのわざとらしい発音に対して「青年」は気まずい気持ちを抱きます。これは以下の一節を理解していない限り何を言っているのか全くわからない記述です。
これについて「崩壊3rd」では本文中に「解説」を置くことなく、テキストウィンドウ側にこの記載についての「注」が存在することを示し、必要に応じて任意に確認出来るようにしています。以下のようにです。
一瞬だけゴルコンダのようなことを述べますが、テクスト解釈が他のテクストに依存することを説明する文学理論上の概念に「間テクスト性」が存在します。興味があれば一読ください。抽象的な概念ですから、実例レベルにまで落として語るならば「崩壊3rdのこの一節の適当な理解はロリータの一節に依存している」という意味です。
「ブルーアーカイブ」は現実上のモチーフはあくまでモチーフに過ぎないことをシナリオライターisakusanが明言しています。ゆえに「第一回公会議」について「ニカイア公会議」を注で説明するような必要はないでしょう。
しかし「デカグラマトン」「聖徒の交わり」「ライブラリーオブロア」「無名の司祭」「複製」――といった語には注が欲しいと思う人もいるかもしれません。これもまた、isakusanが「考察のためにいろいろな場所に情報を散りばめている」と明言しています。それらの意味はわーっとわかりやすく開示するようなこともしないとも仰り、自分たちで拾い集めて欲しいとプレイヤーに期待しているのです。つまり、このような類に注を設けることはブルーアーカイブのシナリオ上の戦略に反するのです(isakusanは様々なシナリオ上の断片的情報を拾い集めて「自分で解き明かしてほしい」と願っています)。
ゆえに、ブルーアーカイブの物語は殆ど注を要しません。とはいえ「通常の言葉」について「一般の人達」が適切に理解できておらず、そのため「物語や人物の心情の適切な理解」が阻害されることがあり得るのは「汗顔の至り」で示したとおりあり得ます。また、先述のとおり「汗顔の至り」を理解できないこと、読めすらしないことをライターや翻訳者はたぶん予見できません。少なくとも私はそうでした。国語辞書ではないのですからあらゆる一般的な言葉に辞書的な理解を付すわけにはいきませんし、また先述のとおり辞書的な理解だけでなくどのような場面で通常用いられるかも把握しなければ適切な理解に至れません。このようなジレンマに関する現実的なレベルでの解法については――申し訳ありません。本noteを執筆している段階で私には全く思いつきません。全単語の実用現場に対する理解を解説するなど不可能でしょうし、「それを要する語だけ実用場面についての解説も入れればいい」というのは「それを要する語がなんなのか」を把握しなければならず、それが困難に過ぎるのです。
余談2:全部の漢字にふりがなをふればよいのでは?
ふりがなの話に戻りましょう。
ふるかふらないか考えるくらいならいっそ全部振ってしまえというわけです。「常用漢字表」も何も考える必要がありません。
一案ではあります。しかし筆者は「大きい」や「紅茶」にひらがなのふりがなをふられている百合園セイアのテキストボックスを見たくありません。小難しい言葉をべらべらふりがななしでまくしたてる百合園セイアに「小難しい本ばっか読んでそうな固い」イメージを感じて好ましく思うのです。「小難しい本」にはほぼふりがなはありません。幼児キャラが「ひらがな」だけで発言テキストを構成していることがあるでしょう。これについての是非はありますが、これは幼児キャラが漢字を理解していないことをあらわす効果を狙っているわけです。それと同様の効果が「ふりがながほぼない」にはあるのです。ゲマトリアや百合園セイアについて私はその効果を強く受けています。
「記載内容は同じだからふりがなの有無で言ってることは変わらないだろう」
大陸哲学の伝統に属する人(たとえばゴルコンダ)などは反論するでしょう。私は分析哲学の伝統に属するので大陸哲学徒とは論証過程は変わってくるでしょうが、概ね結論には同意します。
「ふりがなの有無で言っていることが変わらない」には反例が存在するからです。たとえば「単語の辞書的な読みが文脈に依存し、かつその単語をどちらで読むかで単語の意味が異なり、かつ文脈から単語の読みを確定できない」このような場合、ふりがながない文章は「意味の重なり合わせ」状態になります。ふりがなを振ることによって、ようやく意味が確定します。よってふりがなの有無によって言っていることは変わります。
上は辞書的な意味での問題ですが、もっと暴力的なパターンもあります。
しかもブルーアーカイブで確認出来ます。
ブルーアーカイブ最終編3章最終編実装当時における「二つ目の古則」のリンちゃんによる解釈には「己」についてよみがながありませんでした。今アプリでは確認出来ませんから、当時の実況を見るのがわかりやすいでしょう。
2023年9月13日現在、リンちゃんの古則への答えはこうです。
「己」を普通に読むなら「おのれ」です。つまり、更新前の状態では「理解できない他者を通じて自分について理解を得ることはできるのか」と読めます。五つ目の古則で他人の心に辿り着くことそれ自体は「不可能な証明」とされています。「他人を完全に理解してしまえばそれはもう他人とは呼べない」「他人はその定義上、完全に理解できない相手であることを要請する」。そんな「他人」を通じて「自分」の理解を得ることができるのか。こう読めてしまうのです。
「己」が「たがい」では意味が全く違ってきます。「おのれ」の辞書的な意味は「自分自身」です。「たがい」の辞書的な意味は「双方」です。よみがなの有無が完全にリンちゃんの答えの意味を変えています。この誤読によって、盛大な誤解をしているnoteが存在します。
はい、私がやりました! 恥ずかしいよぉ!!!!!!(こういうときにはずかしいよぉ!!!! と言うのです。汗顔の至りではありません)
しかし、私が言いたいのはふりがなの有無による心理学的な効果なのです。「ふりがなの有無によって文意が変わらない」「書かれている言葉が一義的である」場合であっても感じ方は変わりうるのです。
レッドウィンター連邦学園の知識解放戦線に属する姫木メルさん、あるいはメルリー先生のような同人作家にとって次のことは常識かもしれません。
ちなみに共感を求めるだけではあれなので論文も置いておきます。興味があればリンクを張っておくので一読ください。
つまり「何を言っているのかが同じ場合」であっても「ふりがなの有無」で心理学的効果が変わる可能性があります。それについては私が先述「百合園セイアが紅茶と言うとき"こうちゃ"とふりがながふってあったらやだ!」と駄々をこねたことが記憶に新しいのではないでしょうか。全称命題の否定は一例で済みますから、私がやだと言っている以上、「ふりがなの有無はホモ・サピエンスに心理学的効果を発さない」は偽です。もちろん「百合園セイアやゲマトリアなどといったキャラクターに全ふりがなを振ることについてどの程度、どのような影響があるのか」については未知です。私はやだー!!! と叫ぶでしょうが、そのような人間に対するネガティブな効果よりも、読みやすくなったことでより多くのプレイヤーが集まるポジティブな効果の方が大きい可能性はあります。しかしなにせ根拠がないのであんまり今の時点で深掘りすることに意味はないでしょう。
ちなみに、「技術的には」調停する解決策はあります。「オリジナルバージョン」と「全てにふりがなを振るバージョン」を設定で切り替えられるようにすればよいのです。セイアちゃんの楽園と書いてパラダイスと読ませるようなパターンはどうするんだよとかありますが、まあそういう類はオリジナルバージョンを踏襲するなどして……
実際そのような設定を可能にしているゲームもあります。一部のポケモンはそうですよね。
しかしソシャゲに関しては課題があります。コストがかかるのに開発側に十分なインセンティブが与えられないように思うのです。たとえばポケモンなら低学年の子供が遊ぶことが想定されます。筆者がはじめてポケモンを遊んだのは幼稚園の年長の時でしたから、漢字などひとつも学んでいませんでした。そういった層にリーチするためにふりがなを振るのはマーケティング戦略として妥当です。
しかし今のプレイ人口爆発状態からすれば極めて古い情報ですが、去年の段階でブルアカのメイン層は以下だそうです。
ほぼ問題なくストーリーを追うことができるにも関わらず、「オリジナルバージョン」と別に「全ふりがなバージョン」を置くだけのインセンティブを開発に与えられるでしょうか。なかなか難しいように思います。「全ふりがなバージョン」統一に舵を切るべきかどうかも、今ブルアカはほぼふりがなを振っていない以上コスト増をなるため、そのコスト増について「読みやすくなったことでどの程度利益が見込めるか」エビデンスベーストかつ論証に飛躍なく行うのはなかなかの難行でしょう。
そもそもこれ以上漢字を読めるようになるべきか?
はじめに
概観したとおり教育機関の様々な教育的努力にもかかわらず、現代人は常用漢字に限っても十分に読めているわけではないかもしれません。さて、この場合以下が考えられます
以上ふたつを眺めてみましょう。
読めなくても問題ないのでは?
この立場には2種考えられます。以下です。
まずは「①確かに読めない漢字も多いが特に困ってないので何も求めない」について検討してみましょう。おそらく日常生活において幾つか読めない漢字があることは、ほぼ支障はないと思われます。むしろ、よく使う漢字は自然と身につき、使わないからこそ知らないということが予見されます。
日常使わないような漢字を読む能力まで備えておく必要があるか。ぱっと思いつく心配は以下のふたつです。
①「法の不知はこれを許さず」は「その法知らなかったでは済みませんよ」という意味です。
我らが阿慈谷ヒフミ部長はクルセイダーちゃんを「盗んだわけではありません」と言っています。連邦法かトリニティ校則かわかりませんが、いずれにせよ法規範に照らせばファウストがクルセイダーちゃんを盗んだ挙げ句学園を失踪し正義実現委員会に重軽傷を負わせ広場を半壊させ校舎を全壊させた大悪党であることは間違いありません。ヒフミは法を正しく理解していませんが、知らなかったではすまないわけです。
②「懈怠の法理」は「権利の上に胡坐をかく者を法は保護しない」という意味です。
市民は地下鉄に乗る権利を保障されています。しかし適法な範囲で、です。規則に定められた期間内に請求しなかったり、必要書類を提出しなかったりするのに権利を要求しても法はその対象を守りません。カイザーセキュリティガードが「自身の怠慢を責任転嫁されちゃあ困る」と言っていますが、懈怠の法理の懈怠とは「なまけたり、おこたったりすること」であり、まさにこのことを指しています。ですから、尾刃カンナは権利が行使されるために必要な行政命令上の条件を全てクリアしてみせたわけです。キリノが強硬的な手段に出ていればカイザーセキュリティガードは正義の名のもとにそれと戦うことができたでしょうが、尾刃カンナの処理により市民は法の保護を受け、カイザーセキュリティガードには打つ手がなくなったわけです。
なお、法はひとつの条文に書いてあることを書いてあるままに理解しても意味はなく、他の条文を参照したり通説や判例とあわせなければ真の理解は得られませんがそもそも書いてある漢字が読めなければ理解していくのに苦労します。
基本的に国は難しい漢字は使わず、どうしても使うときはふりがなを使うようにしています。しかし、先に見たように国が漢字の読みについて適切に理解できているかどうかは怪しいところです。ですから、国のふりがなの振り方が十分に親切であるかどうかは疑問の余地があります。
実務に関わらない部分の法を見る事はあまりないでしょうが、大部分を突っかからずに読めておくべきです。
先述のとおり私は通常の人がどの程度漢字を読めるのか全くわからないので、法や行政文書程度は読めるのかそうでないのか、どの程度だと難読かの判断もできず、うまく実例を挙げられず申し訳ありません……たとえば国の機関は何かあるたびにしょっちゅう次が用いられるので参考に挙げてみます。良い例になっている自信はないのですが……
仮に法の読解に苦慮する、などの場合はやはり漢字の読みの能力の向上をはかることが望ましそうですが、その程度まで含めて概ね困らない場合、この立場には多大なメリットがあります。「なにも対策しなくていいのでなんのコストもかからない」のです。この圧倒的メリットがあるので、この立場は強いと思います。
②読めない漢字が多いことに問題はない。日本語の記載方が変わっていくべきだ
上の立場はどうでしょう。注意してほしいのは「①確かに読めない漢字も多いが特に困ってないので何も求めない」との違いです。
①は今の記載法が変わることも変わらないことも要求していません。それに対して、②は積極的な改善を要求します。
過激な主張に思われるかもしれませんが、事実としてこのような改善の努力はなされています。実例をひとつ挙げましょう。
上で用いられている旧字体は現代では一般には使用されていません。これは自然な言語の変化によるものではなく「当用漢字」制定による積極的な営為の結果です。現在は「当用漢字」も廃止され、我々の良く知る「常用漢字」が用いられています。
この「常用漢字」も適宜検討が行われており、積極的な改善の運動は現在もなされていると言えるでしょう。「常用漢字」を改めるためにパブリックコメントも用いており、生の声を聞く努力を少なくとも形式的には行っています(念のため。形式的にはを太字にしているのに非難の意味はありません。実質的に効果があったのかどうか私が知らず、少なくともパブコメやってましたよ、という事実だけは本当なのでその形式だけは否定できないだろうという意味で太字にしています。このように論理の意味は変わらないのに太字を張ったことについて予防線行為をなしたこともまた、文意が変わらなくても伝わり方が変わりかねないことの一例でしょう。そもそも論、太字にして伝わり方が何ら変わらないなら太字機能に存在価値はありません)。
ただ、そのようなものは「積極的な要求」の意味するところではないという意見も考えられます。たとえば多くの人に「去就」が読めなかった場合、「去就」を排除すべきだという考えです。
先述の通り、教育の理想の上では「去就」は小学六年生なら読めます。「去」の字は「死去」「除去」など日常生活において頻繁に使用しますし、「就」の字も「就活」「就寝」などごくごく普通の日本語として要請されます。ですからいずれの字も「常用漢字」から排除されるとは考えがたいですし、むしろ小学生ですら知っておくべき字だと認識されています。
「去」「就」という字単体の問題ではなく「去就」という単語の問題だという指摘があり得ます。日常会話で馴染みのない晦渋な文語を使うな、わけがわからなくなる――という指摘です。「去」と「就」が常用漢字表に載っていることは認めるが、「去就」が常用漢字表上の用例に載っていることは認めない、というわけです。
乱暴な主張に思えますが、もう少し精緻とはいえ似た運動はありました。「言文一致運動」です。これは国家主導ではなく主に文壇の動きから始まりました。
当時の言文一致の確認の好例がありますので引用します。谷崎潤一郎の「春琴抄」という小説なのですが、本作は言文一致を試みた春琴抄本文の作中作として文語で記述された「春琴伝」が度々引用されます。つまり、同じ場面が当時の言文一致を試みた文体と文語体とで併記されている場面があるのです。見てみましょう。
当時の言文一致の「春琴抄」と文語の「春琴伝」の春琴にはいずれも魅力があり、また谷崎自身も戦略的にそれを描いているのでしょうが、いずれにせよ現代では言文一致がたいへんに推し進められています。
今でこそ純文学といえばなんだか高尚なイメージがありますが、たとえば日本の「自然主義文学」の「自然主義」なんて新聞ではエロみたいな意味で当時は使われることもありました。
よってソシャゲが「言文一致」につぐ大運動をはじめてもまあおかしなことではないかもしれません。
春琴はおそらく「春琴伝」のような文語を実際には口にしていないはずです。実際の発言は「春琴抄」本文に近かったのでしょう。実際の日常における言葉使いをくみ取ろうとしたのが「言文一致」です。「言動」と「文章」を「一致」させようと試みたのです。
確かに現代でも文章特有と言いたくなる言葉遣いはあります。「役割語」と言われるものです。たとえば2023年9月現在の長崎市を扱ったフィクションにおいて「よく来たのぉ! ああそうじゃそうじゃ。ワシがブルアカ博士じゃよ」などという老人を登場させたとしたら「老人というキャラ付けの役割のためにそういう話し方させてるんだな」ととられるのが一般でしょう。比較して「よー来たねえ。あー、そうたいそうたい。おいがブルアカ博士で間違いなかよ」ならより口語的と認識されるでしょう。実際にはここまでなまっている人は少なくなってきていますが。役割老人でなく方言老人を使おうとする――これなら言文一致運動の更なる躍進とみられるかもしれません。
また、木之本桜の「はにゃーん」や月宮あゆの「うぐぅ」のようなものが見られる頻度が減ってきているように感じますが、それが事実ならば、もしかしたら新言文一致がそれを掲げる特段の勢力なく進行しているのかもしれません。なお、プリコネのエリコの「クスクス」(笑い声でなく文字通りはっきりとクスクスと言います。物凄い存在感があります。確か開発側の強い演技指導があったはずですが、記憶が定かでなくそこは私の勘違いかも知れません)などはカウンター的でありうるでしょう。
しかし「去就」を消し去ろうという運動は「言文一致」とは呼ばれないでしょう。
私はかなり紙幅を割いてマエストロの「汗顔の至り」発言を振り返りました。それはこのときのためです。マエストロという人物が抱える思想、人生哲学、美学、そして先生への敬意。それらをいきいきと感じさせながら、マエストロという人物から吐き出されたあまりにも生々しい実際の言葉こそが「汗顔の至り」です。「教養・品格・礼儀」――マエストロの求めるものです。そこには膨大な読書や美術・音楽鑑賞や社交が求められるでしょう。そして、ごく自然なものとして「汗顔の至り」という言葉が出てくることでしょう。
百合園セイアもそうです。卯月コウさんが彼女に抱いた印象を再び引用しましょう。
「多くの人に読めない単語」の排除に、私は賛同できません。なぜならそれは、上述した「マエストロ」や「百合園セイア」といったキャラクターの実在性を損なうからです。
彼女たちの言わんとすることを平易な言葉で記載することは可能です。
しかし、彼女たちの言わんとすることを平易な言葉で記載することは、言文一致の試みに逆行します。
小難しいことをごちゃごちゃ言って、聖園ミカに「だから友達いないんだよ」と煽られる。それが百合園セイアです。彼女の言葉を平易にしてしまったのでは、文学が試みてきた運動に逆行するだけでなく、百合園セイアという人物像さえ破壊されます。だから私はこれに与しません。
要約するとその人物が小難しいことをごちゃごちゃ言うような性格をしているなら、小難しいことをごちゃごちゃ言うべきであるし、エンターテインメント作品から小難しいことをごちゃごちゃ言うやつを排除することはエンターテインメントの可能性を狭めることになり賛同できません。「去就」も「汗顔の至り」も発言されるべきです。
ちなみにですが、このような「文体易化運動」とでも言うべき活動が奏功して「純文学」の覇権となっており、漢字が読める人間が異端となった世界を描いたライトノベルが存在します。頭おかしいのかと言いたくなるようなパワーワードが頻出するのですが、骨子としてなかなか真面目なテーマを敷いています。純文学の金字塔『きらりん!おぱんちゅおそらいろ』など悪夢ですが、ホモ・サピエンスの生得的傾向を鑑みるにこのような悪夢の到来はないもの……と思いたいものです。
読めるようになるようなんらかの対応が必要では?
次に、漢字を読めるように対策していくべきだという立場の検討。
まず前提として、この立場は「言語は変わっていくものだ」という事実には逆らいません。その上で「去就」や「汗顔」といった当面「常用」とされている言葉について読めるようになることは、それ単体では有益であろうという立場です。
しかし、能力を獲得するにはコストがかかります。セイアちゃんの発言をスラスラ読めるようになるために自発的に漢字の勉強をするのはよほど気合いの入ったサンクトゥス分派だけでしょう。
セイアちゃんの友達にはなりたい。しかし勉強はしたくない……
常用漢字を定めたのだから学校の先生になんとか頑張ってもらうことはできないでしょうか? しかし、学校の先生というのが地獄のような仕事量に忙殺されているのは周知です。
実際、「常用漢字表改定に伴う学校教育上の対応に関する専門家会議」において以下のような意見等が出ています。以下論述では度々「報告」「意見」などと省略して引用します。
興味深い意見が多いので是非以下を確認ください。
また、興味深いものとして次のような意見も上記にはあります。
我々がどの程度正確な音訓で漢字を読めているのか、定量的に十分に傾向が明らかでないのです。
「まあ読めなくても当面困ってないしいいや」という意見が一定の強さを持っていることは先述のとおりです。そして、「読めるようになるためには誰かがコストを支払わなければならない」こともまた事実です。
しかし概観したところ、少なくとも官・学は漢字が読めないことについて憂慮を示しています。これを支持しつつ、ソシャゲにできることがあるのではないかと話を進めていきます。
ソーシャルゲームにできること
下準備として官・学にお願いしたいこと
ここからが私の討ち死にの流れであり、まず実現されないであろう事柄たちです。
ぜひバカにして爆笑しながら読んでください!
先の報告のとおり、「読み」の問題については以下の課題があります。
上を概観する限り、官学は以下2点の課題を抱えています。
よって以下の定量調査が必要とされます。
「絶対金持ってくるの無理」
もう本当に仰るとおりです。無理無理無理のカタツムリです。コハルのカタツムリかわいいねえ……私の頭もコハルちゃんになってきました。
よってリスト化はたとえばこのような妥協が考えられます。
上のように妥協すれば何とか必要コストは既存の情報のデータベース化だけになります。このリスト化の後になされる正答率向上案(後述。補助金つけてソシャゲに頑張らせます)も提示して、これを実現するプロジェクトにお金をつける……若干……塵ほどですが……希望がないでしょうか……? ないね……。
残る作業は「正答率調査」です。これが大変です。常用漢字は数がありますし、年代別に調べようなどとなるとまた大変です。一人について全ての常用漢字を問うのではなく、100問ずつなどわけて問うのが妥当でしょう。
もちろん調査は紙ではなくPCやスマホ等で行い後に処理しやすい形にすべきでしょう。正確な調査のためには「選択肢」で問うのではなく「回答を直接入力させる」べきでしょうし、回答者の疲労もなかなかのものと考慮されます。
調査が終われば正答率の低い、課題となるべき漢字が見えてきます。
お金……たぶん、ひっぱりだせない……ムリ……対抗戦しよ……5敗。
ソーシャルゲームにできること
上の定量調査結果を参考に、ソシャゲに「漢字の読みについての一問一答コンテンツ」を作成してもらいます。
たとえばブルーアーカイブなら「先生」「春原シュン」「春原ココナ」といった教育関係者はもちろん、「百合園セイア」「浦和ハナコ」「空崎ヒナ」「明星ヒマリ」「調月リオ」「小鳥遊ホシノ」といった「天才」と扱われるような生徒や「安守ミノリ」「生塩ノア」といった文系にメチャクチャ強い生徒がいます。説明好きの「豊見コトリ」なんかも知識がありそうです。エリート中のエリートである「RABBIT小隊」も賢そうです。
対して「下江コハル」「杏山カズサ」「下倉メグ」「角楯カリン」「才羽モモイ」「アリウススクワッドのみんな」など勉強を頑張るべき生徒も多々います(私の大切なお姫様については、バカと言われているのですが意外とあれで教養があるのでちょっとここに入れていいかわかりません。「ミカ、君のその空っぽの頭に漢字の読解能力を詰め込むべきだろうか」「折るね☆」)
この子たちを組み合わせて漢字の読みの一問一答をやるのです。コンテンツの開催間隔(たとえば一週間に一回いつでもいいのでテストを片付けさせる、とか)や、報酬の量については検討の余地がありそうですが、最もミニマムな形は例えば次です。
開発側にはこれだけではメリットがありません。インセンティブになるのはやはり補助金でしょう。
金……そんな金を持ってくることは……できない……
塵以下くらいの可能性しかないのはわかっているのです……そんな試論なのです……討ち死にだね。そうだね……
補助金の交付決定をどのように行うかとか、額の設定をどうするかとかコンテンツの最低限の要求要件についても組み立てる必要があります。もちろんこの営為にもコストがかかります。策定した上で、補助金の交付を行っていく実務にもコストがかかります。
交付を受ける側とて、コンテンツ作成・維持だけではなく補助金を受けるのですから検査対応を行う必要があります。ユウカ……助けて……!!
いずれにせよこれだけのコストを払うに見合う額のインセンティブが必要です。
希望が……希望がない……
ここまでするだけの価値が「漢字を読む能力の涵養」にあるでしょうか。
そもそも官学が考える読む力の価値とは何でしょうか。先の報告では次のような記載があります。
そもそも「漢字を読む能力」をどのような理念に基づき求めているのか、その理念はどの程度社会的に要請されていると考えているのか……このあたり、おそらく明晰に官学が認識を一にしているようには見えません。
かなり、かなり勝算が薄いようには思っています。
でも……でも……ブルーアーカイブのプレイヤーは「先生」だから……
おれ……みんなにセイアちゃんと楽しく会話してほしいから……
あわよくばエミュ精度の高いセイアちゃん二次創作がほしいから……
ソーシャルゲームを特別視することについて
そもそも人々の読みの能力の涵養に役立っているのはソシャゲだけではありません。世の中には山ほどコンテンツがあります。特に紙芝居系のソシャゲなら先輩にADVがいます。
先の報告も次のように明言しています。
なぜソシャゲを特別視すべきなのでしょうか。理由のひとつはもちろん長期間コンテンツに触れる可能性を期待されるからです。ですが1年もつソシャゲがどれだけあるでしょう。またどれだけの人数がプレイしてくれるでしょう。少なくとも補助金の交付に値するのは一握りでしょう。コンテンツ参加人数と正答率や正答率の向上程度で定量的に成果を検証できるのは利点かもしれませんね。
また、ミニマムなコンテンツ構築条件で記載していましたが「報酬をガチャ石にする」ことを述べていました。
社会には読みの力を養ってくれる様々なものが溢れています。その中でソシャゲに特別視するだけの力があると思うのは「ガチャがジャブジャブ射幸心を煽るから」です。
射幸心の定義はWikipediaによればこうです。
なお、ソシャゲがどのような要因で射幸心をジャブジャブ煽るのかについては質問紙調査等による心理学的調査が本国・海外含めていくつかありますが、これにより以下を導けるという確証は一切存在しないことに注意ください。以下①~③の全てにエビデンスがありません。
この③に至るまで証拠を積み上げつつアピールする努力をする必要があります。
ちなみに、この努力については極めて慎重に行わねばなりません。
WHOが示した「疾病および関連する健康問題の国際統計分類(ICD-11)」には「ゲーム障害(Gaming disorder)」が認定されています。
ICD11コードは6C51です。公開されているので興味があれば以下参考ください。
文部科学省やJSPSや学校に対して「ソシャゲの射幸心パワーは他を圧倒しているから漢字の読みの教育にソシャゲを使ってくれ」とアピールしまくった結果、厚生労働省やAMEDや病院が殴りかかってくる可能性があります。
実際、ゲーム障害の診断・治療法の確立についての研究が厚生科研費により補助されています。私は文科省にも厚労省にも頭が上がらないのでどちらを擁護することもできません。俺は弱ェ!
いっそ逆に考えてソシャゲは殴られまくっているから「ソシャゲは漢字の読みの力の涵養にこんなにも寄与しています! 教育的利点が定量的に示されているんです!」と積極的にアピールしていくことで、若干風当たりが強いところに公益アピールできる――というメリットがありうるかもしれません……くらいはなし!!!!!!
ブルーアーカイブは……ブルーアーカイブは健全かつ教育的ゲームです!
補遺:先生について
ブルーアーカイブにおける「シャーレの先生」は基本的にとても平易な言葉遣いをします。柔らかで、誰にでも伝わりやすい言葉で彼/彼女は語りかけます(そしてたまに欲望で壊れます)。
その必要がなければ無理に教え諭そうとせず、ゆったりと見守ります。たとえば、杏山カズサのときがそうでした。
おどろおどろしい情報に早とちりして「見えないものを見出してしまった」RABBIT小隊には、ちょっとだけ難しい成句を用いて状況を総括しながら、そんなみんなの心の疲労を思っていったん忘れて楽しんじゃおう! と明るく言い放ちます。「杯中の蛇影」という成句は、ほっと力が抜けたRABBIT小隊のみんなの中に、きっとただの成句としてではなく一つの指針として学びの力になったことでしょう。現実ではどうしても身に付けるべき知識が多く、詰め込みを避けられません……しかし、こんな風に知識を重ねていけたら素敵だな、という一つの理想がそこにはありました。
そんな先生が、まるで「教科書を読み上げるように」つらつらと専門用語を交えて過剰なまでの説明を行うシーンがあります。コトリという説明好きな少女がいます。いつでも元気いっぱいに「説明しましょう!」と声をあげて、終わる頃には誰もいない……そんな彼女がめまいを起こしてぐったりしているとき。そこに訪れた先生に対して、コトリはぐったりしながらも、なんとか説明を試みようとします。そんな彼女の懸命な努力を、当たり前のようにスラスラと、先生は引き継いでみせました。コトリがもう苦しまなくてよいように。コトリの知的情熱を引き継いで。
マエストロが先生に敬意を示す理由です。マエストロは決して善人ではありませんが、先生に向けるその気持ちは、共感できるものがある気がするのです。
補遺2:漢字の読みを標的に選んだことについて
(追記情報となります、ご指摘いただいた方に深い感謝を!)
そもそも論として重要なご指摘をいただいたので、感謝して追記いたします!
ゲマトリアや無名の司祭や百合園セイアなどの発言内容や議論の流れを理解するのに「最も重要な要素」は「漢字の読み」ではありません。
マエストロのシロ&クロ前口上を理解しようとするならば少なくともプラトンのイデア論からおさえ始める必要があるでしょうし、ゴルコンダのペロロジラ前口上ではロラン・バルトのテクスト論を追う必要があるでしょう。無名の司祭の「驕るな――!」から始まるわけのわからん文言を解釈するのに必要なのはジャック・ラカンの精神分析ですし、リオを追うなら功利主義、義務論の理解が不可欠です。FOX EATSが語った囚人のジレンマについても勉強する必要があるでしょう。しかも、それらは単語単語の意味ではなくて、理論を体系的に学ぶ必要があります。これはティーパーティーで最も賢い百合園セイアと向き合うにも例外ではなく、彼女の言葉を理解しながらお茶会を楽しむには、膨大な労力が必要不可欠です。そもそも、ブルーアーカイブ全体を理解するにおいて、常に最新の理論と実践を追いながら理解すべき概念があります。それはティザーPVに明記されています。
「ミリタリー」です。プロローグにてユウカが「あいつら違法JHP弾を使ってるじゃない!?」と怒る場面があります。それに対してハスミが「ホローポイント弾は違法指定されていない」と窘め、ユウカは「傷跡が残るからミレニアムではこれから違法になる」とプンプンします。
これがどれだけ無茶苦茶なことを言っているか理解するには「ミリタリー」知識が不可欠です。ホローポイント弾は名前の通り先端が空洞になっており、ヒトや動物などのソフトターゲットに着弾すると空洞があることにより貫通力が落ち減速しマッシュルーミング現象を起こすことで対象に効率よくエネルギーを伝え大損傷を与える弾丸です。
これがキヴォトスでは「痛い」で済み「基本違法ではない」とされていることはキヴォトスというメチャクチャな世界と、生徒というメチャクチャな存在の説明に極めて少ない文章量で大きく寄与しています――「ホローポイント弾」が何かを理解していれば、ですが。
シナリオライターisakusanが住まう、軍役のある韓国ならまだしも、日本の一般オタクに「ミリタリー」知識は基本重いです。ホローポイント弾はオタクが大好きですからよく出てくるのでまだマシです。ミカが「サーモバリック手榴弾」を受けて「少量で相手に出来ると思うな」と全く意に介していないことに「なんかヤバいんだな」と感じることはできるでしょうが、サーモバリック爆薬について適切に機序を理解し聖園ミカに心の底から震え上がるには十分な知識が不可欠でしょう。そして先述の通り、「ミリタリー」の知見はガンガン更新されます。つまり追い続ける努力をしなければすぐに理解できない領域になってしまいます。本来であればブルーアーカイブを理解する上でこれへのサポートが最大の急務です。
それではなぜ、ここで「漢字の読み」などという議論の理解に些末にしか寄与しない問題に焦点を絞ったのでしょうか。答えは極めて――極めてシンプルです。
私が「漢字の読み」問題にしか改善策を(それも現実的なレベルでは実現不可能な荒唐無稽な)提案できなかったからなのです!
「漢字の読み」あるいはそれに付随する「辞書的な意味」だけは「常用漢字表」や「一問一答」で全先生の改善を図る方途を提案できました。
しかしながら、理論の体系的かつ最新の知見を追い続ける継続的な学習については一切の改善案を思いつけませんでした。「学習策として何を提案すべきか? その根拠は何か?」「誰がコストを支払うべきか? その正当性は?」といった問題に手も足もでなかったのです。「ミリタリー」に限ってすら、注釈をつけずにブルーアーカイブがこれだけ爆発的な人気を博しているのですから、開発側に多大なコストを払って注をつけるだけのインセンティブがあるかどうか疑問です。
つまり、これについて私は討ち死にすらしていません、敵前逃亡です。
プレイヤーに勉強するコストを支払わせるだけの動機付けもブルーアーカイブのプレイからは得られる傾向がさほどないように思います(ブルアカをやってこれ勉強してみよう、という人がいない、という意味ではありません。そういう人が大部分になるという流れができてこない、という意味です)。これは欠点なのではなく、強みです。そういう部分を理解しなくてもブルーアーカイブのシナリオは面白いし、生徒たちは魅力的だからです。
それでも、何か少しでも。プレイヤーがコストを払わずにシナリオ理解に一歩近づけるものがないか。そう思って些末な効果しかないと思いつつも提案したのが「漢字の読み」で――そして私はそれについても討ち死にしたのでした。
ばに、ばにたす……
百合園セイアとお茶会を
キヴォトスの七つの古則――その五つ目を覚えているでしょうか。その文言は、百合園セイアが私たちに教えてくれました。
真の楽園に辿り着いた者は楽園の外に出ることはない。出てきた者を観測してしまえば、その観測事実が楽園が真の楽園ではなかったことの証左となってしまう。楽園の存在証明に関するパラドックスです。
先生とハナコは楽園――他者の心について同様に考えました。他者の心を真に理解してしまえば、その者はもう他者とは呼べない。それを回避しようとすると、他者の心を理解することはできないという命題が導かれてしまう。
それはきっと「不可能な証明」だとした上で、しかし先生は一つの案を提出しています。
先生は楽園の存在証明について、「YES」か「NO」かのいずれも選びませんでした。それに対する百合園セイアの反応は苛烈です。
なぜ無意味なのでしょう。なぜ信じることに意味はないのでしょう。それは百合園セイアが次のように考えているからです。
楽園の存否は全ての人たちにとっての「宿題」です。楽園の存否、つまり楽園があるかないかを答えなさいと全ての人が問われているのだから、セイアも人である以上、その「宿題」に向き合っています。「楽園があると信じる」という先生の主張は「楽園の存在」「楽園の不在」のいずれも証明せず、「宿題」への回答になりません。ゆえに「宿題」を抱える百合園セイアにとって「信じたところで、そこには何の意味もない」のです。
普通の放課後の光景を思い浮かべてみましょう。生徒が「回答が二択の宿題」を解きながら悩んでいます。そこに先生がやってきて「二択のどちらでもないこと」を言うのです。「宿題」を片付けたいのに「宿題」の答えと関係のないことを言われたら、むかついて意味のないことを言うな! となる気持ちはたいへんよくわかります。
それに対する先生の答えはみなさん覚えていらっしゃるでしょう。
百合園セイアは呆気にとられて、そのあと赤面します。この時点で彼女は先生の言葉の意図を少なくとも十全には把握できていません。困惑したセイアを残して先生は去っていきます。
セイアが先生の言葉の意図を理解するのはもっと後。かつて第一回公会議がなされた通功の古聖堂の前でヒフミが「私たちの物語」を続けていくことを告げ、先生が「自分たちこそが新たなるETOだ」と宣言した後のことです。セイアが理解を得る過程はかなり長大なので言葉のみ引用します。
百合園セイアは頭が良すぎてしばしば思考過程を追うのに苦労するところがあります。
先程の先生との議論においてセイアは「信じることに意味はない」と言っていました。しかし、既に彼女は納得を得ています。その理路は何でしょう。重要なのは次の一言です。
「これは、そんなお話ではなかった」
まだ意味不明だと思います。「これ」は何を指しているのでしょうか。
セイアの思考を抜粋して以下のように並べるとわかりやすくなります。
百合園セイアは五つ目の古則について、「暴力的で不可能な存在証明」であるにも関わらず、「そうであってもなんとかして楽園の存否という問いにあるかないか答えること」を全ての人に課された「宿題」だと思っていました。
セイアが理解に至った先生の態度はとてもシンプルです。「セイアは宿題のプリントに記載された問題文の解釈を誤っていた」――です。ゆえに以前のセイアはその間違った解釈である「暴力的で不可能な存在証明」に二択で答えることに執心し、「信じるという態度には意味がない」と怒ったのです。
しかし、セイアは認めます。
「ああ、私が間違っていたとも。これは、そんなお話ではなかった」
「セイアの宿題に記載された問題文についてのセイアの解釈は誤っており、きちんと問題文を解釈したならば「そこには楽園がある」と「信じることによって、証明される楽園」が「ずっと私たちのそばに存在していた」と言うことができる……
問題文の解釈を変える。「その発想はなかったよ」というわけです。
なぜティーパーティーで最も賢い百合園セイアにその発想がなかったのか。思い出してほしいのは先生による新ETO宣言です。これに対するセイアのコメントは以下でした。
そう、百合園セイアは「子供」であり「解釈の歪曲」は「大人」のやり方なのです。
契約を用いた欺瞞行為は空崎ヒナを以てして「天才」と言わしめた「小鳥遊ホシノ」ですら屈していました。「アビドスを去り小鳥遊ホシノの全権利を私どもが有するかわりにアビドスの借金の大半を私どもが肩代わりする」という旨のことを黒服は言い、苦渋の決断でホシノはこれを呑みました。
黒服は嘘を言っていません。ただ小鳥遊ホシノはこれを以下のように理解しました。
しかし全く同じ文言で黒服はこう解釈しています。
ホシノと黒服は同じ文言について全く別の解釈をして合意しました。これが黒服の「大人」のやりかたです。そして――「小鳥遊ホシノの去就については顧問の承認が必要であり、自分がサインをしていない以上小鳥遊ホシノはアビドス高校のアビドス生徒会に属する自分の生徒であり、契約は成立しない」と切り捨てた先生のやりかたもまた「大人」のやりかたです。
「子供」は「約束」を一義的に捉えて守ろうとします。しかし「大人」は余地さえあれば「解釈」により「約束」の意味を変えたり、あるいは「約束」の上位による「規則」に照らして「約束」そのものが無効であると棄却したりします。
百合園セイアの話に戻りましょう。
「楽園に辿り着きし者の真実を、証明することはできるのか」
五つ目の古則はその文言を一切変えないままに、その色を変えました。もうそれは証明問題でもなんでもありません。必死で二択の「宿題」を解いていた生徒に先生がそんなことを言ったなら、例え自分が文意を読み間違えていたのだとしても文句の一つだって言ってやりたくなります。
そして、先生に文句を垂れながら、「暴力的で不可能な存在証明」から解放されたセイアはようやく微笑むのです。
とても大切なことは、百合園セイアは実のところ客観的には「宿題の問題文の解釈を誤ったとはいえない」ことです。
実際、先生はセイアの従前の解釈を間違いだとは言っていません。
上記のとおり先生は楽園の証明に「興味がない」、生徒を助けに行かないといけないので言葉遊びは自分にとって「優先事項じゃない」と言っているに過ぎません。
セイアは「暴力的で不可能な存在証明」による二択に追われていました。
思い出されるのは調月リオの「トロッコ問題」でしょう。
先生はリオがアリスを巡る問題について思考実験「トロッコ問題」を設定したことを明確に間違っていると考えています。リオ本人もまた後に「前提を誤った」とこれを認めています。リオの何が誤っているかについては客観的に明白です。一例は早口オタクTさんが述べている「トロッコ問題においては、トロッコの進路の先にいるのは無関係な他人でなければならないと前提されている」でしょう。以下で詳説していらっしゃいます。
パヴァーヌ2章におけるこういった問答、一見リオの理論にモモイが感情論で突っかかっているだけに見えます。しかし重要なのがこのモモイの感情論で、トロッコに轢殺されようとしているアリスが無関係の他人でないことの証左になっています。つまり、モモイの感情論はトロッコ問題の前提を破綻させます。
誤った前提はまだあります。「アリスを優先してキヴォトスの終焉を導出する」か「アリスのヘイローを破壊してキヴォトスの終焉を阻止する」かというリオのトロッコ問題について先生は「全てを救う」と回答しています。
これに対するリオの応答は「詭弁でありトロッコ問題にそのような回答は許されない」です。まず誤解のないようにリオの弁護をしますが、実際に思考実験トロッコ問題を議論するのであれば「全てを救う」は思考実験のなんたるかを理解していない人間の放言です。
しかしパヴァーヌ2章における状況は仮にアリスを全関係者と完全に無関係の個人と仮定してもトロッコ問題で考えることができません。トロッコ問題の思考実験としての特徴は第三の選択肢を「思考実験という設定上」許さないところにあります。
突然勇者が現れて「光よ!」とトロッコを吹っ飛ばしたり、通りがかりのお姫様が隕石を落として(ミカ。君なんで隕石とか落とせるの?)トロッコを圧壊させたり……といった事態は「哲学的問題を考慮するため、現実はそうではないが二択を破綻させる事象は絶対に起きないこととする」と約束されているのです。トロッコ問題は思考実験のために慎重に構築されており、そのため「第三の選択肢」を絶対に許さないように作られています。
つまり、トロッコ問題は思考実験のために極端に状況を単純化しており、二択のどちらかしか選べないように設定されています。この設定により、哲学徒にとっては常識ですが、トロッコ問題は様々な要因が考慮される現実に対して素朴に適用してはならないとされているのです。
卑近な問題で例示すれば現実にトロッコ問題を適用することの異常さがすぐにわかります。
自動運転のAIを構築するにおいて、トロッコ問題をそのまま素朴に適用する人はいないでしょう。仮にリオと同じ功利主義を採用するとします。ここで仮にと書きました。実は功利主義を採用すべきかどうかにすら問題があります。ゆえに先生はリオが誰にも相談せず一人で決めたことについても責めたのです。
ここで一度リオを擁護しましょう。アリスが世界を滅ぼす可能性が十分に高いとき、功利主義に則った場合「誰かに相談すること」が最適戦略でないことがあり得ます。実際、ミレニアムのほぼ全てがリオの敵に回りました。エリドゥ、アビ・エシュフといった対策をほぼ一人で成し遂げたリオですが、「誰かに相談した」場合、そういった対処を打てなかった可能性があります。たとえばエリドゥの建築。「キヴォトスの危機なのになぜミレニアムサイエンススクールが建築資金を負担すべきなのか」「連邦生徒会が非常対策委員会を設置し財務室長の承認を得て予算を議決し動くべきではないか」。こんなことをしていては全てが間に合わないかもしれません。しかもこれはリオにみんなが賛成してくれた場合です。リオにみんなが敵対して邪魔をして余計に物事が進むのが遅くなる可能性があります。たとえばミレニアムの会計であるユウカは、全力でリオに敵対するでしょう。つまり、功利主義に則った場合、リオが「誰にも相談せず独断で動く」ことは最適戦略である可能性があります。
さらに、リオは「アリスとは何者かについて」は実際には他人と会話しています。しかも相手は「全知」明星ヒマリです。ここにおいて、調月リオと明星ヒマリは「アリスが名もなき神々の王女」であることに合意しています。その上で二人は結論をわかち、敵対しました。リオにとってはこの合意だけで、功利主義を採るなら動くに十分です。名もなき神々の王女による被害想定はできているのだから、アリスが名もなき神々の王女であることさえ判断できていればそれで十分。名もなき神々の王女がもたらす被害程度は既に計算できている――もちろんここにはリオの主義を認めた上で指摘すべき点があります。「全知」明星ヒマリですら最終編で初歩的な計算ミスを犯し、調月リオがフォローを行っています。つまり、一人で計算した場合計算ミスがあり得ます。ですが「誰かに相談する」リスクは先述のとおり。リオが「調月リオの計算ミスのリスク」を考慮に入れた上で計算を行いその上で「アリスのヘイローを破壊すべき」とひとりで結論を下すことに合理性はあります。なお、「全知」明星ヒマリは「名もなき神々の王女」に関するリスクを十分に把握していません。このことは、無名の司祭の遺産に関する知識についてヒマリが十分な知識を持たず、リオこそが専門家であることが最終編で何度も何度も繰り返し語られています。
先生はリオとヒマリの密談についてまるで相談していないと見なしています。理由は簡単で、リオとヒマリがとっている正義についての戦略が異なるからです。これについては「ヒマリがアリスの脅威について無知」であることが重要な意味を担います。誤解してはならないのですが「リオはヒマリに危険性を説明すべきだった」という意味ではありません。「「全知」である明星ヒマリがアリスの脅威について無知であるにも関わらず、可愛い後輩としか口にせず、リオがやろうとしたことはただの殺人で、独善に過ぎない」と断じた点にあります。ヒマリほどの賢者が十分な情報を持たずに急いた結論を下すはずがありません。ヒマリはアリスについて、結論をくだすに必要な情報を既に持っています。それは「アリスは自然権を有する」ということです。
これについて、リオはアリスに人間性を見てしまうのは「エライザ効果」だとパヴァーヌ2章前半で述べていますが、後に少なくともアリスに自然権を認めることを前提とした議論を行っています。アリスに人間性を感じるのがエライザ効果に過ぎず、アリスは命でなく、アリスに自然権がないのであれば――リオがトロッコ問題を口にする意味がなくなるからです。「レバーを引けばミカン箱が潰れる」「レバーを引かず放置すればキヴォトスが滅ぶ」こんなトロッコ問題はあり得ません。トロッコ問題は両路にいる人が自然権を持つことを前提としています。ここで「リオが本心からアリスに自然権を認めているか、議論のためにモモイ達によりそって仮に自然権を認めてトロッコ問題を持ち出したか」は問題ではありません。
さて、ヒマリの話に戻ります。なぜ「アリスが自然権を有する」と判断することがヒマリの結論において重要だったのでしょう。それは義務論に基づけば簡単に説明がつきます。古典的な義務論の話はなんといってもイマヌエル・カントが行っており晦渋極まりなく、実践理性批判はおろか道徳形而上学原論ですら読み解くに苦労するでしょうから、ここでの議論に限って簡単に述べます。
これがヒマリの主張であり、ゆえにヒマリは「アリスが自然権を有すること」を確認すれば、「可愛い後輩」と結論づけて、「名もなき神々の王女」がキヴォトスに対してどれだけの脅威を持とうとリオに敵対するだけの合理性を堅持できるのです。合理性を数的処理に基づいて実践をなすことと誤認している人が多いですが、合理性という言葉には必ずしもそのような意味はありません。論理で適切に導出できていれば、その態度は論理的なのです。その意味で、義務論は合理的です。というか、この意味で義務論が不合理なら義務論は論証瑕疵を指摘されて破綻して終わっています。功利主義と義務論が延々正義の議論で殺し合っているのはお互いが合理的だからです。たまに不合理が発見されたとしても、それは修正された合理的な功利主義と合理的な義務論として再び立ち上がるのです。トロッコ問題における義務論者の回答はこうです。
上の回答を見てただ合理的なだけで義務論なんて本当に生きのこっているのか……? と思っている人は応用倫理あるいは法学についてあまりにも不勉強です。大学などの倫理審査系の業務に携わったり、医療倫理に携わったり、法で自己決定関連に携わったりするとすぐ義務論的な立場が応用として現場に顔を出します。少なくとも現代日本で医師が功利主義的判断から人一人の命を救うためにと、合併症などの問題について十分考慮した上で、確実にその人を救えると判断して、十分意識が明晰で自己決定が行える患者の拒否にもかかわらず輸血を行ったとき、場合によっては法で罰されます。そもそも、トロッコ問題を提案したフィリッパ・フット自身が功利主義などの帰結主義に敵対的です。ですからトロッコ問題についてきちんと勉強している哲学徒はリオが帰結主義である功利主義者であるのに、一番素朴なパターンのトロッコ問題を持ち出して自分を擁護しているのを見ると「???」と軽くメダパニ状態になります。ちなみに不勉強であることに問題はありません。いずれも大学レベルの問題です。もしかしたら高卒で公務員になるなら公務員試験の対象になるかもしれませんが……。
ですから、ヒマリがアリスを「可愛い後輩」と言ってリオの結論と反したとき、ヒマリとの決別を決定したリオはきちんと話をしていないと先生は非難するわけです。何について話をしていないのか。「功利主義以外の立場が合理的にあり得る」ことについて話をしていないのです。リオの持ち出した一番素朴なタイプのトロッコ問題はそもそも反帰結主義者のフィリッパ・フットの提案であることは先述のとおりです。それを功利主義者が持ち出して、それのみをもとに自身を正当化するという振る舞いから見るに、明らかにリオは功利主義以外の合理的な正義論を知らないのです。そして、義務論的主張を行ったヒマリときちんと話せば、義務論が合理的に構築できることを知りうるのです。更に言えば「ヒマリがなぜアリスを可愛い後輩だと判断したのか」を問うためにリオ自身のエリドゥ計画を披瀝する必要は一切ありません。つまり、リオは功利主義的観点から見てリスクを一切負うことなくヒマリの話を聞けたのに、「同盟は終わり」とヒマリとの対話を打ち切ったのです。リオはこのとき「あなたは一体何を言っているの?」と問い、ヒマリも同じ問いを返しています。これはブルーアーカイブのテーマからしてある意味では当然のことです。
「他者の本心など理解できない」
このことを覚えておくと、後に百合園セイアの話に戻ったとき。エデン3章以後の百合園セイアが「どれだけかっこいいことをやっているか」を理解できるでしょう。
※先生はリオが誰にも相談していないと言っていましたが、どのようにして把握したのでしょうね。リオとヒマリの「密談」内容について、ヒマリ救出後にエイミの端末を通してモモトークが送られてきたとか……? ダイブ装置など突然でてくるので(VRでも古い、等々一応パヴァーヌ1章等で伏線はまかれてはいますが)このあたりのギミックは不明です。というかブルアカはたぶんその辺あんまり重視してない気がします。
念のために。リオとヒマリの不十分な対話の話を終え、自動運転制御AIの話をもう少しだけ。「制御Aを採った場合1人が死亡する」かつ「制御Bを採った場合4人が死亡する」場合に「制御Aを採用すべきである」と考えるのは論理的ではありません。功利主義に従って制御Aを論理的に採用するためには「制御Aを採った場合1人が死亡する」かつ「制御Bを採った場合4人が死亡する」かつ「他の制御は不可能」な必要があります。思考実験トロッコ問題は2択であり他の手段が存在する確率は0です。しかし運転制御AIは2択に縛られるべき理由がありません。運転制御AIを考えるときに素朴にトロッコ問題を持ち出して判断するのは「誤った二分法」であり誤謬です。パヴァーヌ2章の状況についても同じことが言えるわけです。ですから先生は「全員を救う」と口にしたわけです。「そもそも前提が誤っており」「状況がトロッコ問題ではないから」です。
対比的な少女としてFOX EATSのオトギさんが参考になるでしょう。「囚人のジレンマ」は数理モデルに過ぎず現実に当て嵌めれば話は違うだろうという先生の指摘に対して(文系人間とてドーキンスの「利己的な遺伝子」くらいは読みますから、自然淘汰はALL-Dを導く傾向にないことは知っていますし、たびたび開かれる無期限繰り返しゲームのリーグでもALL-Dは優勝経験がありません。言うまでもありませんが先生が生徒に対して採るALL-Cも同様です)、彼女は現実では様々な変数や未来への影響を考慮しないといけないよね、と認めています。その上でALL-Dを先生に勧めるために「未来を考慮する必要のない」「一発勝負」の囚人のジレンマを押しつけようとしてくるのです。実際相手が「裏切りを記憶して学習するか」「裏切りの事実が他の個体に知れ渡るか」はALL-Dを採るべきかどうかにおいて重要な要素ですから、たいへん慎重でえらいです。
もっとも、今がまさに「未来を考慮する必要がない状況」であると説明するために「私たちは武器だから先生の選択を記憶しないしこの選択が他の生徒に影響を与えることもない」を持ってくるのはナデナデしたくなるくらい可愛らしいですが、「第三の選択肢などない」を立証しなかったリオよりはまあ頑張ったところでしょう。
ちなみにですが、学園都市キヴォトスにおいてゲマトリアの推論が正しいと仮定した場合、リオが仮に「第三の選択肢」があり得るとした上で「アリスのヘイロー破壊」を選択した――と仮に考えた場合でも「全知の存在から見れば」最適戦略ではありません。
「サンクトゥムタワー」の行政制御を連邦生徒会が握っていることにより、キヴォトスには「学園都市」というテクスチャがはられており、だからこそ「先生は無敵」です。なんなら、「サンクトゥムタワー」が崩壊した上ですらクロコ自身が「先生が存在する限りどんな迂回策を採っても無駄」とプラナを窘め、「先生を倒すには先生をぶつけるしかない」としています。
先生は「何があろうが何をしようがあらゆる生徒を救う」戦略を採りかつ「先生は無敵」なので最適戦略は「先生に助けを求める」ことでしょう。
ちなみにこの場合、おそらくエリドゥが建設されず、プレナパテスが座するアトラハシースへのエリドゥミサイル発射がなされず、多次元バリアへの対処が遅れ、キヴォトスが滅びる可能性がありますが、クロコに言わせれば「どんな迂回策も先生には無駄」です。
ただし、これはクロコやゲマトリアの推測が正しい場合は、です。少なくともプレナパテスは死亡しています。これが「何らかの形で先生の無敵を剥いだ」結果なのか「そもそも先生が無敵である」という前提が間違っているのかはわかりませんが。また、以上は「ゲマトリアの推測が正しく」「全知の存在から見た場合」の「二択に縛られなかったリオ」の最適戦略です。
「サンクトゥムタワー」は確かに名もなき神、無名の司祭たちの技術により建立されたものですから、「キヴォトスの生徒」で最もそれに詳しいのはリオでしょう。ですがそれは彼女がゲマトリア以上の知識を持っていることを導出しません。また、リオがゲマトリアの認識は誤っており先生は無敵ではないと調査により結論づけている可能性もあります。
「キヴォトスは先生の力が作用する世界」であるという認識をリオが持たない場合、「二択に縛られずとも」リオが様々な可能性を考慮した結果として「アリスのヘイローを破壊する」ことが「功利主義的には正しい」ことがあり得ます。
功利主義者の中にも、いやいや横領したりアリスのヘイロー破壊するような類を必ずしも功利主義は擁護すると限らないから――という人があるでしょう。
躊躇なく法を犯してキヴォトスを守ろうとした調月リオの功利主義は正確には「行為功利主義」と呼ばれます。別の功利主義的な立場からは調月リオへの批判の可能性がありうるのですが、それに対しては「リオがトロッコ問題に囚われず多数の選択肢を検討した上でアリスのヘイロー破壊が最適であり、それがなされなかった場合キヴォトス崩壊は避けられない」とした場合、それらの批判に反論できます。
理路は非常に単純です。「犯罪しないとキヴォトス滅んでたんだから、必ずしも法は守る必要がない。法を守ってキヴォトス滅亡を選ぶならそれは功利主義の根本的な立場を放棄している」というものです。行為功利主義は功利主義としてはかなり古く、批判も多いのですが現代的で知的にエレガントな擁護者にJJCスマートがいます。
邦訳がひとつもないので勁草書房さんあたりなんとかしてくれませんか……? 行為功利主義擁護の議論を非常に簡単に要約するとこうなります。
上の議論により「功利主義によってルールを必ず守らせようなど噴飯ものだ」「功利改善されるなら約束事など破ってしまえ」というわけです。このような立場の功利主義からすればリオの行動は(適切に計算できていれば)擁護できるでしょう。
ちなみに「リオが第三以降の選択肢も検討した上で」「先生の無敵性を知らず、あるいはそもそも否定し」「行為功利主義によってアリスのヘイローを破壊しようとした」と仮定しても先生はリオを叱ったでしょう。「義務論」を知らなかったからです。
こればかりはどうリオを擁護しようもありません。パヴァーヌ2章、最終編と何度もテキストを読み込んだのですがリオが「義務論を知っていた上で棄却した」ととれる文言はどこにも見当たらず、どう読んでもリオは義務論を知らないのです。そしてヒマリの立場はパヴァーヌ2章を見ても最終編を見ても「どう見ても義務論的」なのです。そして先述の通り「行為功利主義的なリスクを冒すことなくヒマリの義務論的思考を聞き出す機会」があったのです。それにも関わらず同盟を終わりにしたからこそ、先生はリオのその点を厳しく責めたのです。
" 注意すべきは先生は「義務論者に転向しなさい」とリオを導いているわけではないのです。「行為功利主義的観点から見てもリスクなく義務論を知る機会があったのにこれを逸したこと」と「現実問題にトロッコ問題を素朴に適用したこと」を指摘したのです。「安易な解」の話を概観して後述しますが、実際に今のところリオが「義務論者に転向した」と確実に理解できる証拠が、実は存在しません。筆者の個人的希望を述べるならば、リオは功利主義者であり続け、いつかヒマリと殴り合ってほしいと思っています。
また加えて、誤読してはならない点は、先生は「哲学的な手法による主義の導出」により自己を確立する人物ではない――少なくとも厳密にそうであると確証することはできない点です。たとえば先生は銀行強盗を容認しているから例えばカントが言うような意味での「義務論者」では決してなく、リオがどのような根拠に基づいて判断を行ったのかさして気にしていない点から「功利主義者」でもなさそうです。ではなぜ先生はリオに対してこのような筋道で指摘を行ったのか。それはリオが「極めて論理的」であることを度々明言するほど科学的な立場に立脚した生徒だからです。リオのフィールドで話した方がリオにとってわかりやすいから、そうしたに過ぎないと考えています。そうする動機は単純で、この人が先生、教育者だからです。生徒にわかりやすい形で指導するのは当然です。日常的な会話の技法で説得するならこういったパターンが考えられます。
「拘束じゃだめなの? 一時捉えてその間に対策練ってさ」
「駄目よ。プロトコルATRAHASISにり顕現するアトラ・ハシースの箱舟は全ての神秘を内包した概念的存在であり物理的実体ではないの。物理的拘束の有効性は保障できないの。もし箱舟が作成されてしまえば、もし新たなサンクトゥムが建立されてしまえば、全ての神秘はアーカイブ化され、果てにキヴォトスは滅亡に至るでしょう」
などといった会話が可能です。しかし先生はそうしませんでした。何故か。リオがミレニアムサイエンススクールに属し科学に奉仕し千年難題に挑む者だからです。
ゆえに先生は科学の立場に立脚して語ります。リオは「アリスのヘイローを破壊しなければキヴォトスは滅ぶ」という仮説を立て、そこから説得として「トロッコ問題」を持ち出しました。日常会話ならそこから様々な話題が花開くでしょう。しかし、厳密な科学の討議においては仮説の立証側が立証責任を負い、仮説を受けたものはそれを検証します。科学の討議の上では対案を示す必要もなければ、積極的な誤謬の指摘すら義務ではありません。アリスのヘイローを破壊すると言うのであれば、リオは科学に奉仕する者として厳しい立証の場に立ち、先生は検証でそれに立ち向かいます。ゆえに、先生は単に「現実に思考実験トロッコ問題を持ち出し二択を迫った君のやり方は破綻している」とだけ指摘したのです。科学の討議上、それ以上を口にする義務はありません。逆にリオにはそれでもアリスのヘイローを破壊したいのであれば正当性を立証する責任を負います。行政手続きに則らず、行為功利主義を貫き、科学者としての精神を抱いてアリスのヘイローを破壊するというのであれば、リオは必ずそうしなければなりません。そして、様々な可能性により議論が発散的になる日常会話と違って科学の討議は仮説の提示、検証による指摘という形で焦点を完全に絞られ、極めてシンプルに情報が整理されます。もちろんその後に情報交換会などもあったりしますが、質疑応答の正道はこれで、だからこそリオにはこの会話が千年難題の解決を望むミレニアムサイエンススクールの科学者として一番「前提が間違っていた」という端的な結論にすぐ辿り着ける議論の道筋であり、ゆえに先生は方便として徹底的に科学の立場で指摘したのです。先生は教育者です。教育者だからこそ、逆説的にリオの理解に役立つために、徹底的に科学の立場で戦ったのです。
実際先生の指導はわかりやすいことがコトリの絆ストーリーで明言されており、セイアもリオも同様に上手く導いています。そして、セイアとリオを説得する時の先生の論法はまるで異なります。つまり、それでは先生の人物像は生徒に応じてブレにブレまくることになりますがこれは事実でしょうか? 勿論事実です。先生の実際の言動から読み取れるだけでなく、ティーパーティーが集めた情報によると、先生像が報告書によってまるで異なることが報告されています。先生はあくまで「教育者」であり「哲学者」でも「科学者」でもない点、ご注意ください。"
(""で囲った本箇所については、たいへん有益な意見をくださった方々との対話やご意見により改めて強調すべきと判断し追記いたしました。本当に勉強になるやりとりでした、心よりお礼申し上げます)
isakusanは文学、哲学、美学、原始キリスト教、原始仏教等に極めて強い博覧強記の人です。よくパヴァーヌで「先生は思考実験を理解していない」などと非難されますが、私の考えはむしろ逆で「パヴァーヌ2章の本議論はあまりにも高度に哲学的すぎて、哲学徒以外には先生とリオとヒマリを巡る議論の筋を追えない」のではないかと考えています。
でも、いいんです。パヴァーヌ2章は「友情と勇気と光のロマン」なのですから、勇者と仲間たちの冒険活劇こそが本筋なのです。
上のように高度に哲学的な前提がありながら、その殆どがまともに解説されず、リオが最終編で一人で「前提が誤っていた」と納得するくだりも哲学的な筋など追えなくてもいいんです。
モモイだってトロッコ問題の前提破壊のためにうるせーアリス返せと叫んだ訳ではありません。というかモモイちゃんにそんな高度な哲学的知識、絶対ないです。
ちなみに先生、ヒマリには「リオと話せ」と叱ってないですよね。たぶんあの超天才清楚系病弱美少女ハッカーは「友達たくさん」で「おしゃべり大好き」で実際最終編でもリオに対して「べらべらべらべら」とこれでもかというくらい義務論的な立場から言葉のナイフを投げまくっていました。だからヒマリについてはほっとこうと思ったのでしょう。
義務論と功利主義は宿命のライバルです。お互いに合理的で、なぜお互いがその主義を採るのかわかり合えないからこそ、殴り合うには互いの理解が不可欠。いつかリオもヒマリを殴り飛ばしてやってほしいのですが、「友達たくさん」のヒマリと違ってリオは「自分を理解してくれるとしたらそれはヒマリ」と思っているという不均衡があるので、いきいきとぶん殴れる日は遠いかもしれません……。トキーっ! バニー姿でポテチ食ってる場合じゃないぞ! リオ帰ってきたらリオとイチャついて元気になってもらってリオとヒマリのプロレスを僕に見せてくれよな!!!!!
最終編のトキのピンチにおいて、リオは「トロッコ問題」を放棄しています。注意してほしいのですが、功利主義を放棄したととれる文言は実は一切ありません。
「トロッコ問題」を現実に適用できないからこそ、二択ではなくトキを助けようとして何か「第三の方法」がないかと必死で考えながらトキの自己犠牲を否定するリオと、リオがすぐにミレニアムから逃げてしまったからこそ「前提を誤っていた」としてリオが考えを改めた事実を知らずに「二択」を迫るトキ。彼女たちを救う話のタイトルは、ブルーアーカイブにおける最高の一つだと思います。
「百合園セイア」もまた未来を強いられながら「楽園の存在証明」という二択を強いられた生徒です。そして「下着の存在証明」を受けて「ひどい話だ」と笑って二択を放棄した彼女が、大急ぎでミレニアムに連絡をとってリオに「安易な解」を持ってきてくれたこと――きっと、細かい哲学的議論なんて抜きにして、最高に燃えるシーンだと思うのです。セイアちゃんも友達あんまいないよな!!!! リオなんてどうだい!?!?!?!
僕、調月リオ大好き!!!!!! ヒマリに一発くれてやれ!!!
(ヒマリも超々々々々々々々々大好き!!! カラオケでヒマリが演歌を熱唱する中無表情のトキとマジでいたたまれない顔してるリオを見たい)
さて、長々と述べてきましたがこれらから見られる先生の特徴は2つあります。
①は上述でよく示されたと思いますが、②について補足です。先生が「囚人のジレンマ」に対して採るALL-Cが最適戦略でないことは直感的に把握しやすいですが(モデル上は結果が出ていますし、自然界でもフリーライダーに好き放題されます)、リオに対する「全員救う」も最適戦略を特段支持しているわけではないとはどういう意味でしょうか。
これは先生の全員救うという決意表明の前段を見れば分かります。先生はリオがなぜこういった行動に出ているのか「根拠を把握しているわけではない」とはっきり口にしています。リオがトロッコ問題を持ち出したことは端的に誤りですが、諸々計算してアリスのヘイローを破壊するのが期待値的にはよろしい、という結果が出ることはあり得ます。
しかし先生は「リオがそう判断した根拠を何も知らないが全員救う」と主張しています。つまり、期待値は先生にとって問題にならないのです。たぶん彼/彼女は「世界の危機」などさして恐れてはいません。一種の狂人です。
柱によって「ミカ・サオリ」と「先生・残りのスクワッド」が分断されたときもそうでした。あの人は「全員を救う」ために躊躇せず「アツコ」ではなく「ミカとサオリ」のもとへと走りました。救われるだろう生徒の期待値は問題ではないのです。全員救う以外に、あの人の選択肢はないのです。
先生と「同じ状況で同じ選択をする」プレナパテスを見ればよくわかります。プレナパテスに至っては生徒2人を先生に引き継ぐために別の世界を崩壊の危機に陥れています。あの人にとって大切なのは「子供であり生徒」であるクロコに被された責任を「大人であり先生」である自分が引き受けて、絶望しているクロコの背中を幸せに向けてそっと押して、クロコとプラナを先生――破局を回避できた自分に引き継ぐこと。世界を崩壊寸前に追いやって2人の生徒を引き継ぐこと、それが「大人の責任を果たす」「先生の義務を全うする」ことです。
極めつけにプレナパテスのテーマ曲は「Responsibility」(責任)です。リオの口にする「功利主義」と真っ向から対立する正義が「義務論」であり、先生は厳密に見れば義務論者とは呼べないと思いますが、どちらかといえば義務論に親しい傾向にあるのでしょう。
徹底しすぎて狂人の域なのですが、素朴な領域で見るとこの人の考え方は一般にイメージする「先生」像にとても近いなと思わされます。
「トロッコ問題や囚人のジレンマを素朴に現実に当て嵌めようとすること」は「1+1=3」と言うくらいの論外であり(ここでウィトゲンシュタインやクリプキをもってこないで素朴に読んでくださいお願いします! そもそも意志決定の現実への適用と初等の算数は全く違うものだろうとかそういうのもどうかお許しください!! わかってます、わかってますから!)、先生たる者断固として拒絶すべきです。
しかしながら先生は「たくさんの店を見て回って最安値の商品を買う」生徒も「めんどくさいから目についた店で雑に買う」生徒も否定しないでしょう。
「どんな状況になっても先生は生徒を見捨てないからね!」と言うのも、いかにも戯画化された「学校の先生」が言いそうなことです。それを世界滅ぼしかけてまで実行するのがプレナパテスです。プレナパテスがやる、ということは同じ状況になったら先生もやる、ということです。
やっと少し百合園セイアの話に戻ってくることができました(すぐ別の話になります)。百合園セイアは「楽園の存在証明」に関して前の考えは間違っていたと断言しています。
しかし、先生はトロッコ問題や囚人のジレンマの素朴な適用などと違って、前の百合園セイアの考えを誤りだとは指摘していませんし、実際そうは思わないでしょう。
特に重要なのは「七つの古則」は「言葉遊び」だという先生自身の指摘です。「五つ目の古則」について言葉遊びであって「そこまで興味ない」「優先事項じゃない」と先生が言っているのは先述のとおりですが、「二つ目の古則」についても次のように口にしています。
「七つの古則」そのものに対する先生の態度は緊迫したものが全くありません。
連邦生徒会長も同じ考えです。だから、ヒントは彼女にあります。
上に対する連邦生徒会長と先生の答えはふんわりしたものです。しかし、
リンちゃんが出した「文」に対する連邦生徒会長の評価はこうです。
「私たちは、永遠にお互いを理解することなんて、できない」
五つ目の古則を思い出させる言葉です。けれど、だからこそ連邦生徒会長はリンちゃんが完成させてくれた文が好きだと言います。元々オカルトや変なものが好きな連邦生徒会長ですが、このリンちゃんが完成させてくれた文については、最終編の締めくくりになるほど、本当に心の底から愛していることが伺えます。
そして、「七つの古則という言葉遊びにそんなに興味がない」と言う先生も。ウトナピシュティムの本船を起動する直前。自身が取り返しのつかない損傷を負い、命すら落とすかもしれないという状況を前にして、リンちゃんに問います。
連邦生徒会長、そして先生にとって。「二つ目の古則」そのものよりリンちゃんがそれをどう完成させたのかの方がずっと大切なことで、先生は自らの死を目前にしてすらそのことをとても気にしていました。
生徒が一生懸命考えて、一つの「宿題」を背負い、その答えを探していく。きっと、先生も連邦生徒会長もそのことを愛していたのでしょう。リンちゃんが一つの文を完成させ、その「宿題」の答えを教えてくれることをきっと連邦生徒会長はたのしみにしていたはずです。だから、彼女はこう口にしました。
「答え」探しは「子供」の特権。リンちゃんのそれを連邦生徒会長が邪魔するはずもありません。けれど、連邦生徒会長だって「子供」です。「子供」が「答え」を持ったならば――きっと「回答」したいはずです。
だから、リンちゃんではなく「私が信頼できる大人」である「先生」に。「はじまりの物語」である「捻じれて歪んだ先の終着点」からひどく遠回りして辿り着く「あまねく奇跡の始発点」に帰るよう、彼女は「答え」を口にしたのでしょう。
もうひとつ。逆の方向から輪郭をはっきりさせることができます。先生がはっきりと「誤った選択をしてきた」と言う生徒がいます。錠前サオリです。
「誤った選択をした」と言いながらも、先生はとても錠前サオリを大切に思っています。なによりもスクワッドのみんなを大切に思い、必死になって、耐えて耐えて責任を負って守ってきたからこそ誤ってしまった。罪を犯した悪い子だともはっきり口にしています。けれどその責任は「大人」が負うべきでありサオリが負うべきものではないと断言します。
さてここに。今までの「文章」と「問い」と「宿題」と「答え」の関係、「教え」と「学び」の在り方についてとんでもないことをしでかして先生を前代未聞のブチギレモードに移行させた輩がいます。
もちろん、我らがアリウス分校元生徒会長にして、
元ゲマトリアのベアトリーチェです。
今までの「教え」と「学び」のありかたを見ていると、ここでのベアトリーチェはとんでもないことをしています。以下を例に見て見ましょう。
ベアトリーチェはこの「文章」について歪曲した「回答」を与えました。
既に「回答」が与えられているので「問い」もなく「宿題」もなく、結果としてベアトリーチェの望む「永遠に互いを他人とさせること」に成功しました。
「永遠に互いを他人とさせること」――文言だけを見れば五つ目の古則を思わせます。けれど、決定的に違うものがあります。
先生は百合園セイアに「下着の古則」でヒントを与えて、「その不可能な証明に答える必要はないこと」「信じることによって楽園は証明され、その楽園はすぐそばにあること」にセイア自身の力で気づくようほんのちょっとだけ背中を押しました。後述しますがセイアはここからさらに先へ歩き始めます。
連邦生徒会長は「私たちは、永遠にお互いを理解することなんて、できない」ことを大前提にして、リンちゃんが未完成な二つ目の古則を完成させることで「理解できない他人を通して、己の理解を得ることができる方法」の答えを得ることができ、それによってそっと先生の背中を押しました。
ベアトリーチェが誤った「教え」を無理矢理与え、「学び」の機会を奪い、「永遠に互いを他人とさせた」あとには大人による子供の捕喰が待っています。それによって大人の楽園が実現されるとするのです。
「誤答」を与えられて考えることを許されず、他人はただ他人のままで終わり、それでもスクワッドのみんなを守るために必死で頑張ってきた錠前サオリが「誤った選択」をするのは仕方のないことです。
ベアトリーチェは「私たち」大人の負うべき責任を果たさず子供を手段に用いることで、「私たち」大人の全てを侮辱し、青春を謳歌して精一杯頑張っていつか未来を担うべき「生徒」に全て逆の在り方を押しつけて侮辱し、「誤った教え」を与え、「学び」の機会を与えませんでした。尊ばれるべき全てを侮辱しました。
黒服との「大人の戦い」で「大人とは責任を負う者」だと断言した先生にとって、ベアトリーチェの存在は「絶対に許すことはできない」ものでした。「絶対」とはとても強い言葉です。「許す」余地がないのです。「大人」としての在り方も「教育者」としての在り方も「生徒」への対応も「教え」の態度も「学び」の供給も、ありとあらゆる全てにおいて許せないのです。先生は単にブチギレているわけではなく、先生が重視している概念の全てをベアトリーチェが踏みにじったからこそ「絶対に」という強い言葉を使っているのでしょう。
ベアトリーチェは互いが憎み合うことで完成する「地獄の存在証明」という言葉すら用いていますが(しかも彼女はミカとサオリという他者同士の憎悪を第三者として観測することで「地獄」を当事者としてではなく他人として観測して楽しんでいます。あくまで自分が当事者となる「楽園の存在証明」とはまるで違います)、もう於きます。論外です。
ベアトリーチェは子供たちを奈落へ落としました。
プレナパテスは子供が苦しみ責任を負う世界の存在そのものを許容しません
先生はベアトリーチェに発言を許さないどころか普段の柔らかな語調すら放棄します。
けれど、今にも崩れ落ちそうなプレナパテスの言葉に耳を傾けます。
ベアトリーチェは先生の大切な生徒に話しかけることすら許容されません。
プレナパテスは既に生命として終わっているにもかかわらず、それでも最後の瞬間まで自分の世界のシロコを教え導きました。
プレナパテスは自分の世界のシロコの苦しむために生まれてきたんだという確信を崩れ落ちる最後の瞬間まで否定しました。そして、そんな世界は「大人」が全責任を負うべきだと断言して、あまりにも重い全てを先生に託します。
世界を滅ぼしかねなかったプレナパテスによる生徒の引き継ぎに先生は当然応えました。二人にとって「大人とは責任を負う者」だからです。「大人として子供を」「先生として生徒を」守るためならいかなる代償をも支払う覚悟が二人にはあります。
ふたりにとってそれは当然でした。けれどキヴォトスにおいてはそうではありません。黒服、マエストロ、ゴルコンダ、デカルコマニー、ベアトリーチェ、フランシス、カイザーPMC理事(現営業職員)、ニャン天丸(ニャテ・マサムニェ)、亀島五郎、ニャオモト・カン、銅田明太郎、「海運会社の者」、ジェネラル、プレジデント――悪い「大人」は枚挙に暇がありません。本編だけでなくスピンオフ漫画ですら内臓の話をしたら寄ってくるロボがいる始末です。キヴォトスにおける大人の信頼度なんてゴミみたいなものでした。
大人がきらいだったのはうへうへおじさんに限りません。同じアビドスでもセリカははじめ突然介入してきた先生に憤っていましたし、調印式時点のサオリは先生のことをアズサを惑わし世界の真実から遠ざける悪い大人だと思っていました。RABBIT小隊からは地獄に墜ちろとすら言われます。FOX小隊からの信頼もはじめはありませんでした。
けれど先生には関係ありません。生徒が自分を、大人をどう思っていようが「大人には子供を、先生には生徒を守る義務がある」からです。先生はそれを貫き、絶対に曲げませんでした。
「先生は生徒を守る。何が何でも何があっても守る」
最早それはキヴォトスにおいて自然法則に等しいくらいの真理です。
そのあまりにもブレない先生の態度から、
私は正義を語る哲学史上で最も純粋であろう一文を想起しました。
カントの求める定言命法と先生の態度は厳密には異なるのですが、「私という先生個人だけでなく、大人であるならば絶対に、無条件に、子供の味方であるべきだ」という態度の、そのあまりにも強固な、殆ど狂人としか言いようのない貫き方には、どうしてもこの水晶のように透き通った一文を想起せずにはいられないのです。逆に、生徒にはどれだけ間違ったっていいんだよ、私がどうにかするよ、君たちには無限の可能性があるんだから、と激励します。この非対称性が、私にはあまりにも愛おしいです。
クロコは地上に戻ってもなお心配していました。「シロコ」は一つの世界に一人しかいられない――自分がいたら大きな歪みができてしまうからと。
シロコは「そんなことよりも」クロコが既にマフラーを失ってしまっていることをとても気にしていました。代わりに対策委員会のみんなと繋がっている証である目出し帽を彼女にプレゼントします。重複する「シロコ」による世界の問題なんかよりずっと、みんなを失って傷ついていたクロコに寄り添うことの方が大事だったのです。
一人しかいられない「シロコ」が二人いて世界に歪みができてしまう、色彩により反転したものはもうどうしようもない。そんなことはたいしたことではないからです。シロコは笑って告げます。
メチャクチャな論理です。何の根拠もありません。でも、それでいいんです。子供が安心して、自分はここで生きていけると何の疑いもなく思える世界。世界とはそうでなくてはなりません。
子供が論証によって自分がここにいてもいいんだと導く? もちろんそんな哲学的な遊びが好きな子もいるでしょう。好きならそれをやってもいいんです。ぜひ楽しんでほしいです。でも、その義務はないんです。特に難しく考えたことないけど、世界は、生徒は、大人が――先生が守ってくれる。だから大丈夫! そんなくらいの認識でいいんです。
ただ、その責任を負わされる先生は、その重さに耐えられるのでしょうか? 答えはカルバノグ2章にあります。
何の問題もありません。何の後悔もなく、むしろ心の荷を解く楽しいことなのだそうです。「大人の責任」「先生の義務」という言葉を見るたびに、私は先生の強い決意を思って来ましたが、カルバノグ2章で確信しました。この人は本当に、先生としての責任を負い、何としてでも生徒を守るという義務を負うのが楽しいのでしょう。もちろん、時には苦しいこともあるはずです。書類仕事をしているとき、先生は本当に苦しそうでたまに壊れています。それでも総じて、きっと先生は先生をしていて楽しいのです。だからこそ、シロコもあんまり気負うことなく当たり前のように自然に、先生を信じているのかもしれません。
クロコが「銀行はダメ」と言ったとき、すごく嬉しかったです。「一緒に銀行を襲うのはダメ」。けれど、クロコは決して「一緒にツーリングに行く」ことを否定しませんでした。まだ強く積極的な気持ちではないかもしれません。それでも、シロコとクロコの間に繋がる細い糸が、クロコの手によって完全に断ちきられることはありませんでした。
そして、「銀行はダメ」な理由が「ホシノ先輩に怒られちゃう」からだという事実に、クロコとホシノ、対策委員会の仲間達がまだ繋がっているんだと感じられて本当に感じ入るものがありました。
覆面水着団としての初の大騒ぎ。カイザーローンを襲撃して証拠書類といっしょに大量のお金を手に入れて。ホシノ先輩はお金に手をつけるのだけはだめだと言い切りました。シロコがクロコに贈った覆面は、そのときに被っていた覆面です。
……連邦生徒会の秘密金庫? しりませんね……
本当に遠回りをしました。元々の話はなんだったでしょうか。
百合園セイアが「楽園の存在証明」についての認識を改め、
前の認識を誤っていたと判断したことです。
一番参考になるのは責任についての先生の考えを確認した、カルバノグ2章でのミヤコとの対話です。
FOX小隊の支隊として先輩のように自らを「判断しない武器」にしようとしたミヤコに対して、先生は説得しに来たわけではないと断言しています。
先生はただこう訊きました。
楽しいかどうかなんて一見重要な問題ではないように思います。けれど先生はただそれを訊くためだけにミヤコのもとを訊ねました。先生はミヤコを説得しにきたわけではありません。FOX小隊の先輩たちの背を追って、自分なりに考えて、RABBIT小隊のみんなのことも、SRT特殊学園の未来のことも考えて。しっかりと自分の「宿題」に向き合ってミヤコは一生懸命「答え」を出したんだと思っているはずです。
だから、「宿題」を終えた生徒の答案を先生として見せてもらったのです。その答案に、先生として気になることがありました。
もしかしたらミヤコは自分の正義を曲げてまで、苦行を背負って、そういうことを責任を負うと思っているんじゃないか、と心配になったのです。
実際、先生の心配は的を射ています。
RABBIT小隊の他の皆は現在の快適さと判断しないことの楽さを感じつつも、どこかモヤモヤする感覚を覚えていました。SRTらしい高火力を思い切り振り回しても気が晴れない。安心できるけれどなんだか身の丈にあわない服を着ているような感じがする。金で動く傭兵にでもなった気分。
そんな小隊のみんなからミヤコはどうだと問われて、彼女は現在の暮らしが隊員の生活向上とSRT復活の目的に適っているため望ましいと答えました。
そうじゃないだろ、と言ってくれたのが「かつてはミヤコを小隊長だと認めたがらなかった」サキです。ミヤコの気持ちはどうなんだ。ミヤコが大切に思っていた変わらない正義はこれで良いのかと問うたのです。ミヤコは回答に窮してその場を去りました。RABBIT小隊の他の3人は自分の内面を上手く言語化できていませんでしたが、ただ一つ確信していることがありました。
「ミヤコが憧れた変わらない正義は、絶対に現状に納得してない」
先生はミヤコの結論そのものの成否は問題にしていないから、説得をしにきたわけではありません。ただ、「子供」が「大人」になるために大切な概念である「責任」を正しく理解してほしかったから、「先生」としてそのことをミヤコに伝えたに過ぎません。
偶発的ではありますが、「責任」についての理解を修正した結果としてミヤコは結論を変えました。「責任」を負うことは、自分の行動に後悔がないように、心の荷を解く楽しいことでなければなりません。
その理解に照らせば、「責任」を負うこととはミヤコにとって変わらない正義を貫くことです。かつてFOX小隊が照らしてくれた道は正しかったのだと主張して今のFOX小隊と対決することです。
連邦生徒会やヴァルキューレ警察学校と少しぴりぴりしながら微妙な立場で子ウサギ公園を拠点にしていたことも、廃棄の弁当を取り合ったことも、二人一缶のドラム缶風呂で体を清めたことも、RABBIT小隊のみんなにとっては大変だったけれどやりがいがあって、誇れることでもあって、楽しかったのです。そのことをモエ、ミユ、サキは感覚として把握していて、実際に口にしていました。けれどFOX小隊の言葉は目的に適っていて、生活の質も上がって、だからずっとモヤモヤしていて――
ミヤコが一人でもう全く迷わずに駆け出したとき、小隊のみんなは何で置いていったんだと怒ったと思います。それでもやっぱり、ミヤコの「変わらない正義」はそれを選んだんだと嬉しかったと思います。モヤモヤしていた3人は、ミヤコが駆け出した途端に迷いが吹っ飛んだことでしょう。
それは決してミヤコに盲従したわけではないと思います。ミヤコの決意と行動に照らしてみてすぐに、納得いく形で自分はこれでいいんだと確信して駆け出したのだと思います。
なぜなら、FOX小隊が示してくれた煌めくような正義は、ミヤコだけのものではないからです。SRT特殊学園の誇り高いエリートたちならば、誰もが持つべき感情で、RABBIT小隊は皆がそれを備えていただけのことです。その正義はお前だけのものじゃない、とミヤコは言われてしまいました。そのとおりです。
だからこそみんなミヤコの「変わらない正義」がそれで良いのか気になっていました。なぜならそれは、自分の正義がそれでいいのかを示す鏡でもあるからです。RABBIT小隊の正義はみんなが共有するもの。それでも、変わらない正義はこうあるべきだと声高に主張して真っ先に駆け出したのはミヤコです。
作戦立案能力も確かに彼女の力でしょう。けれど、そのみんなを照らす変わらない正義こそ、かつてFOX小隊がみんなに見せてくれた光はそれなんだとミヤコが確信させてくれるからこそ、RABBIT小隊長がミヤコであることの理由なのだと私は思います。あとは自分が率いる隊員について、以下画像の一言を確信できれば、1年生のミヤコは小隊長としてきっと百点満点花丸です!
百合園セイアの棄却された楽園証明も、同じことです。セイアはアズサに手を貸しながら、「無意味」に対して「それでも」を唱えるアズサの心象を「理解できなかった」と、彼女に襲撃された際口にしています。
エデンという名も連邦生徒会長のいつもの悪趣味だと述べ、「エデン条約」を夢想家達が描く甘い虚像だと皮肉ります。
楽園の存在証明は不可能で、エデン条約は甘い虚妄で、予知夢が破局を確定させている。不可能な楽園証明をそれでも全ての人に課せられた「宿題」だからと向き合い、アズサに抗うための知恵を授け、ミネ団長を頼り適切に情報を制御するなど、自分にできるだけの努力をしながら、セイアはずっとこんなことをしても無意味だと思っていました。
どうせ楽園は証明されないし、エデン条約は上手くいかないし、誰かが誰かを殺めざるを得ないバッドエンドが待っている。身体が治癒してなお、その諦念のためにセイアは目覚めることができずにいました。
先生はバッドエンドの先をセイアが見なかったことを全く責めませんでした。同情的ですらありました。そして、セイアの思想はミヤコに説得の必要がなかったように、説得される必要がありませんでした。
けれど、いつかの明日に大人となる子供が全ては無意味で、楽園の証明は不可能だ、という考えで立ち止まっていたならば、先生はそんな世界を許容しません。子供がここまでの苦境に追いやられることを認めません。
だから、信じることに意味はない、それでは「宿題」は解けないとするセイアに対して先生は「下着の存在証明」を口にしたのです。ぽかんとしてしまったセイアですが、ティーパーティーで最も賢いセイアにとって「下着の存在証明」が何を意味しているか解くことは「簡単な宿題」です。
そしてその「簡単な宿題」を解くことでセイアは問題文は別解釈が可能であるということに自ら気づいて「信じることで証明されるそばにある楽園」を認めることになります。
ここからがセイアの凄いところです。別解釈を行ったに過ぎないのに(つまり、「元々のセイアの理解」と「下着の存在証明」のいずれも形式上は間違ってはおらずどちらを選んでもいいのに)、彼女はかつての自分の考えを誤っていたと迷いなく棄却しました。修正されたセイアの楽園証明では、信じるための努力が必要です。決して孤独に篭もっていては、他者の心を信じることで立ち現れる楽園を証明することができないのです。
全ては無意味、楽園は不可知。これで話をおしまいにしてしまえば何の努力もいらなかったのです。けれどセイアはそうしませんでした。
「友達がいない」セイアは、夢の中に引きこもっていたセイアは、調印式についての事件の後、ナギサとミカの前に姿を現します。
百合園セイアという少女の「真摯な努力」はそのときの言葉から痛い程伝わってきます。
聖園ミカの言葉にカチンと来てお前はその空っぽ頭に教養と品格を入れろと半ギレになりつつも、セイアは新しい「宿題」を「背負い続ける」ことを誓います。新しい楽園証明においては、楽園がすぐそばにあり続けるために信じ続けることが要請されます。古い楽園証明において、他者を理解することは不可能だと示されています。だから、絶対に他者を理解できないという闇の中で、誤解も、信じられないこともあっても、絶対に他者の心に到達できなくても、新しい楽園を証明するためにはその「宿題」に向かい続けるしかないのです。
実際に誤解、信じられないことはありました。百合園セイアはベアトリーチェと聖園ミカの関係性を疑い、それは悲劇の鍵になりました。はっきり言って百合園セイアは人付き合いが上手くありません。浦和ハナコからも性格がいいとはあまり言えないと指摘されています。
百合園セイアが明晰夢を渡り歩き、夢現も時勢も曖昧になっていて、破滅の予言やゲマトリア、そしてベアトリーチェによる攻撃などで混乱状態になっていることはとても、とても同情の余地があるところで、彼女の言葉はそれらの影響を無視してはならないものです。
ただ、それはそれとしてセイアちゃんは実際あんまり性格がいいとは言えないのでしょうし、口難しいし、だから友達がいないのでしょう。
それでも。それでもです。ベアトリーチェに囚われたセイアは決して絶望しませんでした。色彩に「白昼夢」を通して「儀式」という窓から間接的にですが露出して神秘が恐怖に反転していき器が崩壊していくという恐ろしい状況にあっても、
自分に何かできることがあるはずだと足掻き、
出血と痙攣が止まらない状態でありながら先生を心の底から心配して逃げることを促し、
突然百鬼夜行自治区に見える理解不能な場所に至ってクズノハというわけのわからない人物に出会って混乱する中でも、
「預言の大天使」たる自分の特性「未来視」という圧倒的特性すら擲ちました。セイアと会ったばかりのクズノハですら、その行為は「友のため」と思わせるに十分なものでした。そして彼女はそれを「お見事」だと断じました。その大決断と大きな損失。けれど、セイアはミカを救うためであれば小さなことだと断じています。
この代わりに百合園セイアが獲得した圧倒的な力「勘」については割愛しましょう。私はセイアの精神的なかっこよさについて話したいので……それはそれとしてコハルやトキを救ったセイアちゃんの「勘」については大興奮でした。ざまみろベアトリーチェ!!!!! お前が色彩に余計なことしてくれたおかげでセイアちゃんを苦しめた予知夢が吹っ飛んでめっちゃ使い回し良すぎる「勘」になってクロコとプラナも引き継いだぞケイちゃんだってこれから絶対なんとかするからなバーカバーカ!!
閑話休題。
「小さな取引」を終えて目覚めた百合園セイア。血と痙攣が止まらず反転で器が崩壊していた状態から復活し、ゲホゲホとひどく咳き込みながらまず口にした第一声がこれです。
確かにセイアはミカとの会話で誤ったかもしれません。ですが「誤解があっても、信じられないことがあっても」百合園セイアは諦めません。ただでさえ病弱なその体が激しく崩壊していく中、彼女はミカのために全身全霊で駆け抜けました。彼女は文字通り血を吐きながら楽園を信じ続け、その存在を証明し続けました。
さらに、百合園セイアは自分が「子供」のまま「生徒」のまま、ただ先生の庇護下にあることをよしとしません。まだ守られていて良いのに、無邪気に甘えて青春を謳歌しても許されるというのに、彼女はいつかは「大人」に至る者としてこう言うのです。
彼女はこの後こうも口にしています。
聴聞会の前、「先生の前にシロコに似た誰かが現れて発砲し、撃たれたシッテムの箱が落ちるというキヴォトス崩壊に関わりかねない予知夢」の話を「今」に注力したいから「もう少し後」にするというほんとうにちょっとしたわがままを許して貰うための、セイアの誓いです。
百合園セイアは誤りながら一つ一つ学んで前進していく少女です。エデン4章ではキヴォトス崩壊を予見してまわりが見えなくなり、ボロボロになりながら危険に突っ込んで、エデン3章のとき「バッドエンドの先を見なかったこと」を全く怒らず怖かったよねと慰めた先生に4章では叱られたこともありました。
けれどこの「間違い」が「セイアの成長の証」でもあることは、ここまで読んだみなさんなら分かると思います。「バッドエンドから目を背けていたセイア」はもういません。「キヴォトス崩壊の危機に全力で立ち向かうんだ」と明晰夢に沈んでボロボロになりながらもセイアは諦めずに孤独に戦い続けたのです。
先生の言葉を受けて、さらにセイアは学びました。
「今目の前にいる友達を大切にすること」
「本当に危ないことは大人に任せること」
だからセイアはもうキヴォトス崩壊の危機を前にして慌てません。なんといっても、友達の聖園ミカがこれからの聴聞会で大変なのです。ナギちゃんだってそれはもう忙しいでしょう。まずはそのことについて注力する。そしてキヴォトス崩壊の危機は本当に危ないことだから、今度は一人で取り組まずに、ちゃんと先生に相談してまわりと協力して乗り越える――そういうことを約束するから、この予知夢の話はまたあとで。
百点満点の判断をして――それだけでなく百合園セイアは有言実行しました。
あの友達がいなくて性格があんまりよくなくていつも難しいことばかり言っている百合園セイアが「嫌な予感」を理由に「合理と理性」を重んじる「ミレニアムサイエンススクール」にそれでも大至急で連絡を行い、力をあわせて「トキにアビ・エシュフの自爆コードを教えるかどうか」という究極の二択に対し「安易な解」を導いて試練を乗り越えました。
「セイアちゃんはまどマギ途中で切るタイプ」
「セイアちゃんほんと間が悪い」
等々……百合園セイア学会における通説は様々です。
しかし、異端であろうとも!!
私は百合園セイア学会において、一説を提出するものです!!!
「百合園セイアは、メチャクチャかっこいい!」
現在この学説の超絶強火学会員は1名、あるいは2名です。もしかしたら、この子が私の同盟者かもしれません。
百合園セイアは、メチャクチャかっこいいんです。
だから私は、百合園セイアといつかお茶会をするとき、彼女の言葉をできる限り理解できるよう、努力したいのです。
いつの日か、きっと百合園セイアが実装されます。
そのときに、百合園セイアの言葉をできるだけ理解できる私でありたいのです。
他者の本心は決して理解できるものではありません。
けれど、楽園はすぐそばにあります。
そして、楽園を証明し続けるためには努力が必要不可欠です。
初読の先生に読み飛ばしてくださいと言った私の討ち死にの記録。
それは私だけでなく全ての人が百合園セイアの言葉をよく理解し、
それにより少しでも百合園セイアという他者を信じるための
努力の助けになればと思っての、無意味な戦いの軌跡です。
私は、百合園セイアの小難しい言葉を理解したい。
理解して、適切なボールを百合園セイアに投げ返して……
そうしてできれば、百合園セイアに笑顔になってもらいたい。
全ては、そのための努力でした。全ては、私の私欲でした。
だから、どうか忘れないで欲しいのです。
本当に大切な点がそこにないことを。
言語の正確な理解は、楽園の存在証明に不可欠の要素ではありません。
彼女自身はきっとムッとするでしょうが。
百合園セイアのごちゃごちゃ小難しい言葉を
きちんと理解する必要なんて、本当はありません。
なによりもたいせつなこと。
それは「百合園セイアは、メチャクチャかっこいい!」学派の、
もしかしたら第一号なのかもしれない少女が、
きちんと私たちに教えてくれています。
たいせつなことは、ただひとつ。
私は、百合園セイアが大好きです。
謝辞
なによりもまず、ブルーアーカイブメインシナリオライターのisakusanをはじめとしたシナリオチームの卓越したシナリオならびに、ヨースター翻訳班の名訳に深く御礼を申し上げます。私が生まれてから出会ってきたすべての物語の中で、ブルーアーカイブを最も愛しています。isakusanらの博覧強記がただの衒学趣味に終わらず、いきいきとした世界やキャラクターの描写に繋がっていること、心底から尊敬いたします。また、翻訳班のテクニカルタームを含めた翻訳作業には頭の下がる思いです。シナリオ班との綿密な打合せのうえこれが成り立っていると伺っております。多大な労力と存じます、本当に感謝いたします。どうか、体調を崩されぬよう……この物語に出会えたことは、私の人生における最大の幸福のひとつです。
また、執筆中はブルアカOSTの素晴らしいBGMにたいへん助けられました。心が弾むような楽しい音楽、戦いへの熱意を盛り上げる音楽、深く真剣な気持ちにさせられる音楽、涙を誘わずにはいられない音楽、数え切れないくらいのたくさんの音楽が私を励ましてくれました。いつもの、なんでもない時間にも、仕事の昼休みの少し落ち着いた時間にも、いつも皆様の音楽を楽しんでおります。新しい話が来るたびに、新しい音楽でブチ上がっています!!! これからも、ずっとずっと楽しみにしています!!!!
透き通るような世界観を彩るイラストの数々のうつくしさには、震えるほどの感動を覚えます。生徒たちの姿もそうですし、風景もそう、ゲマトリアの不気味な姿だって魅力的です! 柴関大将はキュートですし、最近では夜戸浦村のみんなが大好きになりました! 思い出すだけで涙が出そうになるスチルだっていっぱいあって……そして、とてもえっちです!!!!!! Mx2j先生、一時期腕をやられてアイアンマンになっていた旨、Xで拝見してとても心配いたしました! どうか、どうかご自愛くださいね!!!!!
ほかにも素晴らしい毎々ピックアップタイトルを考えてくださったK様等、感謝したい方を挙げればきりがありません! まとめての御礼となり恐縮ですが、ブルーアーカイブの開発・運営に携わる皆様に御礼申し上げます!
キム・ヨンハ統括P! 貴方が私たちに示してくださったこのキヴォトスでの青春物語と、そして清渓川は今日も澄み渡っています!!!! ありがとうございます!!!!!
続いて、私の蒙を啓いて学究の楽しさを教え導いてくださった大学時代の指導教官に御礼申し上げます。指導時間外に、研究時間を損なってまで、理論オタクのために文学理論研究会を毎週開いて議論をまとめ、時にコメントいただいたことが私の支えとなっています。大陸哲学の伝統に属する先生と道を別ち、分析哲学の道を歩むことにはなりましたが、先生への感謝の思いは尽きることがありません。文学理論、生物学、大陸哲学、分析哲学……様々な学びへの道を拓いてくださった先生に深く御礼申し上げます。先生の教えを胸に刻み、百合園セイアとのお茶会に臨みたく存じます!!
業務上、様々な立場から貴重な意見をくださる某大学の特に医学部・大学病院・工学部に御礼申し上げます。皆様からいただく刺激のおかげで、私は今も何かを学ぶことの楽しさに触れ続けていられます。
Xをはじめとして私と直接言葉を交わしてくださり、あるいは空リプと♡の飛ばし合いの楽しい距離感で心を安らがせてくださり、素敵な創作や楽しい日々の発言を示してくださるみなさまに御礼申し上げます。私はリアルでの友達が0人のダメ人間なので、みなさまを遠くからゆるりゆるりと眺めてしあわせを感じております。どうかみなさまがしあわせでありますように!!
ブルーアーカイブについて様々な実況・解説動画を挙げてくださっているyoutuber vtuberの皆様、ありがとうございます! 皆様の実況・解説・感想により何度も何度も私は誤読を正され、新しい知見を得ることができました。そしてなによりブルアカの初見の悲鳴は美味しいです!!! 本当に、本当にありがとうございます!!! 私はみなさんの活動を心より応援するものです!!!
また、本論にコメントをくださった皆様に御礼申し上げます。不要なトラブルを避けるため敢えて名前は伏せさせていただいていますが、いただいた幾つかの貴重なご意見のおかげで本論は見違えるほどブラッシュアップされました。また、それだけでなく楽しめたと仰っていただいた皆様にも深く深く御礼申し上げます。5万5千字超あるんですよ、このnote! 文庫本半分くらいです!! 誰のそれともわからぬ駄文に貴重な時間を費やして読破してくださった上、コメントまでいただき恐悦至極に存じます!!!!!!
もちろん、コメントなんて必要ではないのです! ただ、本論を読んでくださった! それだけで私はとても嬉しいです! こんな長いだけの駄文、誰も読んでくれないだろうなと3万字超えたあたりから思って書いていたので……今、ちょっと泣きそうなくらい嬉しいです!!!! 気をつけてはいるのですが、読み返す度に誤字脱字を発見しては修正しております。本当に、時間をかけて読んでくださったのに不出来な文で申し訳なく汗顔の至りです。
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