「人を殺してはならない」が真理ではないのだとしたら
現代を普通に生きていると、「そもそもなぜ人を殺してはならないのか」という(めんどくさい)問いを見る機会が一度くらいはあるだろう。
だが、今回整理することはそれ以上にめんどくさい。「そもそもなぜ人を殺してはならないのか」と問う面倒くさい人たちがいたとして、彼らの主張は単に「人を殺してはならない」という文が真である理由を問うている(または、真である理由を棄却し偽であることを立証しようとしている)、とは限らないのである。何のことかと思うはずなので丁寧に(実は雑に)進む。
ここではとても素朴な話をしている。雨が降っているとき「雨が降っている」は真だ。これは真理だ。また、雨が降っていないとき「雨が降っている」は偽だ。これもまた真理だ。このレベルで素朴な話をしている。
つまり「人を殺してはならない」という文がこのような真理に関するものだとすれば、真か偽か答えるならば、いずれにせよこのような真理について語っていることになる。
さて、ここで「あなたは批判ばかりするのをやめるべきだ」という主張をする面倒くさくないであろうAさんを置く。Aさんは面倒くさい人ではないので、「批判ばかりするのをやめるべきだ」というのは真理というほどのことではないと穏当に述べた。「これは私の気分、思いの表明でありあなたへの要請である」と。批判ばかりする人を見たときの嫌な気分「うわあ……」それ自体は真偽を問う対象ではないというわけだ。「Aさんは「うわあ……」と思った」は事実について述べる文として真だ。だが「うわあ……」それ自体は真偽を問う対象ではない。「うわあ……」と「あなたは人を批判ばかりするのをやめるべきだ」は同類であり、なので後者は真偽を問えない、今考えている真理についての問題ではない、というわけだ。「万歳・くたばれ説」という(マジで? boo/hoorah theory.)。叫び声や呻き声の内容(叫んでいるという事実ではなく、その内容)に真偽を付すのはそもそもおかしいという話だ。
このようなマナーについての態度同様、「人を殺してはならない」は「うわあ……」に属するのであり真偽を問う対象にとるのがおかしい、それらはただの気分の表出だと言うことができる。「雨が降っている」のような問題の真理を片付けているとき、「人を殺してはならない」のようなわけのわからんものを真理の話ではないと追放するとわけがわからんものが減ってうれしい。叫びや呻きのようなものと言うなら動機付けの話もできるし、他人に働きかけるという部分の話もできる。真偽をおいて「そもそもなぜ人を殺してはならないのか」という人々を圧倒できる。それは真偽の問題ではないのでその点を回答する必要はない。また冒頭で「そもそもなぜ人を殺してはならないのか?」と問いながら、その実真偽の立証を扱いたいわけではないパターンがあると述べた。真なのか、真であるなら理由はなにか。そういう問題ではなく、それは一種の叫びであると捉えうる。ただし、その場合叫びや呻きの声量差は大きいだろう。うおおお! うおおお(それらは叫び声である)! うれしい。
道徳・倫理についての言明を気分や態度の表出と表現することはジェントルだとも言えるかもしれない。なんらかの倫理的言明を真であるとか偽であるとかいうのは日常ではやや穏当ではないことがある。別の考えを持つ人と真理を巡る論争になっても妙ではない。「人を殺してはならない」は真理についての問題ではない、俺の気分が出ただけだよ、としておくと、なのでとりあえず穏やかになる。
だが、そのような人たちは日常会話において一体何を言っているのだろうか。「人を殺してはならない」が感情を表出しているにすぎないとしよう。「デマを流してはならない」などもそうだ。このとき「人を殺してはならないならば、貴方は人を殺してはならない」だとか「誹謗中傷してはならないならば、あなたは誹謗中傷してはならない」だとかいう言葉は何を意味しているのだろうか。これらはごく普通に用いられる日常語だ。
「人を殺してはならない」や「デマを流してはならない」が真偽を持つなら(仮に真であるとしよう)、話は早い。「人を殺してはならない」は真だ。「人を殺してはならないならば、あなたは人を殺してはならない」はそこから当然に導出できる。「あなたは人を殺してはならない」。倫理と真理を単純に絡めて扱うならことは非常に単純だ。
だが、「人を殺してはならない」をジェントルに気分の表出だと言うと「人を殺してはならないならば、あなたは人を殺してはならない」が何を言おうとしているのか自明ではない。「人を殺してはならない」とは「うわぁ……」だ。その人の気分の表出だ。
ここで一度普通の話をしよう。「雨が降っている」と「雨が降っているならば、彼は傘を持っている」から「彼は傘を持っている」を導き出すとき、「雨が降っている」における"雨が降っている"と「雨が降っているならば、彼は傘を持っている」における"雨が降っている"は同一の意味でなくてはならない。一つ目の文と二つ目の文で"雨が降っている"の意味が違うと、形式的導出は成立しない(「多義の虚偽」に陥る)。
戻ろう。「人を殺してはならない」は気分の表出だ。「人を殺してはならない」という態度の表明だ。しかし「人を殺してはならないならば、あなたは人を殺してはならない」は"人を殺してはならない"ことに対する態度の表明をしていない。"人を殺してはならない"ならば(つまりもし仮に、その場合、この前件が成立する場合)のことを話しているに過ぎないのであって、「人を殺してはならないならば、あなたは人を殺してはならない」には"人を殺してはならない"という態度表明は含まれない。しかし、「人を殺してはならない」は態度の表明だ。つまり「人を殺してはならない」と「人を殺してはならないならば、あなたは人を殺してはならない」における"人を殺してはならない"は別のことを言っているのであって、「あなたは人を殺してはならない」を導出しようとすると「多義の虚偽」に陥り、形式的導出が成立しない。
つまり、「人を殺してはならない」が気分、感情、態度の表出だとするならば、倫理についての問題に関して「pだ」「pならばqだ」「qだ」というごく単純な推論さえ使えなくなってしまうように素朴には見える。文字通り、お話にならなくなる。「人を殺してはならない」が感情の表出ならば「人を殺してはならない」を部分に含む文の説明を成立させなければならない。