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琵琶湖の畔

太宰信明(甲14期)

 「太宰練習生、お待ちかねですよ」
 「ありがとう」と礼は言ったものの私の体は腰掛けたベッドのへりから離れなかった。
 面会許可時間がきて、私の両親が隊門脇に急造された第三仮兵舎に到着したことを知らせに、この当番兵が最初の呼び出しに来てからもう十五分はたっていたろう。
 一年二カ月ぶりに会う両親。明日は実施部隊に転属する俺。もう二度と顔を合わせる機会はないだろう親子に特別に面会が許可されたこの日。
「お願いしますよ。あんまり待たせちゃ気の毒ですから」年配の当番兵は、駄目押しをするように、やや語気を強めると出て行った。
 すでに私達は、昨日のうちに貸与品を返納し、手回り品の整頓をおえ、朝食後は、直ちに身体検査と予防注射を済ませ、濃紺の第一種軍装に着換えて両親、家族の到着を待っていたのだ。俺の気持は浮きたっている。だが、心のどこかが冷たく俺自身を眺めている。

 明治二十二年十二月二日生まれの父。根っから酒好きな上に、銀行の支店長という役職から、銚子に五、六本の晩酌は欠かさず、三日に一度は宴席で酒漬けになって帰
ってくる父。

 昭和十六年十二月八日。北海道室蘭の厳しい冬の朝。大東亜戦争勃発の報がラジオから流れた。父は、私達家族を並ばせ正座して言った。
「私の誕生日は十二月二日だが、今日この日から十二月八日とする」
 その頃、長兄は見習士官として郡山の連隊にいた。私は中学一年生だった。次男・三男とも丈夫な方でなく、徴兵年齢に達していなかったが、翌十七年七月、父が東京の本店に転任することになった時は、次男は徴雇、三男は学窓から勤務動員にと共に室蘭に残ることになった。
一家は大森区馬込に居を構えた。
 「私が家には、日本男子が四人もおりながらお国の役にたつ者がおらん。残念じゃ」
 連合艦隊司令長官・山本五十六元師の葬列を路上で垣間見た帰り私は大森区役所に足をはこび、徴募係に予科練志願の希望を述べた昭和十八年六月五日だった。
 「君は年齢が足りない。だが、今年の暮になれば、来年四月採用の第十四期甲種予科練の募集があるから、今のうちに身体を鍛えておきなさい」背も低く胸囲も狭い私は、翌早朝から自宅の門を出て約二キロ先にある古寺まで往復の駈足を実行した。

 母。明治三十二年三月三日生まれ。雛の日の誕生らしく、柔和ながら勝気なところもあり、時折酒気の過ぎた父と口争いをすることもあったが、何事も相談しやすい母だった。十一月十日、私は区役所に行き志願書をもらってきて母に差出した。

 「これ」母は黙って目を通した。母は、小机の抽斗から印鑑を取り出すと、息を吹きかけて書面に押しあてた。
 「自分でやると決めたのならやったらいいでしょう」

 十二月二十二日、大森区役所から通知がきた。「昭和十九年一月五日、東京中学校に於て第一次検査を受けよ」という内容だった。一月五日、身体検査合格。六日・七日、学科試験――これも合格。二月八日、第二次検査を行うから、十六日土浦海軍航空隊に出頭すべし、という通達書がきた。
 二月十五日、父とともに上野駅に行き、土浦行きの切符を買った一円三十五銭だった。翌十六日午前九時、上野の西郷像の下に集合、富岡行の列車で約一時間四十分、土浦駅着。駅前で昼食後、バスに押し込まれて約一里、航空隊前で下車。三泊四日にわたる適性検査が行われた。
 私は、ただひたすら合格の通知を待った。三月十三日夜七時、遂に連絡がきた。翌十四日、母が区役所に出向き採用証書を受けとってきた。
 二十三日、中学校で修業式があり、終って壮行会が開かれた。学友達は、声を揃えて“若鷲の歌”を歌ってくれた。更に二十六日には、隣組が中心となり、私の家は壮行の宴で終日にぎわった。
 三十日夜、玄関先で私は、両親二人の妹、叔父、叔母、隣組、町会の人々に「さよなら」を言った。人々の無理に作った笑顔の下に涙が塗り込まれていた。

 「太宰、早く行ってやれよ」
 私は弾かれたように立ち上がった。二段ベッドの上段で寝転んでいた塚田が、腹這いになり私の顔をじっと視詰めた。
 「早く行けよ」
 杉並に家族の住んでいる塚田には面会人がなかった。昭和十九年四月一日、奈良県丹波市(注:奈良県山辺郡丹波市町、現在の天理市の一部)の三重海軍航空隊奈良分遣隊に入隊した私達、第十四期甲種飛行予科練習生は、二カ月後、操縦偵察の選別適性検査を受け、分隊編成替えが行われた。そして、八月一日、操縦四個分隊と偵察三個分隊が、滋賀海軍航空隊に転隊した。
 ところが、明けて二十年の三月五日、突然教務が中止され、私達第十四期生は京都府福知山の飛行場整備作業に派遣されることになった。九日、私達は福知山に移動した。泥にまみれ、トロッコを押し、十五日からは更に佐賀という僻村に移り、裏山をくり抜いて爆弾庫を造設する作業についた。

 五月四日午後、総員集合がかかり、滋賀空副長から“特殊兵器搭乗員”募集の申し渡しがあった。
 「戦局は極めて切迫。今こそ今日までの訓練の成果を発揮する秋がきた。だが、これは、あくまでも各人の志願によるものである。」
 私達は、兵舎に戻ると、競って指定の用紙に「熱望」と書き入れた。翌日、選抜者の発表会があったが、私の氏名は呼ばれなかった。
 その夜、盛大な壮行会が開かれコップ酒のまわし呑みでお互いの健闘を誓いあった。

 五月二十二日、第十四期生は、滋賀空に復帰する旨発表され、その午後、福知山中学校の講堂で、宝塚少女歌劇団の慰問を受けた。団員達は、日の丸の小旗を打ち振り、数々の軍歌を勢一杯歌い、舞台狭しとばかり踊ってくれたが私達は“お山の杉の子”という童謡の合唱を聞いて涙ぐんだ。
 二日後、再び琵琶湖畔の兵舎に戻った私達は、二カ月ぶりに二段ベッドに横たわったが櫛の歯の抜けたように空いている其処此処のベッドが、いやに目についた。
 三十一日、隊が定めた日時に限り、特別面会が許可される旨を、家族に通知せよと命じられた。私は、班長の吉本明上飛曹に、疎開先が遠いから断念すると申し出た。右腕に善行章を三本つけている班長は「書け」とひとこと言っただけだった。
 六月六日、吉本班長から一通の電報を手渡された。
「17ヒ チチハハイク」の電文が、私の胸をうった。

 「じゃァ、悪いけど行ってくるよ」私は軍帽をかぶると、塚田に言った。ウンと気のない返事をして、塚田はまたゴロリと寝転がった。隣の上段ベッドに坐っている吉野は横浜の出身だった。そうだ、俺が兵舎を出渋っていたのはこれなのだ。連日、無差別爆撃に曝されている都市居住の家族達は、来たくてもこれないのだ。――いや、もしかしたら塚田も吉野も、面会許可の便りを出さなかったのかもしれない――。

 私は、罪を背負っている人間のような気持で、眩しい砂利道を歩いて両親の待つ面会所に向った。隊門の左脇に建てられた三棟のバラックの一つ―― 「第三仮兵舎」と書かれた縦長の木札を背にして立っている父の姿が見えた。兵舎前を行き交う同じ服装をした練習生の流れの中から、私を見つけ出そうとでもしているのか、父はそれらの動きを追って左右に顔を動かしていた。
 私は突然戸惑いを覚えた。――俺は、親父の前に立った時、なんて挨拶をするんだ。心の逡巡にはおかまいなく、私の足は歩調をゆるめることなく父の前二メートルの位置まで来るとピタッと停った。そして、私の右手は軍帽の庇に中指をつけて、挙手の礼をしていた。父は、一瞬驚きの目をみはった先刻まで左右に動いていた父の顔が、こんどは上下に動き出した。私の靴の先から軍帽までの縦の線を数回視線が往復した。やがて、その双眸は、ゆっくりと湿ってきた。「信明か・・・」――
 父の咽喉仏が大きく動いた「さァお母さんが中で待っている。」

(海原会機関誌「予科練」60号 昭和56年7月1日より)

 予科練の所在した陸上自衛隊土浦駐屯地にある碑には以下の碑文が残されている。

「予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ケ浦の湖畔に移った。
太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。
昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね、太平洋戦争に於ては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或は航空母艦から或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。
創設以来終戦まで予科続の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一片の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛のために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈って、ここに予科練の碑を建つ。」

昭和四十一年五月二十七日
海軍飛行予科練習生出身生存者一同
撰文    海軍教授 倉町歌次

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