ウルシー特攻秘話 「白いマフラー」
髙 倉 宗 夫
映画のシーンは高倉健扮する特別攻繋隊長矢代海軍中尉と、鶴田浩二扮する特攻隊直援隊長宗方大尉のふたりが、暴力によって対決をしている。
この大尉と中尉が階級を超越してまでの暴力ざたになった原因は、その日特攻隊員として出撃の途上、恐怖のあまりエンジン不調との理由を作為して、基地鹿屋に帰投した一少年兵曹をめぐっての争いである。特攻隊長(当日出撃の隊長ではない)矢代中尉は、「この少年兵の行為は軍の士気に関する重大な事件であり、すみやかに出撃させるべきである」と主張し、直援隊長宗方大尉は「死すべぎ決心のいまだ定まっていない少年を、すみやかに死に追いやるより、本人の自覚を待って出撃させたい。そのために時問を与えてやるべきだ」と、お互に対立しているのである。東映映画「最後の特攻隊」の一シーンである。
私は、ふと二十六年前、敗戦の色濃い南西諸島の一孤島に守備隊の一人として、出撃途上の海軍特攻隊を見送ったときのことを思い出した。
当時はすでにサイパン、グアム、ヒリッピンの諸島は優勢な米軍のために逐次奪還されており、硫黄島も日本軍の苛烈なる抵抗にもかかわらず、敵手に陥り日本列島南端の沖縄本島も圧倒的な米戦力のために上陸は必至で、あらしの前の静けさのような昭和二十年三月初旬のある朝であった。
けたたましい爆音に敵機来襲かと急いで陣地について見れば、銀の翼にあのなつかしい日の丸もあざやかな双発の海軍機が、東の空から飛来してそのかず二十数機がこの小島の周囲をちょうど千羽鶴のように旋回しているではないか。
台湾沖航空戦以来お目にかかれなかったこの友軍機に対し、「まだわが航空機滅びず」とばかり小おどりして「万歳」を叫んだのであるが、この編隊が特攻機であることを、やや離れて飛んでいる四発の二式大艇(この飛行熊は特攻機を誘導して目標に突入させ、戦果確認後基地に帰投する)を発見して、私はすぐに判断できたのである。
私は近くの兵隊にこの事を知らせた。翼を折れんばかりに打ち振りながら、この編隊は日本列島南端の島のわれわれに決別をつげつつあるのである。そしてはるか南の空へ消えて行く機影に、いつまでもいつまでも手を振って別れを惜んだのである。
あとで判朋したのであるが、この攻撃隊は当時南太平洋を荒し廻った米機動部隊のウルシー(南洋群島)集結を探知したわが第五航空艦隊(鹿屋)より出撃を命ぜられた海軍大尉黒丸直人指揮する銀河特別攻撃隊梓隊の二十四機であり、梓の名のとおり矢は弦を離れ一路ウルシーヘ飛びつつあったのである。基地鹿屋よりウルシーまで、実に一千三百六十マイルの長距離を、直援戦闘機なし(おそらくその頃戦闘機もなかったのであろうが)で出撃していたのである。
その日はよく睛れて風もなく、南の太陽はいつものようにまぶしかった・・・・・。
その日の正午すぎ、南の空に爆音がとどろき一機また一機と飛来し、飛行場(それは特攻用に海軍が作った滑走路だけのおそまつなのもの)に着陸して来たのは、まぎれもない今朝早く訣別した特攻機銀河であった。私は飛行場に行ってみた。
飛行湯では海軍の整備兵が忙しそうに走り廻って働いていた。聞けばこれらの機はいずれもエンジン不調のため、至急整備をしなければ目的地ウルシーまでの飛行は不可能との事であった。特攻隊員達は私と同年配の中少尉や若々しい童顔の少年兵の姿もあった。
彼らは今、死に直面しているにもかかわらず淡々として、前述の攻撃目標等を話してくれた。そしてその顔色は、死に対していささかの迷いや悩みも感ぜられなかった。私はこれらの人々に対して、陸軍にある自分がこの島に生き残ることを恥ずかしく思った。
映画は特攻隊の直援任務から帰隊した宗方大尉が、滑走路において彼の上官である飛行長から、終戦の事実を知らされて、彼は自分の任務の終了したことを知ると、彼の直援のもとに幾多の特攻が実施され、そして多くの隊員が散って行った面影を思い浮べながら、今はこれらの同僚のあとを追うために、飛行長の制止も聞かず、彼の出撃を止めるためにころび倒れながら機にまつわりつく部下の老整備兵曹を振り切って、ただ一機夕焼け雲の中へ姿を消して行く・・・・・・。
二十六年前も整備を終えた特攻機銀河は爆音高らかに、次々に夕焼け雲の中に姿を消して行った。そしてその夜、おそくに、彼らが目標に突入したことを、私は海軍の情報で知ったのである。
私は私と同年配ぐらいの士官や童顔の少年兵たちが、同じように首に巻いていた純白のマフラーが、特に印象的であったのを思い出すのである。
(防衛施設局熊本支局 三等陸佐)
(海原会機関誌「予科練」10号 昭和46年8月1日より)
予科練の所在した陸上自衛隊土浦駐屯地にある碑には以下の碑文が残されている。
「予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ケ浦の湖畔に移った。
太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。
昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね、太平洋戦争に於ては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或は航空母艦から或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。
創設以来終戦まで予科続の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一片の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛のために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈って、ここに予科練の碑を建つ。」
昭和四十一年五月二十七日
海軍飛行予科練習生出身生存者一同
撰文 海軍教授 倉町秋次
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