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名を惜しむ (西沢廣義上飛曹)

                      倉 田 秋 次

 「随分たくさん墜としたそうじゃないかい。」と話題を変えると、

 「ええ」

と、答えたきり黙ってしまった。

 「危い目にもたびたび会っただろう。」

と重ねて問うと、

 「ええ、二度ばかり、今から考えると危なかったと思ったことがありました。」と言ったまま、それから先は話そうとしない。

 かねてから会いたいと思っていた西沢が、基地ラバウルにやって来た夜のことである。新しい零戦が内地から、そこに空輸されて来たのを受け取りにトベラ基地からやって来たのだ。生憎、天候は悪いし、それに整備が思いの外に手間どり、その夜はそこに一泊することになったので、きしむ折り畳み式ベッドを蚊帳の中に並べて語り合うことになった。完熟して枝を離れたマンゴーの実が、トタン屋根に当たって、時たま音を立ててなまぬるい空気を引き裂く夜であった。

 苦しい戦いを続けていた昭和十八年も末のラバウル戦線で、彼こそは世界一の撃墜王ではないだろうかと、知る人々には噂されていた西沢廣義(注: 予科練乙飛7期生、海軍上等飛行兵曹、戦死後に海軍中尉に特進、海軍のエースパイロット)である。両度の世界大戦を通じて百五十機の記録を樹立した名は、まだ耳にしないが、彼はそのことを語りたがらない。

 「あの時は、なぜ引っ返したのかい。弾丸もなくなってから、どうする積もりだったのかい。」

 コロンバンガラ島からチョイセウル島に転進する味方の上空直衛に行き、任務終わって帰途についた時、新たな敵戦闘機群の追従を受けるや単機で引き返したと言う話しを聞いていたからである。

 「それは、…敵がつけ上るからです。」

と、あっさり言う。

 「零戦と言えば、世界の飛行機乗りが慴伏(注 ちょうふく:おそれてひれ伏すこと)しているでしょう。敵は零戦のことを『地獄の使者』と言って震え上っているそうです。それが弾丸がないから燃料が足らないからと言って敵に後ろを見せたらどうなるでしょう。

 彼らは、『何ンだ。零戦だって逃げるじゃないか。大したことはないぞ。』と思うでしょう。その時、我が無敵零戦の名はどうします。それに相手を組みし易しと思うと敵は強くなるものです。私は、どんなになめられたって、敵にひけは取らない自信があります。しかし、若い搭乗員、昨日今日出て来た後輩たちは、敵に勢いに乗られたらちょっと苦手でしょう。だから、私は引っ返して行ったのです。

 「・・・・・・・・。」

 私は、まじまじとその顔を見つめた。瘦軀長身、白皙(注 はくせき:皮膚の色が白いこと)のこの若人のどこに、この気魄が潜んでいるのだろう。

 「で、弾丸がないのに、ほんとに勝算があったのかい。」

 「ありましたよ。」

 「山に誘い込んで突き落としてやろうと思ったのです。」

と言うではないか。

 彼に乗しかかって来たのは、シコロスキー3機だった。かれは反転して1機を捉えて、追っかけた。敵は急降下で逃げる。所々に白い断雲が浮いていた。真後ろから敵の1機が狙って突っこんで来ているのを、万々知っていた彼は、さっと体をひねって山の脊すれすれに、これをかわした。その時、獲物に夢中になっていた敵機は、石ころが落ちるようにジャングルの中に落ちて行ったという。

 「二機残したのは残念でしたが、そのまま私は帰って来ました。」と。

 戦いは永遠に終わった。人類は、再び傷つけ合い奪い合う修羅場をくり返してはならない。戦後二十五年、恩讐二つながら消え去った今日、しきりに思い出されるのは、謙虚にして名を惜しみ、しかもその功を誇らず、身に代えて後輩を愛しんだ予科練若人の気慨である。

 霊碑の建立に引き続き、今回記念館も予期以上の見事さで竣工した。これ一重に、率先して末曽有の国難に殉じた若人たちの丹心に対する敬意と愛惜の念、同時に永遠の安泰を希う世の多くの方々の芳情に支えられて成ったのである。

 教育界と言わず、政界と言わず、混濁の渦逆巻く今日、曽つて諸君が大空の防人として発揮した気概と祖国愛を呼び起こし、毅然とした各位の日常生活の実践により、精神的崩壊から国を救い、碑と記念館にいよいよ輝きを加えて頂くことを願ってやまない。

                   (予科練教官海軍教授)

(海原会機関誌「予科練」6号(昭和44年2月23日)より)

表題上の写真:後列最左翼が西沢、ラバウル基地において、Wikipediaより



 かつて予科練の所在した陸上自衛隊土浦駐屯地にある「雄翔園」には以下の碑文が残されている。

 「予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ケ浦の湖畔に移った。

 太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。

 昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね、太平洋戦争に於ては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或は航空母艦から或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。

 創設以来終戦まで予科続の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一片の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛のために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈って、ここに予科練の碑を建つ。」


昭和四十一年五月二十七日

  海軍飛行予科練習生出身生存者一同

     撰文    海軍教授 倉町秋次

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