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私の戦記から 「紫電改の空戦」

狩 野 至(丙3期)

 松山海軍航空隊といえば、343空の紫電改の戦斗機隊で、源田実司令を中心に大東亜戦末期に前線各地に生存していた古参戦斗機隊員を集合させ、編成された海軍最後にして、最強の部隊であった。その隊は「新選組、天誅組」などの別名をもち、本名は301飛行隊であった。

 20年3月中頃、呉港を空襲した敵戦斗機隊の大群が帰路についた瀬戸内西方上空での戦斗は、待ち伏せた343空の攻撃で、またたく間に50数機が撃墜され、以後この方面の空襲はなくなった程、敵の心胆を寒からしめたのである。

 おりしも九州方面から南西方面にかけて緊迫した戦斗状況に対し、4月末になると全機大村空に向けて移転命令が出された。赫々たる戦果の内には我が方の被害も大きく、生存隊員たちはその復讐戦とばかり益々意気盛んであった。

 その日、4月29日は天長節で、本来は赤飯を頂き休日の予定が、――敵大編隊接近中――の報が入電。全機発進の命令とともに紫電改の猛者たちは一せいに雲上に舞い上っていった。B29の大編隊を迎える戦友たちが早い者勝ちとばかりに次々に発射する20ミリ砲でたちまちの内に巨大な獲物をとらえ、夫々の手中に納めて戦果を挙げていた。

 出発の時から調子が悪いと感じていた愛機のエンジンは、私の思うように作動してくれないまゝに焦る心で上昇し、早く接敵して何とか一撃を加えたい気持で必死であった。『レバー』を入れたり引いたりしながら、時々は止りかけるエンジンに益々焦るばかりであった。その内大編隊で飛行中のB29が一機一機巨大な機体からパッと火を吹いて落ちていくのを目にすると、戦斗機乗りの一人として何にも例えようもない程荒れ狂い、頭の中が撹乱され、体中の血が逆流する思いがしてくるのだった。

 B29の編隊には全く死角がない事も知っていながら、思はず吸い込まれるように突込んでいく自分をどうすることも出来なかった。射程距離に入る前から、腕に力が入り、発射ボタンを押していたと思う・・・一瞬相互に近ずく敵と私の愛機とが相打ちとなったらしい。交又する火の玉が目の前で巨大で、真赤な太陽のようになり、その中に飛び込むようなショックを受けた。その一撃で与えた20ミリ砲でB29の左内側のエンジンから白煙が吹くのが見えた時、愛機の前側風防から強烈な風圧を感じると共に、後部にも受けた弾丸で、操縦桿は全く反応なく、計器板も読めなくなり、そのまゝ引き込まれるように、気を失ってしまったのである。――失神したまゝ何分間過ぎたのか?――ふと我にかえった時は、昇天した自分があの世にいるのか?と思いながら周囲を見廻し、始めて落下傘降下中であることに気がついた。上下左右と、懸命に首を廻しながら眺めても、何も見えず、全身に当る風圧で、落下する体が激痛で気が遠くなるのをこらえながら何時間も過ぎたように感じられた。「俺は生きているぞ!生きて再び戦斗に参加するんだ、死んでたまるか!」と大声で叫んでみた。

 夕刻、大隈半島の串良の山中の大木に引っかかり、空中で重傷の体は出血と打僕で、ぶら下がったまゝの姿で、再度失神したのである。弾痕と火瘍で重傷の私を必死の救助作業で山から救出し、病院に運んで下さった陸軍部隊の方や地元の民家の方々の声を、遠くからの呼び声のように聞いていたように思う。そして心の中で両手を合わせて感謝していたつもりが、体は動かず、そのまゝ静かに瞑目しているだけだった。

 あれから30余年、大空での仕事が天命として、生き長らえた自分が、今日も操縦桿をにぎり、戦死していった戦友たちを大空から慰霊飛行出来ることも、救助に参加下さった地元の方々のおかげは勿論であるが、殉国の精神に燃えて雄々しく散っていった英霊たちに対する、せめてものつぐないと考えて、今回全予科練の願望なって設立された、財団法人海原会の発展を心から祈り、明日の活力を得る希望としている次第である。

――海原会追記――

(注) 鹿野氏は毎年の土浦での全予科練の碑慰霊祭に上空より飛来し、英霊たちの慰霊に参加して頂いております。

(海原会機関誌「予科練」34号 昭和54年4月1日より)


 予科練の所在した陸上自衛隊土浦駐屯地にある碑には以下の碑文が残されている。


「予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ケ浦の湖畔に移った。

太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。

昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね、太平洋戦争に於ては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或は航空母艦から或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。

創設以来終戦まで予科続の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一片の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛のために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈って、ここに予科練の碑を建つ。」

昭和四十一年五月二十七日

海軍飛行予科練習生出身生存者一同

撰文    海軍教授 倉町歌次


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