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日本の名機物語①「九六式陸上攻撃機」

 「戦争の全期間を通じて、これほど衝激を受けたことはなかった・・・」(チャーチル大戦回顧録)

 南シナ海。太平洋戦開戦わずか二日後の昭和十六年十二月十日、英国東洋艦隊の旗艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」の二隻は、日本海軍機の猛攻の前に、沈んだ。その攻撃の主役となったのが「九六式陸攻」だった。「マレー沖海戦」と戦史に著されるが、海戦とゆう言葉から連想されるような艦隊同士の砲戦があったわけではない。それは航空機が主力艦を沈め得る、という事実を世界で初めて立証した航空史にその名をとどめる戦いだったのである。

 外国の技術をコツコツ習っていた若者たちが、その蓄積をバネにして飛躍した。職人がコツを覚えて上達するのに似る。昭和初期のわが国航空界がちょうどそんな時期だった。

 「主力艦対英米六割」(昭和五年・軍縮条約)の結果、日本海軍は“抜け道”として航空機の育成に力を注いだ。海を戦いの場とする海軍が、陸上基地から発進して艦隊決戦に参加させる世界に例をみない「陸上攻撃機」という機種を発想するのも、軍縮条約の結果である。

 若者の精進と軍の熱意が結合した会心の作が「九六式」だった。のびのびと両腕をのばしたような主翼、「魚雷形」といわれて本機の特徴となった流線形の胴体、粋な双方向舵。「形の美しさは、性能の良さの表現である」という機械工学での言葉のお手本だ。

 機体の外板をなめらかにする沈頭鋲の採用、量産機で初の引込脚、自動操縦装置、方向探知機、可変ピッチプロペラー 美しさの中に、当時のわが国航空技術の革新が息付く。

 最高速度三五〇キロ、航続距離三千キロ。ほぼ同時期、世界の最新鋭といわれたドイツのハインケルHe型に対し、速度でやや劣る以外すべてに優れ、航続距離は二倍以上もある。


96式陸上攻撃機

 ドイツは航続距離を軽視したことから、わずか海狭一つへだてた英国との戦闘に敗れたが、英国も“敵”を軽くみて、南部仏印に基地を持つ日本海軍航空隊の鼻先(直線で約七百キロ)に、二艦を出動させた。

 だが、英国はほんとうはもっと前に警鐘を鳴らされていたのである。

 「九六式」の初舞台は昭和十二年八月十四日、日華事変。陸戦隊が圧倒的な敵兵力に囲まれた上海へ、台風をついて九州・大村から東シナ海を横断、世界初の渡洋爆撃を成功させた。B29が日本を屈服させた、あの戦略爆撃思想を初めて実施したものでもあった。

 「プリンス・オブ・ウェールズ」ら二艦は、九六式と次の新鋭機一式を加えた計八十五機による爆弾三発、魚雷二十一本で仕止められた。両艦合わせ三千名の乗員のうち、プ号のフィリップス提督とリーチ艦長ら一千名が艦と運命を共にした。当夜、軍令部長から電話で起こされたチャーチルは、つづる。「ベットの中で寝返りを打ち、身体をよじった時、そのニュースの持つ恐しさが全身にしみ込んだ。日本は、主導権をにぎったのだ。」

 総生産機千百三十九。大戦末期まで、すでに旧式化がおおいがたくなっても、九六式はよく奮闘した。「操縦舵輪を放しても一人で飛んで行く」といわれたほど、す直な飛行ぶりと、戦闘機並みといわれた軽快な運動性で、本機を愛したパイロットは多い。だが、性能を追求する余り、防御上の配慮不足(防弾タンク等)など、後の一式陸攻が受け継ぐ日本機特有の欠点も、本機ですでに芽ばえていたことを、忘れてはなるまい。

 それでも、世界航空史にまでいくつかの「初」を印して、「九六式陸攻」の名は今も輝きを失わない。「美しさは不滅」でもあった。

(写真は96式陸上攻撃機。弾倉を持たないため、直接爆弾を懸吊している。ウィキペディアより)

(海原会機関誌「予科練」38号 昭和54年9月1日より)

 予科練の所在した陸上自衛隊土浦駐屯地にある碑には以下の碑文が残されている。

「予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ケ浦の湖畔に移った。

太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。

昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね、太平洋戦争に於ては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或は航空母艦から或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。

創設以来終戦まで予科続の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一片の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛のために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈って、ここに予科練の碑を建つ。」


昭和四十一年五月二十七日

海軍飛行予科練習生出身生存者一同

撰文    海軍教授 倉町歌次


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