10年間の夢に終止符を打ちます。
ちょっと言いにくい話をします。
言いにくいのは、自分の感情の波に近い場所にあることだからです。
今日は自分語りの回です。
日記やノートに書いても良かったんですが、公開したいと思いました。
noteに書くことで、押し付けることなく、でも誰かに宣言することで、自分の覚悟が決まると思ったからです。
これは私の2024年の『覚悟』を記したnoteです。
1.10年越しの夢
中学生の頃から、将来の夢は「小学校の先生になること」でした。
理由は子どもと関わる仕事に就きたくて、班学習を通して勉強を教えることにやりがいを感じたからです。塾の先生ではなく学校の先生を選んだのは、人と人とのコミュニケーションを学ぶ場でもある学校が魅力的だと思ったからです。
教育大学を目指して公立高校を受験し、学力推薦で第一希望に合格しました。自慢をしたいのではなく、「上手くいっていた」という事実が後々に大きく響いてくるので敢えて綴っています。内申点は 44/45点。バレー部で練習に精を出しながらも、教室では真面目な優等生で学級委員も3年間努め上げました。教師からの評価は高かったように思います。上手くいく人生はその後も続きました。高校でも、「小学校の先生になる」という夢は変わらず教育大学にセンター試験で合格したいという目標を掲げ、勉学に励むほど夢への執着は強くなっていきました。入りたかったバレー部を諦め、大学合格のために勉強時間がつくれる茶華道部に入部しました。高校3年生では部長に任命され、またもや「上手くいく」人生が続きました。
家庭教師もつけてもらった私は、無事に教育大学に合格し、「小学校の先生になる」という夢に大きく近づきました。
しかし、大学生で初めて、私は「上手くいかない」人生を経験することになったのです。小中高と上手くいっている人間は、これからもずっと上手くいくと思い込みます。部活にサークル、バイトに遊び、もちろん根は生真面目なので授業にも手を抜けません。部活でもサークルでもリーダー的存在に立候補し、責任感はとてつもなく大きなものでした。結果、大学2年生からキャパオーバーし、それでも諦めがつかず完璧主義な性格で、おまけに自分が上手くいかないという経験がなかったため、オーバーヒート状態になった挙句、私はうつ病になりました。
なにも上手くいかない。
人生初の、挫折。
その後、診断は躁うつ病(双極性障害)に変わり、順風満帆な人生がいきなり病で染まり始めました。
ですが、周りのサポートのおかげで半年の大学休学で回復し、4年で大学を卒業することができました。
しかし、1発では教員採用試験に合格することができず、小学校の講師として担任を務めながら社会人1年目を過ごしました。講師が正規と大きく違うなと思ったところは、「専属で指導してくれる教官がいないこと」「毎年、違う小学校への異動があること」で、当時の私は向上心の塊だったので、「授業に対するフィードバックが欲しい!」「職員間でも信頼関係を築いていきたい!」と思い、もう一度、採用試験に挑戦しました。
結果、その年に合格し、正規職員として採用され社会人2年目を過ごしました。中学生からの夢、13歳からの夢が、23歳でようやく叶いました。10年間追いかけ続けた夢が叶ったのです。
2.理想と現実
社会人2年目、正規として初任者の私は、新たな学校に配属され担任を持ちました。
・初任者研修で沢山学ぶぞ!
・ベテランを目指して頑張るぞ!
・もっともっと授業力も指導力も向上させるぞ!
と大層意気込んでおりました。理想と夢に満ち溢れていました。
現実は、そう甘くはありませんでした。
終わらない仕事、意味を見いだせない文書の山、上手くいかない毎日。
それだけならまだ踏ん張れたと思います。
問題はその他にありました。
暴言を吐く殺人鬼のような子どもたち、叱ってばかりの一日の連続、絶え間ない喧騒、教育方針がまるでない保護者への伝わらなさ、隠れたクレーマー様、ピリつく職員室、鳴りやまない放課後の電話、17時まで続く会議、勤務時間外から始めるしかない学年会、仕方なく出勤する無給の休日...。
「私は何をしているのだろう?」「授業のフィードバックは子どもが集中力を切らさないためのテクニックを学ぶことなのか?」「発問はどうだったのか?板書計画は?掲示物は?流れは?」「トラブルの仲介をして電話して、私は親に教育してるのか?」「グレーゾーンの子どもたち、家庭環境に難を抱えた子どもたちへの対応も全て私の仕事の範疇なのか?どこまで?」「通常級を受け持っているのに、どうして3分の1強の子どもたちが特別な支援を要しながらもここまで来てるのだろう…その上トータルは35人…」「私は幸せじゃない夢を追い求めてきたのだろうか?」
出来る限り周りに頼り、何とか精神を保っていましたが、先に体が悲鳴を上げてしまいました。「咳喘息」と診断され、呼吸が困難になりふらふらしながら歩き、立つことさえままならなくなりました。同時に朝が辛くなり、出勤前には過呼吸になってしまいました。咳喘息だけでなく、精神的にもピークに達してしまったのだと思います。
理想と現実は大きくかけ離れていました。
3.2ヶ月の無給期間
3ヵ月の病休をもらい、まずは咳喘息を治すことに全力を尽くしました。
身体を休め、病院で処方された吸入器とホクナリンテープで回復を試みました。その間、管理職が電話をかけてくれて定期的に状況を伝える日々が続きました。(新たな問題や色々な事情聴取がありましたが、個人情報にもなりかねないので省略します。ただ、それで病んでしまうことも多かったです。)
1ヶ月後に復帰を控えたある日、担任が変わっていたことを知りました。
ショックでした。半年は面倒を見てきたクラスです。初任者とはいえ、担任を変えることくらいは教えてほしかったです。
管理職への疑心が募る中、「2月3月まで病休を延長したらどうか」という提案をされました。最初の理由は、私が朝の起床時間が一定でないことへの心配からでした。しかし、吸入器の必要もなくなり体調が良くなってきていることを伝えると、「子どもから受けるストレスが大きいから」という理由にいきつきました。
復帰するつもりで過ごしていた私でしたが、「子どもから受けるストレスが大きい」「また休むかもしれないから心配だ」と言われると、なんにも言えませんでした。気遣ってもらっているのに、ストレスを受けない自信もないのに、反発する気にはなれませんでした。
復帰2週間前に、初任者は休職という手当てがなく、3ヵ月を過ぎると病休延長という形で減給ではなく無給になると告げられました。実家だからって、雑だなと思いました。私だって将来の計画があるのに。彼と一緒に上京して同棲するために貯金してたのに。その貯金を切り崩しながら2ヵ月を過ごさなければならなくなりました。しかも皮肉にも元気になったので、何か働きたいけど公務員なので副業もできず。クリニックの主治医も「こんな中で延長の届を書くのは心苦しいですね…」と苦笑いされていました。こうして現実を受け入れ、今後に目を向けるために自分と向き合う日々が始まりました。
4.病み期の乗り越え方
とんとん拍子に2ヵ月病休延長、無給、復帰はできない、仕事もできない、でも健康、が決まりました。
異例すぎて、どの本も誰の話も参考になりませんでした。
多少は病んでも、うつだけにはなりたくなかったので、感情の波が押し寄せたらとにかくノートに気持ちを書きなぐりました。泣きながら書いたり、イライラしながら書いたり、人生終わりだって思いながら書いたりしました。書くことのメリットは、客観的に見れるようになるので、視点を広くもてるようになることだと思います。「この立場に立って考えてみれば~」「デメリットはこれとこれで、メリットはここにある」、頭の中を見える化することは心の平穏に繋がりました。
今後の生活費と趣味にかかるお金の計算を見える化し、何が不安なのか徹底的に言語化しました。不思議と、モヤモヤは一日で解決することが多かったです。でも、毎日違う悩みや心配事、感情の波が押し寄せてきて1,2週間は毎日泣いてそのたびにノートに書いて、を繰り返して生きていました。
もう一つ効果的だったことは、家族だけでなく先輩や同期、友人など色々な人に話を聞いてもらったり意見や感想を伝えてもらったことです。
おかげで、偏ることなく物事を見たりポジティブに捉えられるようになりました。感謝です。
5.手放すこと、夢の設定
退職届は11月に提出していたものの、4月からの上京は金銭的にも延期せざるを得ず、4月からの働き方を考えるようになりました。
あんなにも殺されると思いながら教室に入っていたのに、3ヵ月という休暇が私の記憶を美化し、「もう一度子どもたちに会いたい」と願うようになりました。おかしな話です。同僚に話すと、「思っているような場所じゃないよ、帰ってくる程の価値はないと思うよ」と教えてくれました。私はまた、理想の世界を思い描き、現実を忘れて復帰したいと思っていたことに気付かされました。
一時は、自分と合った教育方針を掲げる私立の小学校の先生を目指しましたが、情報量が少なく飛び込んでみないと分からないのが事実です。
ようやく私は気付いてしまいました。
10年間思い描いてきた小学校の先生という夢は、私が思っているほど理想的な場所じゃなく、私の気質(敏感で繊細、大きな音や声は苦手、完璧主義、責任感が強すぎるなど)に合わないことが分かってしまったのです。
それでも、10年という年数は私を「小学校の先生になる」という夢で呪縛し、「小学校の先生であらねばならない」と洗脳し、「小学校の先生」以外に夢をもつことが出来ないカラダに仕立て上げてしまいました。
理想と現実が違うと思い知らされても、また希望を探り出して夢に固執しようとしました。でも、どう考えても私の気質を押し殺して働く必要がありました。気質を押し殺すことは、ありのままの自分ではいられないことでした。違和感が芽生え、いずれ身体に支障をきたすのです。
「あなたは夢を叶えたじゃないの。」
母が言いました。
「あなたは、もう充分頑張ったよ。」
幼なじみの親友が言いました。
執着していたのは、私だけだったようです。
私は、幸せに生きていくために、執着を手放すことにしました。
現実を見て、生きていくことにしました。
「小学校の先生になること」
私は、その夢を叶えました。
そして、ありのままでいられるような新しい夢を持つことにしました。
まだまだ心の変化ばかりの毎日ですが、今のところの夢を記しておきます。
10年間も夢を追いかけてきた人生だったので、この先も夢があった方が私は生きやすいんだろうなと思いました。だから、実現するかは分かりませんが、叶えることに縛られず、夢をもつことが一つの生きがいにでもなればいいなと考えています。
私にしかできないことで、誰かのプラスになることで、自分をコントロールしながら、生きやすい幸せな人生を送っていけたらなと思っています。