寺山修司の短歌「鋏曇る日なり名もなき」
歌集『田園に死す』の「山姥」「むがしこ」の一首。
■語句
鋏曇る日なり――「鋏の曇る日だ」。「なり」は断定の助動詞。
われに似し人――「私に似た人」「私に似ている人」。「似し」の「し」は助動詞「き」の連体形。「き」は本来過去の助動詞だが、しばしば「たり」と同じように「~している」という意味で用いられる。
帰り来らむ――「帰って来るだろう」。「む」は推量の助動詞。
■解釈
ハサミが曇る日だ。名前もないような遠い村に、私に似た人が帰り着くだろう。
そんな意味の歌だ。
ハサミの曇る日だから、とても湿気の多い日。鬱々とした気分でいる。ふと手にしたハサミを眺め、いっそこれで喉を突き刺してしまったらどうだろう、などと物騒なことを考えたりする。今ここで生きていることにうんざりしている。自分が脱け殻になったように感じている。
すると幻想が思い浮かぶ。本当の自分はどこか別のところにいるのではないか。名前も知らない、ずっと遠くの寒村に、本当の自分が今帰り着こうとしているのではないか。そこに行けば安らげるはずだ。
幻想が現実感を増し、その中に呑み込まれてしまいそうになる。だが、結局、「われ」は頭を振ってその幻想を振り払う。目の前のハサミをしまって、重い体をひきずるようにして、日々の単調な仕事に戻る。
憂鬱で、空虚感に満たされる日の気分を巧みに表現している。
■おわりに
『短歌研究』の「第一回五十首応募作品」で特選となった中城ふみ子の歌に次のようなものがある。
歌集『乳房喪失』に収められるときに、次のように修正された。
「似たる」が「似し」に、「一人の」が「ひとりの」に変わっている。前者の変更は五音にするためか。
寺山の歌には「われに似し」がそのまま使われているし、別の世界にいるもう一人の自分という発想も同じだ。例によって寺山が中城の歌から表現と発想を拝借したのではないか、と思わないこともない。
ただ、歌の内容はまったく別物だ。違う味わいがある。
もしこの二つの歌でどちらがすぐれているか、と問われれば、僕は即座に中城ふみ子の歌の方を選ぶかな。だって、「乳削ぎの刑」なんてすさまじすぎるんだもん。
■参考文献
寺山修司『寺山修司全歌集』講談社学術文庫、2011
中城ふみ子『現代歌人文庫 中城ふみ子歌集』国文社、1981
中城ふみ子『新編 中城ふみ子歌集』菱川善夫編、平凡社、2004