リルケ『ドゥイノの悲歌』より―たとえ私が叫んだとしても
これまでリルケの詩をいくつか訳し、解釈をしてきた。
リルケの詩で理解できるのはもうないだろうと思い、別の詩人に向かおうと思っていた。
でも、どうしても気にかかる詩句がある。
これは、『ドゥイノの悲歌』の第1の悲歌、第1詩節の冒頭だ。反語になっており、絶望の中で最後の期待を込めて天使たちに呼びかけても、何の返答も得られないだろうという意味だ。窮極の孤独の表現だ。
また、次のものも同じく第1の悲歌からだが、こちらは第1詩節の終わりだ。
とても美しい表現だ。読むだけで、なんとなく、少しだけにせよ、救われる気がする。
リルケの詩はあまり読んでいないのに、リルケについて書かれた本や論文で引用されるのでこれらの詩句を知っている。
『ドゥイノの悲歌』は全部で10の悲歌より成る。おそろしく長い。リルケの思想の集大成と言えるような詩だ。読んだことがない。難しすぎて僕の手に余るだろうからだ。
しかし、上記の個所だけは心に残っている。
そこで今回思い切って、第1の悲歌――全部で5詩節ある――の第1詩節だけを訳してみることにした。上の引用部分がどのようなコンテクストで出てくるかを知りたいと思ったからだ。
ただ、さすがは難解で鳴るリルケだ。さっぱりわからない。そこで専門家の助けを借りる。参考文献に挙げた書物の訳を参照したら少しわかった気がした。
でも、直訳してみてもどうも「詩」にならない。少しでも「詩」らしくするために大胆に意訳することにした。連も勝手に分けた。全体の行数も原詩より多くなっている。わかりやすく内容を伝えること、詩的雰囲気を出すことだけを心がけた。
正確な訳については、参考文献を参照してほしい。
■リルケ『ドゥイノの悲歌』より
(第1悲歌第1詩節を4つの連に分けた)
■解釈
全体的に、孤独が染みわたっている。
◆第1連
第1連でリルケは天使に呼びかけることを想像する。
痛切な一行だ。「私」が孤独のあまり叫んだとしても、天上からは何も助けは得られないというのだ。
リルケは20世紀の初めを生きた。ニーチェが「神は死んだ」と言ったのが19世紀の終わり。キリスト教が力を失い、人間が神の手に支えられて安んじていられる時代は終わった。人間存在が、暗闇に投げられた一個の石(パスカルの言葉?)にすぎないことが露わになってくる。不安と絶望の中で、リルケは再び遠ざかってしまった神をめざす。リルケは有神論的実存主義者だ。
初期の『時祷詩集』の頃はリルケは気軽に神に呼びかけていたが、その後はあまり神の名を出さなくなっていく。その代わりにリルケが呼びかけるのは、神への仲介者である天使だ。
しかし、第1連が述べるのは、天上の者である天使に呼びかけても何も返事は得られないということだ。天はもはや救ってはくれないのだ。
リルケにとって天使は、人間を超えた圧倒的な存在であり、恐るべきものであり、また美しきものでもある。
「美しきもの」も「恐るべきもの」も天使を言い換えている。
天使は人間を超越した「恐るべきもの」である。天使に抱きしめられれば人間はたちまち破滅してしまう。ただ、天使の一端に触れることは天使も大目に見てくれる。
天使が「恐るべきもの」であるのは、それが完璧な美であるからだ。完璧な美は人間には耐えられない。人間に許されているのはせいぜいその一端に触れることだけ。それは天使も大目に見てくれる。だから人間はかろうじて美のおこぼれを味わうことができる。
このあたり、リルケ独特の天使観だ。天使は、リルケにとって詩人としての自分の究極の目標なのだろう。決して到達し得ないものではあっても。だから、天使が美と結びつけられるのだろう。
◆第2連
天使は何の返事もしてくれない。
第2連では天使のみならず、人間も助けてはくれないと言われる。
人間は誰もが、この世界を自分なりに仮構して生きている。これこれこういうものだと解釈して、その中で安心して暮らしているように思っている。しかし、その虚構の世界のどこかに虚無の裂け目がある。虚無の裂け目に触れるとき、人間は孤独に襲われる。
人間は孤独をごまかして生きているが、動物たちは人間の不安に気づいている。動物は世界を仮構することなく、世界そのもののと直に触れ合って生きているからだ。
天使も人間も助けにならないとなると、何が私たちの助けになるのか。
「斜面に生えた一本の木」、また「昨日通った道」「一つの習慣」のようなささやかなものが救いとなるのかもしれない。
それらは私たちとのつながりを求めている。それらは私たちに、「世界内部空間」においてすべてが連動していることを教えてくれる。(★「リルケの詩『ほとんどすべてのものが』」を参照のこと)
◆第3連
それが昼間だ。では夜は?
「世界空間」は「世界内部空間」と同じものだろう。
夜には虚無の裂け目はもっと大きくなる。昼の虚構が通じない。「世界空間」の虚無から吹いてくる風で私たちはやつれる。虚無からの風が私たちに、自分の孤独をはっきりと自覚させる。孤独の中で私たちは憔悴する。
誰もが孤独なのだ。(★「リルケの詩『秋』」を参照のこと)
しかし、その孤独を自覚することで本来人々はつながりあえるはずだ。人はそれを期待するが、しかし結局失望に終わる。
恋人同士のつながりもまた本来のつながりではない。孤独をごまかしあうためのものにすぎない。
◆第4連
リルケは解決の方向を示唆する。
以下のように孤独を活かす方法を知らないのか、ということ。
誰もが胸に空虚をかかえている。心の中の孤独――それを隠し合い(昼のように)、ごまかしあう(夜のように)のではなく、「私たちが呼吸する空間」に「投げ入れよ」という。
つまり、それぞれが抱える孤独を、それぞれが何らかの形で自己表現することで、外化することで、この世界はもっと豊かになるはずだという。
この詩的な表現が語っているのは、孤独の生産性である。
すべての存在がつながった世界内部空間が少しだけでも拡がる。そして私たちの内部と外部を結びつけながら、その空間を鳥が飛ぶ。
リルケは、孤独は豊かなもの、世界に価値をもたらすものであるとする。そして、「胸に抱えた空虚を/私たちが呼吸する空間に 投げ入れ」るのが、まさに詩人としての自分の仕事・使命であると考えている。
昼の間に詩人の内部に入り込んだ「斜面に生えた一本の木」「昨日通った道」「一つの習慣」――これらを詩の言葉として外部に投げ返すことによって、外部世界と人間の内部が少しずつ融合し、世界内部空間が豊かになっていくのだ。
■おわりに
なんとか解釈してみたが、あっぷあっぷという感じだ。リルケの詩を読み込んでいないので、このあたりが限界か。
孤独の生産性についてちょっと補足。
リルケは、詩人をめざす青年に宛てた手紙で次のように書いている。
学生の頃にこれを読んだとき、とても驚いた。
仏教用語に「孤独地獄」という言葉がある。芥川龍之介の短篇『孤独地獄』で知った。孤独はそれほど恐ろしいものと見なされている。
僕も「孤独」というのは避けるべきもの、否定的なものであると考えていた。しかし、リルケは逆に「孤独」を喜ぶように言う。
孤独な時間とは、自分がもっとも自分になるときであり、自分の内部にある自分独自のものに耳を澄ますことができるときだからだ。孤独は大いなるものを生み出す可能性を秘めている。
手紙を受け取った「若き詩人」もそうだったと思うが、僕もリルケの言葉に驚き、そして慰められた。
■参考文献
リルケ『ドゥイノの悲歌』手塚富雄訳、岩波文庫、2010(初版1957)
リルケ『リルケ全集3』富士川英郎編・訳・註解、彌生書房、1973
リルケ『リルケ全集 第4巻 Ⅳ詩集』塚越敏監修、河出書房新社、1990(『ドゥイノの悲歌』の訳と解説は小林栄三郎)
リルケ『新訳リルケ詩集』富岡近雄訳・解説・注、郁文堂、2003
リルケ『若き詩人への手紙・若き女性への手紙』高安国世訳、新潮文庫、1976(初版1953)
古井由吉『詩への小路』書肆山田、2005
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