ランボーの詩「永遠」―それは太陽に溶ける海
外国の詩の場合は、どのような翻訳で読むかによって、感動したりしなかったりする。
ランボーの詩「永遠」に心を動かされたのは、飯吉光夫訳で読んだからだ。その後、有名な小林秀雄訳も読んでみたが、わかりにくいなと思っただけだった。
でも飯吉訳でもちょっとわからないところがある。そこで思い切って自分で訳してみることにした。もちろん、悪戦苦闘しながら。
フランス文学研究の大御所たちがこぞって訳しているし、ネットにも訳がいろいろ上がっているので臆するところはあるが、思い切って公開しよう。
なお、ランボーには1872年に書かれた独立した詩「永遠」もあるが、ここで取り上げるのは、それを改稿したほうだ。1873年執筆の『地獄の季節』の「錯乱Ⅱ 言葉の錬金術」の章に収められている。こちらには題は掲げられていないが、これも「永遠」として通っている。
■ランボー「永遠」(ヨジロー訳)
■語句
サテン――繻子。繻子織りにした織物。滑らかで光沢がある。
燠火――赤くおこった炭火。
■解釈
★第1連
対話となっている。誰と誰の対話なのか? 自分と自分の対話だろう。「永遠」が見つかった、「永遠」とは「太陽に溶ける海」であると言っている。
太陽と海という空間的に大きなものの合体。それが「永遠」という時間的なものと等置される。神話的光景だ。
★第2連
「孤独な夜が来ようとも」――ひとりぼっちになろうとも
「火と燃える昼になろうとも」――「火と燃える昼」は大きな社会的騒乱だろうか。集団的熱狂状態で荒れ狂うときも、ということだろう。16歳のランボーが見聞きしたパリ・コミューンなどが想定されているかもしれない。
孤独であろうが、何らかの集団に加わっていようが、自分が自分で作り上げた「誓い」を守って生きよ、自分自身の原則に従って生きよ、と自分に求めている。どんなときでも自分が徹底的に自分であろうとする覚悟が感じられる。
★第3連
「人々の賛同」――世間の同意。
「月並みな感激」――世の中の人々が感じるような感激。付和雷同すること。
世間の人々に受け入れられるかどうかなどは気にするな、みんなが感激していることに安易に同調するな、ということ。
「気ままに飛んでいけ」――外部からの影響から自身を解き放って、自らに「誓い」を立てて、それに従って自由に生きよ。
★第4連
「希望なんか絶対にない」――宗教的救済への希望、あるいは理想社会実現への希望か。
「復活だってない」――最後の審判の後の復活か。
学問をしても、忍耐してみても、結局は苦しむだけだ。
★第5連
「明日さえもない」――明日なんかどうでもいい。
大事なのは「サテンの熾火」、つまりおまえの心の中の潜む灼熱だ。
★第6連
第1連の繰り返し。ここまで読んだことで、第1連の意味がはっきりする。
「太陽に溶ける海」で僕が想像するのは、夕方、太陽が海に沈んでいくときの光景だ。太陽と海が一つになって周囲に光をきらめかせる瞬間。その一瞬を詩人は「永遠」だと言う。つまり、大事なのは生がきらめく一瞬であって、それがすべてなのだ。それを、ただそれだけを求めて生きていけ、ということだ。
★まとめ
世間の評価など気にするな、付和雷同して感激に陶酔するな。宗教が唱えることは虚偽にすぎない。学問に打ち込んだからといって、いろいろなことに忍従したからといって、ただ苦しむだけだ。未来だって考えるな。
自分の内部で燃える情熱に従って、自分が自分で作り上げた倫理に従って、自由に生きていけ。
■おわりに
う~む、すごい熱量だ。圧倒される。
ランボーが『地獄の季節』を書いたのが、18歳のとき(1873年4~8月)。この詩のもとになる詩を書いたのが17歳のとき(1872年5月)。若い! 若すぎる!
読者によって受け取り方はさまざまだろう。そうなんだ、永遠の一瞬こそがすべてで後はどうでもいいんだ、と感激する人もいるだろうし、若いときは、まあ、そんなふうに思ったりするもんだよなあ、と距離を置く人もいるだろう。
僕は後者だ。それでも、今の一瞬に永遠を感じ、それ以外の一切を放擲する青春の傲慢さ、「明日なんてあるものか」と言い放つ青春の大胆さがまぶしかったりする。
この詩で好きなのは第2連だ。ここでは、最初に読んだ飯吉光夫訳を挙げてみよう。
単なる無軌道ではないのだ。ここには倫理がある。ランボーはそれに従って昂然と生きて行こうとしている。うん、いいではないか。
詩全体から感じられるのは、すべてを破壊していく激しさと、あくまで自分を自分で制御して生きて行こうとする意志の強さだ。だから、ほどなくしてすっぱり文学と縁を切り、世界放浪の旅に出たのもわかる気がする。うじうじ、めそめそしているヴェルレーヌとは対照的だ。
『地獄の季節』では、ここで挙げた詩の直前に次のような前置きがある。
「黒でできた青」とは、宗教、道徳、学問、法、世間の慣習などの既成のあらゆる束縛を指している。ランボーはそれらを一掃して、ただ「自然という光そのものの黄金の火花となって」生きたと言う。
だが、「歓喜のあまり、可能な限り滑稽で、乱れた表現を使った」とも述べている。自分を客観的に、冷静に見ていることがわかる。ランボーはやがて、「永遠」で示されたような生き方から離れていく。
『地獄の季節』はそもそも、自分のこれまでの乱脈な生、反抗的な青春、文学的幻想への惑溺を「地獄」と見て、それに対する訣別を宣言する書なのだ。
■参考文献
ランボー『地獄の季節』小林秀雄訳、岩波文庫、2011 [1938]
『ランボー全集』全3巻、鈴木信太郎・佐藤朔監修、人文書院、1976-1978
『ランボー全詩集』平井啓之・湯浅博雄・中地義和訳、青土社、1994
『ランボー全詩集』宇佐美斉訳、ちくま文庫、2012 [1996]
『世界の名詩を読みかえす』飯吉光夫訳、いそっぷ社、2002
『ランボー全集』平井啓之・湯浅博雄・中地義和訳、青土社、2006
『対訳 ランボー詩集』中地義和編訳、2020