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そういえば、私の実家は曹洞宗だった。
定年退職して時間ができた。いままでの人生で不思議に思っていたことを調べている。
その一つが私の実家の宗教である。私の実家は曹洞宗という禅宗の檀家だった。
といっても普段は何も感じていなかった。ただ祖父祖母の葬儀の時、僧侶が来て立ったままお経をとなえ、簡素な葬儀をした記憶がある。
高校の歴史の時間に曹洞宗について学んだが、どうもピンと来なかった。
それで曹洞宗は何かについて改めて勉強してみたいと思った。
この本は詩人が、僧侶に素朴な質問を繰り返しているのでわかりやすいと言えばわかりやすいが、体系的に書かれていないため、どうももどかしさも残った。
今回は座禅とは何か、曹洞宗と臨済宗の違いだけに絞ってまとめてみたい。これを手掛かりにさらに禅宗についてしらべてみたい。
この本では、禅とは、 **「以心伝心」**を起源とし、言葉ではなく、師匠から弟子へと直接伝えられるものと説明している。
それってなんのことという話になるんだけども、
「以心伝心」とは、言葉を使わずに、心から心へ直接に伝えることだそうだ。それは私でも分かる(笑)
この本では、禅の始まりを象徴するエピソードとして、「拈華微笑」の故事が紹介されている。
お釈迦様が花を掲げただけで、弟子の一人である摩訶迦葉だけがその意味を理解し、微笑んだという話だ。
これは、お釈迦様の悟りの境地が、言葉ではなく、心から心へと直接伝わったことを示しているんだそうだ。
禅では、この「以心伝心」を大切にし、師匠から弟子へと、直接教えを伝えていくことを重視しているらしいよ。
禅には、大きく分けて曹洞宗と臨済宗の2つがあり、両者は坐禅に対する考え方が異っている。そうなんだね。ここらへんは知識として学校で学んだ気がする。
曹洞宗は、坐禅そのものが悟りであるという立場をとっている。
只管打坐といって、ただひたすらに坐ることを重視し、坐禅を通して心の働きを鎮め、無念無想の境地に至ることを目指す。壁に向かって座るんだ。
臨済宗は、坐禅は悟りへの修行の手段であると考えている。 公案という、禅問答を解くことで、論理的な思考を超えた悟りを得ることを目指す。人と向き合って座る。
今回はこれ以上詰めこんでも無理なので、曹洞宗の座禅の作法を伝えるビデオを張り付けておきます。
年末年始に実践してみたい。
私の実家の菩提寺は長野県茅野市にある頼岳寺というお寺さんだった。
ここもあらためて訪ねてみたい。
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