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カフカにみるワーク&ライフバランス
ふとしたきっかけでこの本を読みました。
20世紀の文豪、カフカの手紙や著作の中からいかに彼が、自分について否定的で絶望していたかという内容です。
たとえば
「将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。将来にむかってつまずくこと、これはできます。いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。」(ラブレターの一節)
「ぼくはいつだって、決してなまけ者ではなかったと思うのですが、何かしようにも、これまではやることがなかったのです。そして、生きがいを感じたことでは、非難され、けなされ、叩きのめされました。どこかに逃げだそうにも、それはぼくにとって、全力を尽くしても、とうてい達成できないことでした。」(父への手紙)
ここまで言うか。文豪というより、ネガティブ大王って感じです。
作家がそんなことを書くのは、単に自分を卑下して目立とうという狙いじゃないか、と疑りたくなりますが、本書を読むとカフカは心の中から、自分の才能や身体に絶望していたようです。
今回はそういっためちゃめちゃ否定的な言葉を紹介するのではなく、この本を読んでいて気がついたことを一つ書き残しておきます。
それはカフカがしっかりした仕事を持っていたということです。 ある種の公務員としてきちんと仕事もこなしていたようです。彼の仕事観そして自分の著作との関係を調べてみました。
カフカは暇になりたかった
カフカは、プラハ大学で法律を学び、法学博士号を取得した後、保険会社に勤務していました。 1906年の大学卒業後、彼はまず叔父のRichard Löwyの法律事務所で見習いとして働き始めました。
その後、プラハ地方裁判所、刑事裁判所にて法律実習を行い、弁護士としてのキャリアをスタートさせます。
ええそうなんですね。法律の専門家であり弁護士としての資格もあったようです。
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しかし、カフカは法律の仕事にやりがいを見出せず、より時間に余裕があり、文筆活動に専念できる仕事を探し求めていました。
1907年10月、カフカは「アシクラツィオーニ・ジェネラリ(一般保険会社)」のプラハ支店に就職しました。
しかし、この会社では毎日10時間勤務に加え、時間外労働と日曜出勤も強いられるなど、過酷な労働環境でした。
カフカはこのような長時間労働に苦しみ、文筆活動に割く時間がないことに不満を感じていました。
彼は、この会社での経験を「ぞっとするほど不快」と友人に宛てた手紙に綴っています。
その後、1908年8月、友人のマックス・ブロートの父親の推薦により、「ボヘミア王国プラハ労働災害保険局」に転職しました。
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この保険局は半官半民の組織で、カフカはここで労働災害保険に関する事務処理や書類作成などを担当していました。 カフカの仕事上の手紙によると、彼は「わびしき日曜午前労働」と自嘲気味に表現するほど、仕事に追われていたようです。
しかし、この保険局では、以前の会社に比べて労働時間が短く、午後2時頃には退社することができました。
カフカはこの比較的時間に余裕のある職場環境を活かし、仕事が終わると、午後から深夜まで文筆活動に励んでいました。
彼は、「時間は足らず、体力は限られ、職場はぞっとするほど不快で、アパートはうるさい」と嘆きながらも、「うまくごまかす技でも駆使して、なんとか切り抜けるしかない」と、仕事と文筆活動、そして私生活のバランスを模索していました。
カフカは、この保険局で14年間勤務し、最終的には一等書記官にまで昇進しています。
なんだ、いろいろ絶望するといっても、はたから見れば仕事上は結構成功していたようです。
割り切って仕事をしていた
カフカは、仕事と文筆活動を明確に区別していました。仕事は生活の糧を得るための手段であり、文筆活動は自身の内面世界を探求するための手段と考えていたようです。
彼は、仕事そのものを嫌悪しており、「仕事は僕の人生の敵だ」と述べているように、仕事に情熱を燃やすタイプではありませんでした。
しかし、だからといって、仕事を疎かにするようなことはなく、むしろ真面目に職務をこなしていたようです。職場でも評価されていたと伝えられます。
カフカは、几帳面で正確な仕事ぶりで知られており、事務処理能力に長けていたようです。 また、法律の知識も豊富で、複雑な案件にも対応できたと言われています。
さらに、カフカは優れたコミュニケーション能力も持ち合わせていました。 彼は、職場で同僚と良好な関係を築いており、周囲の人々から信頼されていたようです。
人一倍敏感だが、同僚とはうまくやっていた
一方カフカは、繊細で内向的な性格であったと言われています。 彼は、周囲の目を気にしやすく、常に不安や葛藤を抱えていました。
作品や手紙の中にも、人一倍敏感な彼の性格が反映しています。
また、完璧主義的な傾向があり、自分自身にも他人にも厳しい目を向けていました。 こうした彼の性格は、幼少期の家庭環境に影響を受けている可能性があります。
厳格な父親との確執は、カフカの心に深い傷跡を残したと言われています。 彼は、父親の支配的な態度に苦しみ、常に父親の期待に応えなければならないというプレッシャーを感じていました。
これって今の日本にも通じる感じですね。父親がいい学校に行け勉強しろ、と毎日要求し子供がつぶれてしまうというパターンですね。
カフカは、自身の健康状態にも強い不安を抱いていました。 彼は、自分が痩せすぎで病弱であると思い込み、極端な食事制限を行っていました。
カフカは、野菜、果物、ナッツ類、ミルク、ヨーグルト、ライ麦パンなどを中心とした菜食主義の食生活を送っていました。
また、大学時代には、試験の疲れを癒すために、各地のサナトリウムに滞在することもありました。
社会からの疎外感が原動力になった
カフカは、限られた人間関係の中で生きていました。 彼は、生涯の友であるマックス・ブロートをはじめ、数人の親しい友人と交流していましたが、多くの人と関わることは苦手としていました。
彼は、社会に対して強い疎外感を抱いており、社会に馴染むことに苦悩していました。 彼の作品には、こうした社会との葛藤が描かれています。
カフカの生き方に学ぶとすれば
彼は、「8時から2時か2時半まで協会事務所。そのあと3時か3時半まで昼食。それからベッドに入って7時半まで寝る…7時半から10分間、窓を開けて裸で運動。そのあと一時間散歩…それから家族といっしょに夕食…10時半になると机の前にすわって書きはじめる」という、緻密なスケジュールで一日を過ごしていました。
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これは、限られた時間の中で、仕事、文筆活動、そして私生活のバランスを保とうとする、彼の努力の表れと言えるでしょう。
仕事に情熱を燃やせないとしても、責任感を持って仕事に取り組むことは重要です。
また、カフカは、効率的に仕事を行い、執筆時間を確保していました。 そして作品にも、仕事の経験が生かされています。
なるほど。決して仕事をすることが、執筆という創造的な仕事の邪魔になるわけではなく、むしろ役立つことにつながるわけですね。
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