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「POC#20」にて三輪眞弘ピアノ作品を聴いて

POC(Portraits of Composers) 第20回公演 細川俊夫/三輪眞弘 ピアノ作品集
2015年1月25日両国門天ホール
ピアノ:大井浩明

三輪眞弘「3つの小品」(1976, 世界初演)
三輪眞弘「レット・イット・ビー アジア旅行」(1990)
三輪眞弘「虹機械第2番「7つの照射」」(2008)
三輪眞弘「虹機械 公案-001」(2015, 委嘱新作・世界初演)


POC(Portraits of Composers)は大井浩明さんが数年に渉って行なってきた「現代音楽」のピアノ作品を 作曲家の個展形式で演奏していくピアノ・リサイタルのシリーズで、その第20回目において細川俊夫さんの 作品と組み合わせるかたちで三輪眞弘さんの作品が取り上げられた。事前に予告されたプログラムでは、 「全作品」と銘打たれ、三輪さんの作品としてはあと3曲、「公現/幻」(1985)、「語られた音楽が語るとき」(2000)、 「「虹機械」より第2部「武装した人」」(2008)の演奏が予定されていたようだが、演奏会が近づいてから ブログで曲目変更が告知され、結局、当日も上記の作品が演奏された。因みに三輪さんの作品と一緒に 演奏された細川さんの作品の方は当初の予告通り、「全作品」5曲が演奏された。

しかしながら、このプログラム変更について言えば、そもそも、同時代の、現役の、そして一作毎に 未踏の領域を踏破している作曲家に対して、リサイタルの時点におけるという限定をつけるにしても、 「全作品」という閉じたフレームは相応しくないことを思えば、そして、今回も作品数を絞った上で、 新作の初演が追加されるという変更であることを考えれば、勿論、予告されなかった作品 (そこには私が未聴のものも含まれる)も聴いてみたかったとは思うものの、 それはあくまでも欲張りな聴き手の勝手な言い分であって、後述のように、いわゆる「大作」では ないけれども技法の次元でブレイクスルーを達成した新作に接することができ、それによって 今なお、更にはこれからもなお、「全作品」という言葉は常に限定つきのものであり、道が未知の 領域に通じていることを確認できたことに感謝しなくてはならないと思う。

私は直前まで聴きに行く予定だったのが、前後の予定が変わったことで時間が取れる見通しが付かなくなって 一旦は断念し、だが結局は何とか時間ができて、隅田川沿い(最寄は両国駅)にある両国門天ホールを 訪れることができたのだが、その後はやはり時間がとれないまま一週間が経過してしまっている。ホールに着いて 中に入った時に、それまで自分が居た世界とは全く別の世界に迷い込んでしまったような感覚に囚われ、 今振り返ってみても、それがまるで夢の中の出来事のような感覚さえ覚える程で、コンサートを訪れることが 非日常的な経験になってしまっている私の感想は、いわば通りすがりのような立場での発言になることは 避けがたいと感じてはいるが、ともあれ何時もの通り、感想を書き留めて置くことにしたい。 これはこれで同時代の受容の記録の一つのあり方であり、事実を記録しておく最低レベルの意義は あろうから。

ただし、「現代音楽」の聴き手ではない私にとって、POCという壮大な企画は勿論、細川さんの作品についても 今回初めて接したような状況であり、そちらについて語るだけの持ち合わせがない。(もっとも、個別の作品に ついて言えば、三輪さんの作品にしても、初演は聴き損ねたものの、井上郷子さんの演奏による 素晴らしい再演には接している「七つの照射」を除けば、私にとっては初めて実演に接する作品ばかりだったのだが。) 従って、この記録の記述対象は三輪さんの作品に限定し、非常に優れた作品の優れた演奏であったことは このような「門外漢」の私にすら感じ取れた細川さんの作品の演奏を含むリサイタルの全体については、 それを語るに相応しい方にお任せすることにしたい。


リサイタル全体の冒頭におかれた「3つの小品」は、三輪さんご自身によれば演奏に間違いがあり不完全な 姿であるとはいえ、CDで初演時の自作自演を聴くことができるという意味合いにおいて、「世界初演」と 銘打たれていても、聴き手にとって全く未知の作品という訳ではない。ちなみに「3つ」とあるが、 中間の第2楽章は初演時には即興で演奏され、結局記譜されなかったとのことで、楽譜に固定されたのは 両端の2曲のみであり、演奏もまたそうであった。

第1曲は音楽をレコードなどに録音された形で聴くことが当たり前になった時代の中で生み出されたことを 証言するように、奏者によるいわば「人力の」フェードアウトによって閉じられ、あたかも「人間が機械を模倣する」と いう「逆シミュレーション音楽」に典型的に見られる発想の由来を告げているかのようであり、他方、 第3曲は「手拍子」が用いられていて、人力で演奏することを「音楽」を定義するにあたっての必須の契機とする 三輪さんの考えの出発点を垣間見るような作品であった。ちなみに後述するように、リサイタル全体の最後に おかれた新作にも、フェードアウトと手拍子は用いられており、いわば明確な自己参照が行なわれていたのだが、 それが「引用」としてではなく、新作においてもごく自然に素材の一部として用いられていたのは、 それらの要素が三輪さんの発想の基本的な部分に根差していることとともに、三輪さんの発想の 一貫性をも告げているということであろう。


細川さん・三輪さんの作品を通して作曲年代順に並べられたプログラムにおいて、今度は細川さんの 初期作品が演奏された後に位置づけられた三輪さんの作品の二曲目は、ビートルズの有名な曲 (何しろ私が知っているくらいなので)の編曲という体裁をとっているが、素材への向きあい方は 三輪さんならではのもので、私が実演に接している狭い範囲では、直ちに思い浮かんだのは、 弦楽四重奏曲ハ長調「皇帝」であった。(そちらは私にとってはずっと身近なハイドンの皇帝賛歌、 というより弦楽四重奏曲の第2楽章の主題が素材となっていた。)ただし素材の具体的な加工の仕方は 勿論異なっており、この日の演奏会の文脈で興味深く感じられたのは、伝統的な意味合いでの それのような規則に従ったものではないが、ここでも広い意味での「転調」のメカニズム(より直接的には 「アルゴリズム」)が問題になり、そのプロセスに対する人間の(典型的には聴き手の)反応が問題に なっているという点であった。

そしてそのプロセスは三輪さんがプログラムノートに(あたかもいつもの 「という夢をみた」という枠で語られる物語の縮小版のように)書かれた「妄想」の実現であるというより、 作品もカバーストーリーも、作曲者の自己が(仮想的なものも含めて)経験するプロセスを作品として 定着させたものであり、それ自体が知覚の変容をモデル化したシミュレーションのような感覚を覚える。 だがつまるところ音楽というのは、そうした変容の試み、そしてそのための方法の探究でなくて何だろうか。


その後細川さんの作品2曲が演奏され、プログラム前半の締めくくりに置かれたのは、「七つの照射」という タイトルが付された「虹機械第2番」。「虹機械」は、三輪さんが「新調性主義」と呼ぶコンセプトに 基づく作品群のタイトルだが、私はそのうち、最初の作品であるピアノとヴァイオリンのための作品の初演には 接している。ちなみに「七つの照射」とは、ある規則によって変化してきた音楽があるパターンの繰り返しに 陥ったときに、奏者のかけ声とともにノイズを導入することで再び音楽が変化を始めるというメカニズムを 遺伝的アルゴリズムにおける突然変異に見立てたときに、その突然変異の原因となる放射線の照射を 暗示したもののようだが、東日本大震災により生じた福島の原子炉の炉心溶融事故を背景として 書かれたオーケストラ曲「永遠の光」も、作品の構造の背後には同じアルゴリズムが存在していて、 「虹機械」の系列の作品と見做すことができる。

作品の構造についてはこの作品の初演者である田中翼さんの解説を読めば充分だし、 コンセプトについても三輪さん自身が言葉を尽くして説明されているから、それらについてはここで 繰り返すことはしないが、アルゴリズムと初期値によって完全に決まってしまう音の系列(そこには 作曲者の主観が入る余地はなく、それはあるとしたら、アルゴリズムの設計と初期値の選択という 手前にしかない)をあえて人間がピアノで演奏するという点に関連して、以前、同じ大井さんのピアノで 実演に接したクセナキスの「ヘルマ」のことを私は思い浮かべた。といってもそれは「ヘルマ」と「虹機械」が 似ているという意味では全くない。いずれも作曲の過程でコンピュータを利用していても、両者の 作曲の手法は全く異なったものだし、音響的実現に直接具体化する音の群なり系列なりの 構成法や操作法も全く異なっていて、それはそれぞれの作品の作曲者の世界というものの捉え方の 違いにそのまま繋がる程、根本的な懸隔を示しているのだが、にも関わらず、たとえやり方は異なっても、 「人間的な」感情や情緒を拒絶したところで作品の構造が決まり、従って通常の意味での感情移入も 受け付けないだけではなく、楽器の奏法という側面においても、いわゆる「ピアニスティック」に書かれた 名人芸的な作品とは異なって、人間の生理に対して無頓着であるという意味での超絶技巧を 要求するという点において、両者はやはり接点を持っていて、それが偶々大井さんという同じピアニストに よる実演に接することにより浮かび上がって来た様に思われたということなのだろうと思う。

とはいうものの、ブロック毎に音群が、それ自体の内部構造や内部での演算規則をとりあえず捨象して、 (つまり群論的な構造を持たない集合の要素として)選択され、そうした音群の交替が集合論的な 操作によって行なわれる「ヘルマ」と、音の集合に対して与えられた演算によって都度選択される音群により 調性の基音や明瞭度が推移していくプロセスにフォーカスした「虹機械」の聴感上の肌触りは全く異なっている。 「調性」と名付けられてはいても、三輪さんが与えている具体的な構造は、伝統的な西洋音楽の調性の 図式とは異なったものあり、いわば「ありえたかも知れない」別の調性音楽の試みと見做すことができるのだが、 それと同時にいわばそれは「調性」という発想の根底にあるもの(の一部)を抽象したもの(の一例)になっている ようにも感じられる。転調といい、基音への解決といい、伝統的な西洋音楽における調性に纏わる様々な 規則をを三輪さんの「新調性主義」の地点から眺めることで、西洋音楽がどのようにして時間的な広がりや 展開を獲得しているのかが見えてくるのではなかろうか。

勿論それは単なる理屈ではなく、具体的な音響として実現された三輪さんの作品に感じられる有機性、 或る種の温度感、温もりのようなものと直接結びついていて、決定論的な離散力学系の音響的実現を 聴くことでそうしたものが感じ取れてしまうのは、伝統的には人間の「意識」や「心」と呼ばれてきて、 機械的、物理的なものとは相容れぬものと見做されてきたものが、実際には神秘的、超自然的な奇跡や 恩寵の類の結果としてではなく、近年の研究が少しずつではあるが解明しつつあるように、物理法則に 従ったシステムとして把握・理解することが可能であり、三輪さんが採用している手法とそれにより実現される作品は、 表面的にはそのように見えなくても、奥底のどこかで同型性を持っていることの現われなのではないかと私には感じられる。 機械的なアルゴリズムが実現する音の系列に、人間が勝手に反応し、そこに情緒を感じ取ってしまうということが起こるのも、 実はその両者の間に(ごく緩やかで限定的なものであれ、基本的な)同型性が存在するが故のものでは ないかと思われてならないのである。


そうした印象は、プログラムの後半のほとんどを占める細川さんの作品の演奏の後、プログラム全体の 掉尾に置かれた新作「虹機械 公案-001」によって、より一層鮮明に感じ取れることになった。 間に休憩と細川さんの作品を挟んでではあるものの、一夜のリサイタルのうちで2曲を聴き比べることが できたのは大変に興味深い経験である。無論のこと、新作は勿論、虹機械第2番の方も一度実演に接した のみで、実質的には初めて聴くのと大して違いのないような状況の私にとっては、比較とは言っても その違いをその場で充分に見極めることなど出来よう筈もなく、あくまでも粗雑な印象レベルの話しか できないのだが、それでもなお、両者の違いは幾つかははっきりと感じ取れ、新作は格段に 「生き生きとした」ものに感じられたのが何より印象的だった。

その印象が何に由来するものであるかを一度の聴取で言い当てることは難しいが、それでもなお、 調的な重心が移動するプロセスの多様性(その速度、加速度の変化も含め)が増したこと(その代わりに 恐らく演奏者への要求は一層高いものになっていると想像される)、そして力学系が アトラクターに吸い寄せられた時のそこからの脱出の仕方がより自然に行なわれていたことは 明確に聴きとれたように思われる。言ってみれば、音響として実現されている次元においては 安定しているように見えるベイシンの或る次元に穴が形成され、アトラクター(ここではある調性への 収束と、調性間を振動するように循環するいわゆるリミット・サイクルがそれに該当する)が崩壊し、 その穴を通して軌道がアトラクターから脱出して別のアトラクターに向かういったことが繰り返し 起きているような印象を覚えたのである。 しかもアトラクターからの脱出は「七つの照射」においては、「サッ」という奏者の声をきっかけに系を撹乱するノイズによって 引き起こされるとはいえ、それは作曲者の外からの介入によって慎重に事前に準備されているように 為されるのに対し、新作においてはその脱出の過程自体が系自体によって自律的に探り当てられ、 より「自然に」為されているように感じられる。

この描像に類比的なものとして思いつくのは(実際に何が起きているかは別に解析が必要であるし、 これはあくまでも非常に粗い類比に過ぎないのだが)、カオス力学系で提唱されている「カオス的遍歴」だろうか。 件のアトラクターは正確には擬似的なものであり、寧ろアトラクター痕跡の如きものとして捉えるのが 適当なのではないか。勿論、アルゴリズムそのものと作曲者の全体を一つの系として捉えるならば、 アルゴリズムが動く次元以外の隠された次元に作曲者が介入することによって、 それは「七つの照射」でも起きていたことだと捉えても良いのだろうが、 そうした機構が新作においてはより明確に感じ取れ、系を発展させ、 動的な平衡状態を維持するための契機としてのノイズに対する反応の仕方の方も含めて システムの中に取り込まれたかたちに発展しているように感じられたのである。

つまり、ここでは「音楽」というシステムを最終的に音響的に実現される次元以外の、 隠された制御の部分を含めて考えるべきであって、狭義での音響的な実現としての「音楽」は、 そうした系の全体から見れば、一断面を音響に変換したものに過ぎない。作曲者の介入のプロセス、 試行錯誤の跡は消去され、選択された経路のみが作品として定着されるという点は同じでも、 経路の選択自体を外部から作曲者が行なうのか、系の中に埋め込むのかという決定的な違いがあるのだ。 そして更に誤解を惧れずに言えば、低次元の力学系+ノイズによる駆動という捉え方と高次元力学系に おいて遍歴をモデル化する捉え方との対比とパラレルなパラダイムの変化が「七つの照射」と新作の間に 垣間見られたように思われるのである。 ここでカオス的遍歴が現実に起きているわけではないにせよ、 自律的な「遍歴」の機構が獲得されたことの意義は大きい。実際にはそれは、寧ろ最適化における ローカルミニマムの脱出のメカニズムに近いものなのかも知れないが、ここでは如何なる意味合いでも 最適化が問題なのではなく、それは目的が定められた探索ではなく、その遍歴の過程自体が問題なのであり、 それは初期値に大きく依存し、かつ、その過程自体が終わり方を決めるようなものなのである。

結果として、新作の音の連なりがもたらす変化のプロセスを享受しつつ、私にはそれが或る種の「逍遥」「遍歴」の ようなものとして感じられ、そしてそれが単なる印象ではなく、作品を含む系が備えている構造に由来するもので、 従って結果は多様性にとんでいるものの、曖昧で感覚的なものではありえず、それ自体は単純な、確固とした 法則性を備えているような印象を覚えたということである。「作品」を聴くこととが「旅」である というのは、例えばラッヘンマンもまたそのようなことを言っているが、ここではそれは単なる比喩を超えて、 より構造的な実質を備えており、かくして「作品」を繰り返し聴くことは、より本質的な意味で、或る種の 「巡礼」となるのではないか。

たった一度のきわめて不完全な聴取の印象に過ぎず、現時点ではそれは単なる曖昧な予感のような レベルに留まっているには違いないが、それでもなお何か確固としてものに触れたような確かな手ごたえは 間違いなく感じたように思うし、何よりも、前作との比較において技法の次元で三輪さんがブレイクスルーを 達成したという点については、こちらは些かの曖昧さなく、この初演において闡明されたと言って良いと思う。

それは単に今回は、それが「新調性主義」の系列の作品であるが故に、私の狭い理解のレンジの 範囲で捉えることができたということに過ぎないのかも知れないが、ともあれ今回の新作は、 「七つの照射」で三輪さんが何が物足りないと感じて今回の作品に取り組んだかが、 その挑戦の結果である新作によって明確に窺い知ることができるという点で、その取り組みが とてもうまくいっているように感じられ、演奏を聴くのは心躍る経験であった。 アルゴリズムが自律的に秩序を維持しながら動作し続けるという点で画期的ではないかと思うし、 何よりも作品として聴いていて興味が尽きない。採用された方法が含み持つポテンシャルが、 恐らくは意図されたとおりに結果に非常に鮮やかに現れているように感じられ、聴いていて感動的だった。


ここで留意すべきは、ほとんど同じ手法によって作られた2つの作品の差異が、あくまでもそれを実現する ためのメカニズムの改良の次元で為されているという点である。それもまたつまるところ作曲家の選択に よるものであり、システムが自律的に進化したわけではないのだから、通常の了解とは随分違う次元では あれ、いわゆる「インスピレーション」というのはそもそもこうした構造の発見の手探りの過程で起きている というふうに考えれば良いのかも知れないが、だとしても、通常の意味合いでの、「フィーリング」のような レベルで言われる作曲家の「個性」というものが何と幅が狭いものであるかということは感じずには いられない。寧ろそれは(結局は脱出不可能な)檻のようなもので、ここでは、それでも尚、そこを脱出し、 超越する営みが問題になっているのは確かなことだろう。

もちろんアルゴリズムの設計があり、初期値の 選択があり、どのように始めるかを決めるのと対応するように、どこで終わるか、どのように終わるかもまた、 それが「音楽」として、つまり人間によって演奏され、聴取される「作品」である以上は作曲者によって 決定されなくてはならない。だがそれは、アルゴリズムが紡ぎだす人間を超越した秩序を、人間の尺度に 合わせて切り取り、持続や速度を調整し、人間に聴き取れるかたちに翻訳して提示する、霊媒の ような役割にずっと近づいている。ここでは美というものもまた、感覚的な快不快によって測られるのではなく、 人間の尺度を超越するものを自分が受容できる能力の限界において垣間見る時に感じる畏れや 驚異によって惹き起こされるものであるかのようだ。

更に注意すべきは、ここで三輪さんが達成した技法の深化は、通常の了解とは異なって、作曲者による 系の挙動への介入が少なくなるに応じて、系自体の自律性が増大し、結果としての作品は より一層有機的で「まるで生き物のような」印象が齎されることになるという点だ。敢てこういう言い方をすることも できるだろう。新作において作曲者が意図し、行ったことは、旧作において残ってしまった人為的な 介入が齎す「機械的な」部分をより自然なものとするために、人為的な介入を減らして、機械に 自分で選択させるような改良なのである。そしてその結果がその意図通りの成功を収めていることは、 大井さんの演奏により実現された「作品」そのものが物語っている。


大井さんのピアノは、過去の演奏に接した時に感じたのと同様に、作品の姿を聴き手に明確に示すと いう点において卓越していて、特に、既述のようにピアニスティックには書かれていないという意味合いで 演奏至難な三輪さんの「新調性主義」の2作品については、際立って良心的な演奏であったと感じられた。 ここで良心的というのは、ごく基本的な部分で「楽譜に書かれたものに忠実に」演奏するという、 当たり前ではあるが、「現代音楽」においては徹底が困難な場合がある部分について、作品のコンセプトや 構造が要求するものを測って、それを可能な限り正しく伝える演奏を行なうという点で規範的な姿勢が 感じ取れる、ということである。とりわけ新作は準備の時間等の制約があったと想像されるのであって みれば、三輪さんの作品の場合には、恐らくは指定よりも遅い速度であっても、音のパターンの遷移の 過程とそれがもたらす調的な安定性を正確に示すことがまずは重要で、その点については作品の姿を 窺うに充分なものであったと思う。

もし物理的な音響の実現において速度を優先するのであれば、プレイヤーズ・ピアノに自動演奏させれば 済むのである。ピアノというもともとは人間が演奏するための機械のメカニックな限界が問題になるなら、 電子的に再生してみるのでもよい。だがそこでも「人間という尺度」が暗黙の枠となっていることに留意しよう。 例えば新作の全体を数千万年という時間をかけて実現する場合や、逆に数秒で実現する場合を考えて 見ればよい。人間にとっては知覚不能なレベルもあるだろうし、別の次元(例えば音色の変化のようなもの)と 知覚されるレベルもあるだろう。それらに対してアルゴリズムは独立しているのであって、これが音楽である というのは、人間が作曲し、演奏し、聴取するという枠の範囲でしか起こりえない。だが同時に新しいものが 生じる豊穣な領域はその枠の境界、縁の部分、一歩間違えれば(一般的な意味での)混沌に陥り かねない危険と隣り合わせの領域であり、人間の定義が問い直されるような領域なのだ。そして三輪さんの 作品がそうした領域において生み出されていることは、この日の演奏会での大井さんの演奏によって 十分に感じ取ることができたように思うのである。

勿論、そのことは、任意のテンポで演奏すれば作曲者の 意図が達成するということでは全く無い。人間による、人間のための「音楽」作品として、美的な観点で 理想的なテンポというのが存在し、それゆえ作品を十全な形でリアライズするためには適切なテンポでの 演奏が必要なことも確かである。そしてそれは誰にでもできるわけではなく、三輪さんがこの作品を 作曲したのには、大井さんという、三輪さんが歩んでいる境界の領域を、演奏の次元において 踏破することができる演奏者の存在が大きな契機となっているのは疑いのないことであろう。

だが、そもそもこの点は決して聴き手にとっても他人事ではなく、安全な領域で奏者を批評できるというのは 幻想に過ぎない。聴き手の側にだって同じ課題が課されているのであり、とりわけても初演に接する場合の ハードルは極めて高いものであることを感じずにはいられない。昨年秋に大阪で三輪さんの新作初演に 接したときにも強く感じたが、演奏以前の問題として、聴き手たる私が、要求されている水準をパスするような 充分な聴取ができたかどうかの方が遥かに怪しいということを認めざるをえないのである。既に人間の寿命を超える 年月を経て生き残った作品が初演のときに被った無理解や誤解の記録を少しでも思い起こせば、 同じ轍を今、私が踏んでいない保証などありはしない。そういう意味においても、是非、再演を重ねることによって、 そして次回は指定されたテンポでの演奏が実現されることによって、聴き手の側への啓蒙と理解の促進の ための訓練の場を提供していただき、聴き手も含めた「音楽」が成立する場の全体として、作品の意図が 十全に実現されるリアリゼーションが行なわれることを期待したい。


最後に、このコンサートが大変素晴らしい雰囲気で行われたことを証言しておきたい。隅田川の岸に程近い ビルの1階を改装したホールは客席も固定ではなく、パイプ椅子を並べたものだが、満員の客席と奏者が 一体となって快い緊張感の中でのリサイタルであったと思う。このホールを訪れるのは初めてだが、会場を 切り盛りしている方々は三輪さんの作品の演奏会で度々お世話になっている方々で、いつもながら そのきめ細かでフレキシブルな対応に感心するとともに、私のような通りすがりの聴き手が気付かないところでも 色々な配慮があってこそ、毎回このような手作りで温かみのあるコンサートが実現されていることと思う。 演奏をした大井さん、会場にいらした細川さん、三輪さんは勿論、企画・運営にあたられた方々にも 御礼を申し上げて、この拙い感想の結びとしたい。

(2015.1.31/2.1初稿, 2024.8.27 noteにて公開)

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