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日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(14)
14.
一般に思われている以上に、文学作品における間テクスト性というのはありふれた出来事だ。ある作品の持つ固有の圏というのが、その作品の中で 言及され、参照されている他の作品が構成する星座によって浮かび上がってくるという側面は否みがたく、逆にそうした側面を持たない作品、 そうした側面がとりたてて問題にならない作品というのは珍しい。端的に言えば、作中人物が書物を読む習慣を持ち、それがその人物の人格形成に とって本質的な意味を持つように作者が設定してしまうのはごくありふれたことだ。ある意味では、どのような書物が好きかを記述することは、 その登場人物の性格描写の仕方として、安易なやり方であると考える人がいても不思議は無い。ジッドは、引用が織り成すコラージュ作品とさえ 言っても良い「アンドレ・ワルテルの手記」を出発点に持ち、それが自伝的な作品であることが告げるように、本人がいわゆる本の虫であった。 そして何よりも、甚だしい恣意性と自分の文脈への牽強付会が目立ち、曲解・誤読と呼べるものさえ少なくないとはいえ、終生手放さず、 その自由解釈をやめることのなかった「聖書」がある。
「狭き門」自体が参照するテキストによるインターテクスチュアリティ。聖書、パスカル、トマス・ア・ケンピス(「キリストに倣いて」)、 ダンテ、ラシーヌ、シェイクスピア(「十二夜」)、、、だが、邦訳において誰も注をつけないアリサの日記の5月24日で出てくる hic nemusこそ興味深い。これはヴェルギリウスの「牧歌」(Bucolica)の引用に違いない。hic nemus: hic ipso tecum consumerer aevo.(10,43) アリサの姓がビュコランであること、そしてその姓を用いた地口がアリサの母リュシルの駆け落ちの相手の若い中尉によって語られたことを 思い起こそう。5月24日の日記は、キリスト教的というよりは神話的な雰囲気の中で書かれている。ヴェルギリウスがダンテの神曲において 果たした役割を考えれば、この引用はこの文脈にまことに相応しいように思われる。そしてこうしたインターテクスチュアリティに関して言うならば、 「狭き門」は、ほぼ「アンドレ・ワルテルの手記」と同じ圏に属していて、他の物語・小説と鋭い対照を為す。
「狭き門」を取り囲む書物の圏を簡単にスケッチしてみよう。まずは「聖書」、そしてパスカル(「パンセ」と書簡)。トマス・ア・ケンピスの 「キリストに倣いて」、それからダンテ(「神曲」よりも寧ろ「新生」のベアトリーチェ、カンツォーネ)、(ジャンセニストとしての)ラシーヌの讃歌と シェイクスピアの「十二夜」、ヴェルギリウスの「牧歌」の遠いエコー、ラ・ブリュイエール、クロティルド・ド・ヴォー、ゲーテ、ボードレール、 名前のみであればコルネイユ、スウィンバーン、マールブランシュ、ライプニッツ、シェリー、キーツ、バイロン、ユゴー、シュリー・プリュドムの詩や ラシーヌの「ブリタニキュス」の科白のもじりなども登場する。これらは例えば、その一部は「アンドレ・ワルテルの手記」と共通するが、 同じ素材に基づく作品でありながら、寧ろ目立つのは相違の方だし、その相違は作品の主題と無関係なものではない。
ドン・キホーテはジュリエットに求婚し、夫となるテシエールを形容するのに用いられているのに注意すべきだろう。ジェロームとムイシュキンの 比較は結構だが、「白痴」と「狭き門」の比較自体は興味深くとも、山本が行っているようなムイシュキンを経由してジェロームをドン・キホーテに擬する類の解釈は、 少なくとも作者の意図に対して逆らった読み方をしていることは間違いない。単なる一途さだけをもってテシエールとジェロームの同一性を 引き出し、ドン・キホーテに擬するのはあまりに粗雑であり、実際、その直後に、ジェロームがドン・キホーテ的でない点を直ちに挙げるという ことを平気でやってのけることになる(山本和道「『狭き門』管見」)。では一体、あえて作者がテシエールをドン・キホーテ的であると、 まさにジュリエットがジェロームに対して語る言葉の中での形容として言わせているのは、どういう意味があるのかを考えてみるべきだろう。
山本のそういう一見すると明快でわかりやすく見える断定は、「傲慢な人間は破滅に至る」というジッドの指摘がアリサに当て嵌まるということも言っている。一体、では破滅とはどういう状態を指すのか。アリサが傲慢でなければどういう状況になりえて、それが破滅ではないというのはどういった状態のことなのか?次に、アリサが傲慢であるというのは、如何なる点においてか?彼女は「自己肯定」を行っているのか? これが「自己肯定」ならば、「自己否定」とは一体どういう行為を指すのか?彼女が行為として何をしたか、それを「カラマーゾフの兄弟」の カチェリーナ・イワーノヴナ、いやアグラフェーナ・アレクサンドロヴナとさえ、比べて見るが良い。あるいは「白痴」のナスターシャとアグラーヤとの比較でも良い。ナスターシャは結局、アグラーヤと直接会ってみると、自分が身を退くという決断を貫けない。ある意味では彼女達は アリサほど自己の意志に忠実でなかったという点で、傲慢ではなかったのだ。傲慢さと破滅の関係は、そんなに単純ではないだろうし、「傲慢な人間は破滅に至る」は全称命題なのかどうかも自明でないし、更には「傲慢でなければ破滅に至らない」を論理的には含意しない。 こうした凡そ論理的とは言えない短絡をジッドとジッドの研究者は憚りも無くやって恥じることがないらしいのを次から次へと見せ付けられると、アリサが気の毒に感じられる。恐らくは、「一見したところとは異なって、実は」という解釈を示したいのだろうが、そうした解釈は、それこそ傲慢な知性の産物ではないと言えるのだろうか?
勿論、この問いは山本に対してのみならず、ジッド当人に突きつけてみるべきかも知れないが、 想像するにこの文脈では、恐らくはアリサほど「傲慢」ではなかったということになるのであろうマドレーヌ・ロンドーがジッドと結婚してどうなったかを考えてみれば良いだろう。それは破滅ではないのか?そもそもアリサが到達した地点を「破滅」と呼んでいいのか?実のところジッド自身はそれに対する答えなど持っていはしない。彼はどうすればいいのかなどわからないし、そもそも最後のところで考えもしない。知性と意志を放棄することが神の国への途である、という言葉は、如何にジッドがドストエフスキーを理解できていなかったか、ドストエフスキーが拘った区別を蔑ろにしたかを端的に示している。この理屈でいけば「贋金作り」や「法王庁の抜け穴」こそ、(皮肉ではなく文字通り)「神の国」であるという結論になるだろう。知性と意志を放棄して盲目の衝動に身を任せればいいのであれば、「すべてが赦される」ことになる。 別にそれが「神の国」だと言うのならそれでも結構だが、であるならば、それは一般的な通念や理解とは途絶したものなので、 そう断ってからやるべきなのだ。ついでに「田園交響楽」の結末も、盲目の牧師が知性や意志を放棄して自分の欲望に忠実になった結果到来した「神の国」であるというべきなのだ。それが言えないのであれば、初めから論理は破綻しているのだ。
恐らくは全く逆であろう。「狭き門」こそ、ジッドの賢しらな知性、悪魔の囁きにつけ込まれて、自己の機能と限界を忘れてしまう知性に対するアンチテーゼなのだ。アリサは知性と意志でジェロームを拒んだのではない。ジェロームを愛したのも、ジェロームを拒むのも、実際にはその根本の衝動は知性の働きとは別のところに由来するし、意志の力と衝動を見分けることは、結局のところ出来はしないのだ。 ジッドは何故この作品を、大変な辛酸を舐めつつ書き上げたのか?その苦心惨澹を支えた衝動はなんだったのか?逆説的だが、 この作品こそ、ジッドが自己の最も深奥の衝動に忠実に、寧ろ意に反して書かざるをえなかった作品ではないのか?
(2013.9.15 Web公開, 2024.8.9 noteにて公開)