日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ (17)
17.
中村訳は原文に非常に忠実な訳だが、あっと驚くような部分もかなりある。例えばII.の末尾、Non, non. Je t’aime autant que jamais ; rassure-toi. Je t’écrirai ; je t’expliquerai.の部分で、「安心して」と「手紙を書くわ」の間のセミコロンを無視して、「だから、安心して お手紙を書くわ。」としているので、安心する主体が入れ替わってしまっている。
VII.のアリサとジェロームの書物の関する対話の一部。 Je sais d’avance que nous ne céderons, ni elles à aucun piège du beau langage, ni moi, en les lisant, à aucune profane admiration. においてprofaneを「瀆神的な」としていて驚かされる。確かに類語であるprofaner, profanateurは瀆神といったニュアンスを持つが、 あいにくprofaneは単に世俗的な、せいぜいが異教的なといったニュアンスのはずである。
VI.の途中、気まずい再会の後の手紙のやりとりに纏わる部分で、 Dans la suite de ma lettre, protestant contre son jugement, j’interjetais appel, la suppliais de nous faire crédit d’une nouvelle entrevue. Celle-ci avait eu tout contre elle : の最後のelleをアリサのことと勘違いして「彼女」と訳していて、ひどく驚くことになる。 「すべて彼女に悪いことばかりだった。」これは単なる女性形の代名詞の強勢形に過ぎず、直前のentrevueを受けていると読むのが自然である。 出会いのための条件が整っていなかったくらいの意味で、ことさらアリサに対して何かが悪かったということではありえず、文脈上、 全く意味の通らない文章になってしまっている。
V.の中のアリサの手紙の一部。La beauté même de ce pays, que je sens, que je constate du moins, ajoute encore à mon inexplicable tristesse… この文章の途中の, que je sens, que je constate du moins,がどうしたら à mon inexplicable tristesseを修飾できるのか理解しがたいが、 「この地方の美しさが、わたくしにも感じられ、少なくとも確信しているつもりの、わたくしの説明できない悲しみを、一層、大きくしてしまうのです…」 という訳文になっている。」日本語だけ読んでも、説明できない悲しみを感じるのはともかく、確信しているつもりであるとはどういうことなのか 素直に読めば首を捻ることになるだろう。もう少し細かいところに立ち入れば、「感じられ、少なくとも確信している」という畳掛けも不自然に感じないのだろうか?自ら作家として日本語を操る人間のすることとは思えない訳文に唖然とするばかりだ。山内訳はかなり行間を補った 「このわたしの感じた、と言って言葉がすぎれば、少なくともわたしのみとめているこの国の美しさ」という申し分の無い訳文となっている。 淀野訳も「わたしの感じている、いいえ、少なくとも認めているこの地方の美しさ」としており、川口訳は「私の感じる、少なくとも認める」と 更にそっけないが、いずれにしても、心から感じることは実はできていない(そしてそのことは後続の文章でも敷衍される)、だが 頭では認めざるをえないと思っている、といったニュアンスを正確に出すことができている。いずれにせよ、関係節のかけ方のミスは致命的で、 まるで訳のわからない文章になっているのだが、これだけ多くの優れた先行訳がありながら、それらを参考にしたりはしないらしい、 ということにも驚いてしまう。文章の構造を把握しそこなうようなミスならば、他人の訳を確認しさえすればすぐに気付くはずではないか。 もっとも、新訳が過去の先人の業績から学ばないばかりか、ごく基本的な文法レベルの誤訳をして平気なのは別段めずらしいことではなく、 近年では「カラマーゾフの兄弟」でそうした訳がベストセラーにさえなってしまったから、今や絶版になっているらしいものに目くじらをたてることもない、というのが世間一般の受け止め方なのかもしれないが。
物語の頂点のVII.のアリサとジェロームのやりとりの中のジェロームの言葉から更にもう一つ。Tu parles comme si rien la pouvait remplacer dans mon coeur, ou comme si mon coeur devait cesser d’aimer.の後半の部分。ほとんどの訳者はdevoirという法助動詞に留意して訳している。 例えば山内訳なら、「…それとも、ぼくがもう君を愛してはならなくなったとでもいうように…」となっているし、淀野訳は「…或いは、僕の心は もう恋をしてはいけないみたい…」としていて、新庄訳の旧訳もほぼ同じである。ところが中村訳は、「それともまた、僕の心が愛するのをやめたとでもいうふうな。」となっていて、 モダリティが変わってしまっている。(他では新庄訳の改訳の方、菅野訳もほぼ同じである。また、若林訳も「愛情が消え失せた」としており、モダリティに関しては 同じ。小佐井訳はモダリティを意識してはいるが「やめるはずだ」というニュアンスにとっている。)この差は、この場面の重要性を考えれば、決して小さなものでない。 ここの部分は今問題にしている devait もそうだが、直前でcomme si の並列を構成する pouvait の方をどう訳すかという点も興味深いので、 上記の引用全体の訳文を比較してみることにしよう。
中村訳:「きみは、まるで僕の心に、アリサの代わりのものがあるとでもいうふうなことを言うね。それともまた、僕の心が愛するのをやめたとでもいうふうな。」
若林訳:「きみの口ぶりだと、ぼくの心の中で、アリサの代わりになるものがありうるみたいじゃないか。ぼくの心から愛情が消え失せたとでもいうみたいじゃないか。」
白井訳:「きみはまるで、ぼくの心になにかアリサのかわりができるみたいに話すんだね。それとも、ぼくの心が愛するのをやめなければならないとでもいうふうだね。」
小佐井訳:「きみは、まるでぼくの心のなかで何かがアリサにとって代れるとでもいうように、話している。あるいは、ぼくの心が愛することをやめるはずだとでもいうように。」
菅野訳:「きみの話を聞いていると、まるで僕の心に、アリサに代わりができるものがあるとでもいうふうだね。それともまた、僕の心が愛するのをやめたとでもいうふうだね。」
須藤・松崎訳:「きみの話しぶりだと、ぼくの心にはもうアリサの代りになるものができたか、でなければ、ぼくの心は愛することをやめなければいけないみたいだね。」
村上訳:「まるで、ぼくの心の中に何かアリサに取って代わるものができたみたいな言い方をするじゃないか。それともぼくの心がもう恋をしてはいけないとでも言うのかい。」
山内訳:「君の言うことを聞いてると、さもぼくの心のなかで、何かが君に取って代わったしまいでもしたか、それとも、ぼくがもう君を愛してはならなくなったとでもいうように聞えるじゃないか。」
新庄訳旧訳:「きみの言うことを聞いてると、まるで、ぼくの心の中にアリサに代わるものができたように聞こえるじゃないか。あるいは、ぼくの心はもうきみを愛してはいけなくなったように聞こえるじゃないか。」
新庄訳新訳:「きみの言うことを聞いてると、まるで、ぼくの心の中に、アリサに代わるものができたように聞こえるじゃないか。あるいは、ぼくの心はもうきみを愛するのをやめたように聞こえるじゃないか。」
川口訳旧訳:「君の言葉を聞いてゐると、まるで僕の心の中になにかアリサの代わりでも出来たやうぢやないか。でなければ僕の心はもう戀をしては不可ないみたいぢやないか。」
川口訳新訳:「君の言葉を聞いていると、まるで僕の心の中にアリサの代わりでもできたようじゃないか。でなければ、僕の心はもう恋をしてはいけないみたいじゃないか。」
淀野訳:「きみの言うのを聞いていると、まるで僕の心のなかで何かが君に取って代つたか、或いは、僕の心はもう戀をしてはいけないみたいじやないか。」
pouvoirのニュアンスを明確に訳しているのは、若林訳と小佐井訳だろう。白井訳は、「心がアリサの代わりになる」という全く別の意味になってしまっている。 ちなみに、comme si に率いられる半過去を完了で訳すか、未完了で訳すかもまた微妙なところがあり、まさに十人十色の訳文になっている。
ちなみに少し前のジェロームの言葉 Un tel amour ne passera qu’avec moi.の tel を「あれほどの」と訳すのは、私の感覚では非常に強い抵抗感がある。ここを遠称にしてしまえば、 ジェローム自身もまた、自分の恋が過去のものであるかのような、そうではなくても、他人事のように客観視できるかのようなニュアンスになって しまうことはないのだろうか?そうした姿勢こそ、まさにここでジェロームが必死に否定しようとしている当のものではなかったのか?もっとも、ここを遠称に訳すのは中村訳ばかりではない。寧ろ tel を敢えて訳さないのでなければ、判で押したように遠称に訳すのがほとんどなのだ。 山内訳、新庄訳旧訳、淀野訳、川口訳、村上訳、須藤・松崎訳は訳さず、中村訳、白井訳、菅野訳は遠称で訳し、 一方で、新庄訳改訳は「これほどの」、小佐井訳は「こんな」と近称に訳している。新庄訳の改訳はこの箇所に限らず、色々な部分でかなり旧訳とは異なっていて驚かされる。