中将姫(2003.1)
永らく病気療養をされていた嶋大夫さんの復帰の公演。紋寿さんが遣われる中将姫の 雪責めの床を勤められるということで、初めて大阪の文楽劇場に足を運んだ。
私が嶋大夫さんを聴くのは、昨年の3月の地方公演、これ以上はないと思われるほどの 素晴らしいおかるが聴けた忠臣蔵七段目以来。これまでも「宵庚申」の上田村、 「堀川波の鼓」、「本朝廿四孝」の四段目、「曾根崎心中」の天満屋等、聴いた 演奏はすべて印象に残っている。特に「上田村」の感動は今でもありありと思い 起こせる、決定的なもので忘れることができない。私が文楽を見続けることになった きっかけはこの嶋大夫さんの「上田村」であったのだ。
嶋大夫さんの語りを聴いて感じることは、声量の豊かさと美しさ、語りの明晰さ (浄瑠璃がとにかくはっきりと聴き取れるのは私のような初心者にとっては 何よりありがたい。浄瑠璃を暗記され、様々な大夫さんの語りを聴き込んで おられるような聴き巧者の方のお考えは別かもしれないが。)、いわゆるストーリー・ テリングのうまさ、人物の語り分けのうまさがまず思い浮かぶ。しかし、 とりわけ嶋大夫さんでしか聴くことができないと思える点を私なりに、技術的でも、 情緒的でもなく言うとすれば、一つには、単に人物の心理だけでなく、その場を支配する 情調や光、温度の変化が、つまり全体としての物語の自己展開のベクトルを余すところ 無く享受できることにある。
語り出しの数秒か数十秒で、直ちに物語の世界に引き込み、そして段切れ、 物語が終わる時、単に浄瑠璃が最後に達したのではなく、移ろった時間の重みを、 空気の調子の変化、光の変化で感じ取ることになる。この移ろいの感覚、時間が経ち、 不可逆な出来事が出来したという感覚をこんなにはっきりと感じさせてくれる語り手は、 嶋大夫さんをおいてない。上田村のあの最初は春の訪れさえ予感させる穏やかさから、 炊いた門火が虚ろに浮かび上がる闇への門出、天満屋における、華やいだ夜から光無き 漆黒の闇への脱出、堀川波の鼓における松風の月夜から、女郎花の地獄の闇への転落。
そしてもう一つは、物語の頂点におけるその表現の凄みである。これは豪快であるとか 絢爛豪華であるというような意味ではなく、むしろ表現主義的に鋭く、時には 暴力的といっていいほどの荒々しささえ感じることがある。またその表現が到達する 深さは通常の心理を突き抜けて、無意識的な層の不気味なものにまで及んでいるのでは、 と思われることもしばしばである。この側面に関しては、既に書いたことで繰り返しになるが、 例えば、「堀川波の鼓」や「天満屋」の闇の深さ、そして一力茶屋における状況の変化の 表出の表現主義的といえるような荒々しさと「おかるは始終咳き上げ、、、」以降のおかるの 嘆きの圧倒的な美しさが思い起こされる。
そうしたわけで私にとって嶋大夫さんの語りは文楽を頻繁に観るきっかけを作って いただいただけでなく、これまでの鑑賞において些か特別な位置づけを占めているので、 今回の復帰は本当に喜ばしく、しかも紋寿さんの中将姫が観れるということで、常には ないことながら大阪まで足を運んだ次第である。
さて、一方でこの中将姫の物語、文楽の演目の雪責めは初めて観るもので、お伽草子 系列の中将姫の物語を読んだことの無い私にとって、中将姫は専ら当麻曼荼羅縁起と 能の「当麻」のイメージしかなかったが、これまで通り、特に事前に予習も無しに 聴くことになった。
最初、まず「あらいたわしの中将姫は」がゆったりとした線を描きはじめると、 冬のしかも雪の日の暗鬱で冷え切った戸外に見所もろとも移動したことを感じさせる。 これまでそうであったように、嶋大夫さんの語りは最初でもう、トポスの定位を行って しまうのだ。
中将姫の出は、私には受難劇を思わせた。思えば中将姫は中世の阿弥陀信仰にとっては シンボル的な存在で、キリスト教もカトリックならさしずめ聖女に列せられるような 存在で、であればこの連想も自然なものに思われる。警護のものに周りを囲まれて ひきずるような足取りで松の下まで歩む様は、キリスト教の受難物語であれば極めて 有名な場面への連想をさそわずにはいない。
紋寿さんの遣う中将姫には、そうした連想からか、宗教的な感じさえする気品を 感じた。嶋大夫さんの語りも清介さんの三味線も、中将姫の純粋さと、その積極的で 意志的な受動性(これは能動・受動の二項対立の手前、ないしは彼方にある倫理的な 受動性、つまり「受難」に他ならない)を描き出していたと感じられた。
物語の劇的な頂点は、岩根御前が自ら中将姫を打つところにあり、この場面の緊張の 凄まじさは、倒れ伏して打たれる中将姫の姿の迫真性も相俟ってもの凄く、思わず 宙を仰いで目をそむけたほどであった。文吾さんの岩根御前の容赦無さ、 清之助さんの桐の谷の苦渋も素晴らしく、物語の素朴さ、単純さを、品格を損なう ことのない劇的な緊張によって補い、感動的な舞台になっていたと思う。
最後の場面、岩根御前と広嗣が軽薄さすれすれの酷薄さでその場を去ったのちは、 特に玉英さんの浮舟が素晴らしかった。とりわけ最後の豊成の述懐を聴くときの表情が 忘れがたい。うつむいた人形の目から涙がこぼれたような気がした。この浮舟の役は 最初は岩根御前側のふりをしていて、最後の場面の導入でもわざと中将姫を死に至らしめる 「演技」をするのだが、私は筋をしらなかったので、きちんと騙されてしまった。
そういえば能の「雲雀山」は乳母がシテの話であった。勿論、話が直接つながるわけ ではないが、この玉英さんの浮舟こそ、「雲雀山」の乳母に似つかわしい。知恵にも まさり忍耐強い性格が印象的だった。
幕切れの、乳母達によって支えられ雲雀山に向かおうとする中将姫の姿は、雪が止んで 西の山の方からかすかに光が射してきた中で、ひときわ透明に輝いているように思え、 この浄瑠璃の基層にある宗教的な位相を再び感じさせられた。
全体として浄瑠璃のことばそのものは単純だが、こうした残酷さの一歩手前の荒々しさと 気品とが共存するような物語、しかも女性が多く登場し、身分や善悪の役回り、 性格の描き分けが必要とされる物語は、嶋大夫さんには非常に適していると感じられ、 本当に涙無しではみれない感動的な舞台であったと思う。
復帰された嶋大夫さんへはお祝いと、そして今後も是非いつまでもお元気で、今まで 同様の素晴らしい語りを聴かせていただけるよう、心からのお願いをせずにいられない。
他では特に「関寺小町」の文雀さんの人形が圧巻。それはただの老女ではない、 小野小町だったし、とりわけ最後の帰って行く姿は感動的だった。また、「海女」の 海女と蛸のやりとりも面白かった。
(2003.1.12記, 2024.12.1 noteにて公開)