日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(23)
23.
最後の場面、名付け親になること(consentirais-tu à être parrain de cette petite?)、 名前の継承(Quel est le nom de ma filleule ? – Alissa… répondit Juliette à voix basse. Elle lui ressemble un peu, ne trouves-tu pas ?)、 そしてここでは、そうした記憶の継承への同意の後で、改めて忘却と記憶が問題にされる。 (ちなみに、ここでの会話が問いも答えもQueの節によって為されていること(– Que tu espères oublier bientôt ? – Que je n’espère pas oublier jamais.) を訳文のニュアンスできちんと伝えることは非常に重要で、様々な翻訳を定位する上で一つのポイントとなると思われる。) 勿論、ここでは生き残った者達による死者の記憶の継承が証される。もし様々な論者が受容し、己の主張とする、ジッド自ら言うところの アリサへの「批判」があるのだとしても、この結末はそれを裏切っている。仮にもし、この記憶の継承自体が或る種の呪縛となる可能があるとしても、 実際にその成り行きを決定するのは、自分では知らないまま名づけられた(名づけとは常にそうしたものだ、名は自分では選べない)本人であって、 名づけた者達ではないし、ましてや作者ではないことをジッドが知らないはずはない(と私は信じている)。
姉アリサの死と末娘アリサの誕生に関するジッドの勘違いを、菅野昭正が訳注で指摘している。アリサの死を告げるジュリエットの手紙の中で、 Pour moi, qui attends mon cinquième enfant d’un jour à l’autre, je n’ai malheureusement pas pu me déplacer.とジュリエットは告げているが、 これは、物語の末尾で、Un autre garçon de dix ans allait rentrer de promenade ; c’est celui dont Juliette m’avait annoncé la naissance prochaine en m’annonçant aussi notre deuil. Cette dernière grossesse ne s’était pas terminée sans peine ; Juliette en était restée longtemps éprouvée ; と記述されており、彼は4人目の子供である。白井健三郎もまた、それに恐らく気付いて、こちらは先行するジュリエットの手紙の方を四人目と 訂正して訳してしまっている。だが、5人目がアリサであり、ジェロームが名付け親となるのであるとすれば、アリサの死と入れ違いに、まるで 生まれ変わりのように誕生するのは5人目の末娘のアリサである方が相応しいという見方さえ成り立つであろう。誰かが指摘し、かつ (「田園交響楽」でも似たようなことが起きたが、それと同様に)ジッドがいわば「確信犯」的に訂正しなかったのだとすれば、その 意図するところが、名の継承、他者への死者の記憶の継承を(もしかしたら無意識的に、リヴィエールが指摘するように、ほとんど 自意識の妨げを掻い潜って)ジッドの意識の奥の部屋の住人が望んだということに違いあるまい。
ところで小さなアリサは、アリサ自身の娘ではなかった。ジェロームがアメジストを渡すべき娘でもなかった。それはジュリエットの娘であった。 このずれの、差異の持つ意味は重要である。(私もかつて、30年後を想定したある文章を書いたとき、その文章の作者を、自分の 甥に設定したことがある。それは賞を獲得して、まさに30年後のつい先頃、それにちなんだ取材を受けることになったのだった。) だがこの差異は、例えばレヴィナスの言う「多産性」の孕む危険な方向性からも逸脱するという点においても、他者性の徹底という観点からも、 寧ろより徹底した、純度の高い継承を可能にするということを忘れてはなるまい。かくして悉く、ジッドを取り巻く文学研究者の 皮相な見解(海外の研究の単なる受け売りも含め)解釈の貧しさを白日の下に曝し、まさに芸術が、ジッド自身の意図をさえ超えて、 アリサの言うところの「勝りたるもの」を用意する契機となりうることを告げているのではなかろうか。
寧ろここに相応しいのは、「今からのち、主にあって死ぬものは幸いである。」(ヨハネの黙示録14-13)という言葉ではないのか。 (アリサの日記のほとんど終わり近く、10月15日付けの文章にこの言葉が引用されていることを思い出さなくてはならない。
ヨハネの黙示録から採られたこの章句は、ブラームスがドイツレクイエムの 終曲のために用意したものであったことを思い出そう。そしてこの夜明けを待つ鳥の描写が、マーラーの第2交響曲のフィナーレの、 あの復活の讃歌の直前の音楽に通じているのだとしたら?)
これは既に死んだものたちの(ための)物語であり、今からのち死すべきものの(ための)物語である。 それは優れて死すべきものの(ための)物語である。だがその意味するところは、この後ジッドが追及した方向ではなく、 寧ろドストエフスキーが「白痴」を経て、とりわけ「カラマーゾフの兄弟」において晩年に到達したかに見える方向の裡にある。 ドストエフスキーにあっても、問いそのものが消滅したわけではないし、批判もまた一層深い形で提示されているのだが、 それはあのゾシマの兄、マルケルの物語が照らし出す光によって照らされている。そう、これはまた、ブラームスが、マーラーが 垣間見た「復活」の物語、カラマーゾフの兄弟の末尾でコーリャの問いにアリョーシャが確信を持って答える「復活」の物語でありえたかも 知れないのだ。
彼らはかつてアリサのものであった家具が集められた部屋に移動する。 だが、ジェロームに割当られている筈の書き手ないし作者は、最初からそれを明かさない。 その部屋でのやり取りが終わってから、改めて年老いたジェロームが部屋を眺めるときになってようやくそれがそうであることが告げられる。 (Je revoyais la chambre d’Alissa, dont Juliette avait réuni là tous les meubles.)これは一体なぜなのか。勘の良い読み手なら、 最初にジュリエットが言及したときに、それがそうであることに気付くであろう、ということなのか。だがしかし、ジェロームが訪れたのはニームにある ジュリエットの家であり、部屋自体にアリサが嘗て起居したというわけではない。それが回想の上でアリサの部屋と化すのは、ジュリエットが 家具をここに集めるという作為を介してのことに過ぎない。そして、この部屋がアリサの部屋と化すのは、 潮のように部屋に満ちていく夕闇の中で、背景となるニームという土地が、異なった家の一室であるという規定そのものが解け去っていき、 そのことによって初めて、そこに置かれた遺品たちが過去を語り出し始めてからなのだ。 (Le soir montait comme une marée grise, atteignant, noyant chaque objet qui, dans cette ombre, semblait revivre et raconter à mi-voix son passé.) 部屋は沈黙が支配し、それを破ろうとするジュリエットの試みは挫折する。(– Allons ! fit-elle enfin ; il faut se réveiller… Je la vis se lever, faire un pas en avant, retomber comme sans force sur une chaise voisine ; elle passa ses mains sur son visage et il me parut qu’elle pleurait…) ジュリエットはしばしばこの部屋に入ることがあったと告げている。恐らくは一旦部屋を出た後も、再びこの部屋を訪れるのであろう。 過去のある時点で時間が停止するようにジュリエット自身がいわば仕組んだこの部屋は、実際には心の奥底に同じように外界から 隔てられ、無意識の領域に存在するクリプトの如き「別の部屋」、そこから幽霊の、他者の声が時折響いて、自己意識を導く領域、 恐らくはジッド自身の心の裡にもあって、この物語を書かせた声の出所なのである。もっと言えばその部屋は、「狭き門」を構成する書き手の回想そのもののメタファーであり、この回想はこの部屋を起点に書き起こされた、この部屋で生み出されたといって良いだろう。かつての家具を 一室に集めることは、ジッドが「狭き門」で成功した古典主義的な芸術のあり方のメタファーでもあろう。不要なものを削除し、余計なものを 付加せずに、記憶を、回想を物質化し、漸近的な永遠化を図ること。 そして既に引用した、ジャック・リヴィエールの以下のコメントは、そうした消息を正確に把握したものなのだ。
ところで、この部屋を「白痴」の結末のロゴージンの部屋と対比してみたら一体何が浮かび上がってくるだろうか。同じく死者とともにある 空間、幽霊の声が響く空間でありながら、ここには絶対的な隔たりがある。殺されるために戻ってきたナスターシャとは異なって、 アリサはここから出て行ったのであって、だからここにあるのは痕跡に過ぎないからなのだろうか。ナスターシャは、後にジェルトリュードがそうした ように、アリサの「老い」を経験することなく死を選んだ。アリサは「老い」を経験し、門前に少なくとも立った。彼女は「門」であると思ったものを 通過することを拒絶することを選ぶことによって、逆説的に門の向こうに抜けてしまったのだ。アグラーヤの批判はナスターシャには有効でも、 アリサには通じない。この物語におけるアグラーヤであるジュリエットは、結果としてはアグラーヤ同様アリサの意図を受け容れないが、 その彼女でさえ、アリサを否定することはできない。エパンチン将軍夫人のように「目を覚まさなければ」と言いながら、彼女は崩れ折れてしまう。
ここの部分のジュリエットの応対は全体として、彼女もまた、過去(それは自分のものでもある)の脈絡から自由でありえないことを 示している。ジェロームばかりではなく、ジュリエットもまた、この部屋のように自分の心の裡にアリサの住まうクリプトを抱えているのだ。 人によっては、この最後の場面のジュリエットのしぐさや言葉に、かつてのジュリエットの嫉妬の再現を読み取ることさえ可能だろう。 末の娘にアリサと名付け、ジェロームを名付け親にしようとするのは、ジュリエットもまた、ジェロームと同様にアリサを自己の生命を 超えた世代の記憶に委ねる意思を持っていることを告げている。その行為自体が、「目を覚まさなければ」という彼女自身の 思いから出た行動であるかも知れないのだ。(ちなみに淀野訳および川口訳旧訳では、不思議なことに、 ジェロームの言葉Quel est le nom de ma filleule ?をまるまる訳し落としている。)
以下では、– Asseyons-nous, dit-elle en se laissant tomber dans un fauteuil. / – Ah ! fit-elle, comme indifférente, puis détournant de moi son visage qu’elle penchait à terre comme pour chercher je ne sais quoi de perdu : といったジュリエットの仕草、反応の訳し方も様々で、その違いがたち現れるジュリエットの姿の違いとなっているのを 比較しておこう。
– Asseyons-nous, dit-elle en se laissant tomber dans un fauteuil.
中村訳:すわりましょう、と彼女は肘掛け椅子に腰をおろしながら言った。
若林訳:「坐りましょう」と、肘掛け椅子に力なく腰をおろしながら彼女は言った。
白井訳:「すわりましょう」 肘掛椅子に腰をおろしながら、彼女は言った。
小佐井訳:「坐りましょう」と、言いながら、彼女は肘掛椅子に腰を落とした。
菅野訳:「すわりましょうよ」肘掛け椅子に深々と腰をおろしながら、彼女は言った。
須藤・松崎訳:「すわりましょうよ」そう言うと彼女は、どさりと肘掛椅子に腰をおろした。
村上訳:「すわりましょう」、と彼女は言って、倒れるように肘掛け椅子に腰をおろした。
山内訳:「掛けましょう」と言って、彼女は安楽椅子にがっくり身を落とした。
新庄訳旧訳:「かけましょう」と言って、彼女は安楽いすにくずれるように腰をおろした。
新庄訳新訳:「かけましょう」と言って、彼女は安楽いすにどっかと腰をおろした。
川口訳旧訳:「掛けませう。」と言ひながら、彼女は安楽椅子にどっかりと腰を下した。
川口訳新訳:「掛けましょう。」と言いながら、彼女は肘掛椅子にどっかと腰を下ろした。
淀野訳:「掛けましょう」と言って彼女は安楽椅子にどっかり腰をおろした。
– Ah ! fit-elle, comme indifférente, puis détournant de moi son visage qu’elle penchait à terre comme pour chercher je ne sais quoi de perdu :
中村訳: まあ!と彼女は無関心な口ぶりで言った。それから私から顔をそらして、なにかなくしたものでもさがすように、床にかがみこんだ。
若林訳:「まあ!」と彼女は、どうでもいいことみたいに言い、ぼくから顔をそむけて、何か紛失したものでも探すみたいに、床にじいっと目を落としながら、
白井訳:「まあ!」と、彼女は無頓着なふうに言った。それから、私から顔をそむけ、なにか失くしたものでもさがすように、床の上に身をかがめながら、つづけた
小佐井訳:「そう!」と、彼女はまるで関心がないように言い、それから、顔をそむけると、床の上に何か落し物でも探すようにうつむきながら、
菅野訳:「まあ!」と、彼女は取りあいたくなさろうな口ぶりで言った。そうして私から目をそらし、なにかなくしたものでもさがすような恰好で、床の上に視線を注ぎながら言葉をつづけた。
須藤・松崎訳:「あら!」と、彼女は無関心な様子で言った。それから、ぼくから顔をそむけ、なにか失くしたものをさがしでもするように、床の上にかがみこんだ。
村上訳: 「そう」と彼女はいかにも無関心といったような返事をして、次にわたしから顔をそらし、何か失くしたものでも探すように、床の上に眼をやりながら、
山内訳:「あら」彼女は、それを気にとめないようなようすで、やがてわたしから顔をそむけると、何か失われたものをさがしでもするように床に目を落としていた。
新庄訳旧訳: 「そう」と彼女はむとんじゃくそうな返事をした。それから、わたしから顔をそらして、何かなくしたものでもさがすかのように床を見ていた。
新庄訳新訳: 「そう」と、彼女は無頓着そうな返事をした。それから、わたしから顔をそらして、何かなくしたものでもさがすかのように、床を見ていた。
川口訳旧訳: 「まあ!」と彼女は気のないやうな返事をして、私から眼を逸らし、何か失くし物でも探すやうに床に眼をやりながら、
川口訳新訳: 「まあ!」と彼女は気のない返事をした。そして、私から眼をそらし、何か失せ物でも探すように床に眼をやりながら、
淀野訳:「そう」と彼女は気のないような返事をして、私から顔をそむけ、何か失つたものでも探すように床に眼をやりながら、