魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(10)
10.
テキストの生成過程の、完成したテキスト内部における痕跡。テキストの生成過程そのもの、書き手(=ジッド)の書く欲望に フォーカスしたとき、この作品は当初の目論見どおりに書き遂せたものなのか?生成の紆余曲折は、最終的な意図達成とは基本的に 独立であり、当初の目論見の実現のために紆余曲折が必要であったということも当然にありえる。「田園交響楽」の場合、第一の手帖の書き出しは 非常に順調であったらしく、日記・手記に偽装された物語である第一の手帖は非常にスムーズに書かれたらしいのに対し、第二の手帖の冒頭部分では 実際に進捗が停滞したらしい。難渋の果てに、第二の手帖の結末は作者自身が充分に展開できていないことに対する懸念を記す程度までに 今度は書き急がれたとのことだが、テキスト自身もそうした書き急ぎを反映し、亀裂やずれを孕んでいるようだ。第一の手帖の冒頭に以下のように記された 牧師の手記執筆の意図(それ自体が、ある種の自己欺瞞を孕んでいる可能性もあるが、今はそれは問わないことにする)は、どこまで達成されたのか?
それは第一の手帖の途中、3月8日の日付の項において、一旦は、 C’est l’histoire du développement intellectuel et moral de Gertrude que j’ai entrepris de tracer ici. J’y reviens. と再確認されるが、直ちに言い訳とともに撤回され、手帖執筆は別の目的にすり替わってしまってはいないか?それ以降、一体何のために この手記は書かれているのか?と同時に、外側においてジッドは何のためにこの作品を書いたのか?途中で放棄せず完成し、公表したのか? 最初から結末を想定して書き始められたのか?知られる限りでは、L'Aveugleが構想された時点、そして、それを再び取り上げた時点での ジッドの関心は、まさにカルヴァンのパウロ主義の批判にあった。(決して、カトリックに対する批判ではなく、寧ろプロテスタントの 正統主義、とりわけカルヴィニズムに対する批判であったことには留意されて良い。)そして執筆開始の時点では、マルク・アレグレとの 関係がジッドの大きな関心事であった。そして第一の手帖と第二の手帖の間には、妻マドレーヌを置いて、マルク・アレグレとイギリスに 旅行し、その間にマドレーヌがジッドがマドレーヌに宛てた書簡の全てを焼却するという「事件」が起きている。
実際のところどうであったかの実証的な跡付けも可能だろうが、作者が最初からそれを意図したかどうかに関わらず、結果的にこの作品は、 書くことそのものの挫折の記録ではないのか?書く欲望自体が途中で変容し、最後には枯渇してしまう過程自体の記述になっているかのようだ。 手記の形式の借用は、ある種の「告白」文学の系列への位置づけを可能にするかに見える。だが勿論、ジッドには「本物の」告白もあるから、 この作品をそうした文脈で典型として取り上げるのは適切でない。逆になぜ、物語を偽装するのか?虚構である物語において、今度は 逆向きに手記の形式を採用し、語り手の「告白」を偽装するのは何故か?(カトリックとの関係において、「告白」(つまり「秘密懺悔」と呼ばれるもの)というのがカトリックの制度であり、プロテスタントのそれではないことに留意すべきだろうか?ジッドが一生をかけて行って止むことのなかった自己露出を 一体どう理解すればいいのか?)
第一の手帖において作者は、以前からあった盲人の物語を介して、自分が実践した聖書の自由主義的解釈が帰結するところを描き出したかった のかも知れない。だが、それが第二の手帖の末尾のような不毛に陥るという結論を最初から抱いていたようには思えないし、盲人がその解釈の 犠牲となる物語を最初から構想していたわけではないのではないか?そして何より、ここにはそれを記録すること、物語ることにより、 記憶を永続化することを作者に強いるような何かが、最後まで保存されることなく、途中で破壊され、最後には消滅してしまう過程が 書かれているかのようだ。そういう意味ではこの作品はその全体が、この後の作者自身の歩む道程を予示したものであるという見方も 成り立つだろう。最早、牧師の視点から語ることは残されていない。祈りの不可能性は(それは泣くことの不可能性でもあまり変わるところはないが)、書く行為の不可能性であり、書く内容の枯渇でもある。
最後にもう一度戻るだろうが、この作品の持つ力というのは、最初に目論まれ、意図された内容が、作品の生成の途中で破壊され、 全く別のものに変容していくその力に由来するのではないか?アメリーへの贖罪(だが牧師は祈ることすらできないのだが)、 ジェルトリュードの鎮魂、自由主義的聖書解釈の決定的な行き詰まりの記録が最初から意図されたものではなく、途中から いわば突如として侵入した、その因果的効果の大きさが、この作品に一回性の出来事の持つ深みを与えているのではないか?
デュ・ボスの指摘するとおり、この作品の末尾において、作者が選択した手記という形式自体が破綻してしまっている。 本来これは過去の出来事として、物語として(もう一度、第一の手帖のように、あるいは「アンドレ・ワルテルの手記のように」) 語られるべきだったのではないか?だがそのかわりここでは出来事そのものが生のまま、その力を剥き出しに示している。 実際、様々な可能性が考えられる。ジェルトリュードの声を牧師の語りを介さずに伝える方法(「狭き門」における書簡や 日記の利用)もあっただろう。あるいはもっと後で、「女の学校」「ロベール」「ジュヌヴィーヴあるいは未完の告白」 三部作で行ったように、ジェルトリュード、アメリー、あるいはジャックに自ら語らせること。しかしそうした選択は 為されなかった。それは作品の生成の力学上、最早手遅れだったからなのか?作品自体の価値に勝る理由によって その機会が与えられなかったのか?結末から逆算すれば、この物語はもう一つの「背徳者」になっても不思議はなかった。 一方で、第一の手帖が偽装された物語として書かれている以上、「アンドレ・ワルテルの手記」のように、 それ自体は物語性を拒絶しつつ、外部に書かれるべき物語(「アラン」)を浮かび上がらせることもまた、 不可能だったということか?そのことは「背徳者」とは異なって、牧師が最初からいわば「確信犯」的に選択した 行為の結果ではなく、結局のところ自己欺瞞の過程の記述であることと相関するのだろうか?それをテキストの形で 「告白」することの方はどうか?否、寧ろ、書くことそのものを通して自己欺瞞が明らかになっていったという点が問題なのか?
第一の手帖の回想の恣意性(第二次過去把持は、想起の現在の第一次過去把持およびそれを成立させる地平の影響から自由では ありえない、無意識の加工、抑圧が常に考えられる)に対し、第二の手帖で起こった読み直し、そして評者によっては 想定することもある第一の手帖のテキストに対する事後遡及的な加筆の可能性を、テキストの読み直し、 テキストの書き直しをどう考えるのか?(そしてもう一度外部へ。「田園交響楽」の複数の版の問題。 いわゆる「批判版」の作成作業が必要である現実を前提とした、テキストのオーセンティシティの問題にまで至る。 更には「田園交響楽」の場合、日付の不整合を「修正」した英訳があり、しばしば翻訳において聖句の引用箇所の 「誤り」が訳者によって「訂正」される。)
この点で参照点を外に求めるとすれば、またしてもドストエフスキーの「白痴」になる。つまりこれは、トーツキーのプチジューの如きものなのだ。 この手帖が、ジェルトリュードの自殺を巡る取調べに当たり、証拠として検討されたならば、これだけの矛盾と欺瞞に満ちた手帖が証拠として採用される 可能性はないだろう。寧ろ、事実を隠蔽するための操作がそこで行われ、事実と異なる方向に調査を誘導する狡猾な罠であるという嫌疑さえ招きかねない。 寧ろジッドの意図に抗して、そうした矛盾や破綻の背後にあるものが何なのかを読み取ることこそが要請されているのかも知れない。「狭き門」の手前で 引き返して「法王庁の抜け穴」を通過したジッドが「贋金作り」に至る過程で、いわば疑似餌として、囮として、もしかしたら自分自身をすら欺くために でっち上げたのが、「田園交響楽」なのではなかろうか。アリサの「老い」の陰画のように、ジェルトリュードは視覚を獲得することにより、牧師の理想を体現する 存在ではなくなったに過ぎない。(勿論ジェロームが否定したように、牧師自身もそれを否定するだろうが。)
驚くべきは、ジッドがドストエフスキーを知っており、ニーチェとの比較において、ニーチェの限界を超える可能性をドストエフスキーの自己放棄に 見出していさえしたことである。にも関わらずジッドは、決してムイシュキンやアリョーシャ、ゾシマ、更にはゾシマの兄のマルケルの在り方に 向かおうとはせず、イワンの立場に、もしかしたらトーツキーの立場に留まったように見える。この自己矛盾を、首尾一貫の欠如をどう理解したらよいのか?
同じ出来事の別の物語。例えばドラノワの映画は最早、同じ物語の映画化と言えないだけではなく、同じ出来事の それとすら言えない。(牧師が、その点においてまで手帖に嘘を書いていたという仮説に立たない限り。) だが、推理小説的な読解をするものは、手記自体の信憑性を疑うだろう。例えば、ジェルトリュードは本当に 自ら身を投げたのか、という点は、推理小説的読解においては真っ先に問題になるに違いない。しかも犯人は 別に牧師と決まったわけではない、ということにすらなりうるだろう。「カラマーゾフの兄弟」のような 法廷小説のスタイルを借りて、同じ出来事の複数の物語を提示しないまでも、「狭き門」のようにせめて 別の視点を導入することは「物語(レシ)」の枠組みでも可能であった筈なのであるが、ジッドはそれすら 拒絶してしまった。それはなぜなのか?それ以上に、そのことがもたらす帰結は何なのか?ジッドが形式の 問題、美学的な視点で己の書いたものを評価していたことを踏まえるとしたら、解くべき問題の核は ここにあるのではないか?
従って、この物語を、いわゆる日記文学の伝統の中で扱うことに対しては慎重でなくてはなるまいし、それと隣接する「告白」文学、あるいは 端的な「告白」の伝統との関係についても同様である。ジッドは自分を書き手とした日記や手帖も書き、公表しているから、ここでは 日記、手帖の形態をとった虚構の物語であるという点にまず留意すべきだろう。日記や手帖は、それが自分自身以外の目に触れないが故に、 他人に対してであればつくかも知れない「嘘」や、他人の視線を意識したポーズを、もっと言えばペルソナ=仮面をつけなくてもいい形式である という「約束事」に基づいて、そうした形式を用いたフィクション(物語)を提示することで、作者たるジッドは、読み手に対する戦略を既に 発動させているのである。要するに、作者は自分も用いる形式の効果に対して十分に意識的であるが、それとともに、読み手もそうした 作者の戦略を読み取ることができるであろうこともまた、意識していた筈である。いわば読者を巻き込んだゲームであり、ゲームを仕掛けたのは 作者なのである。ゲームの例えは、この物語で扱われている内容を考えると不謹慎であったり、或る種の相対主義同様、そうした価値の次元を 捨象してしまっているという批判を受けることがあるだろうが、それに対しては、仕掛けたのは作者であり、読者ではないので、読者に対して そうした批判をするのは不当ではないかという抗弁が可能だろう。実際、ゲームは非対称であり、書き手はルール自体を変更することが 原理的には可能ですらあるのに対し、読者は受身たらざるを得ないのであるから、責は作者に着せられるべきであろう。ジッド自身は、 よりゲーム性を徹底させた作品(「法王庁の抜け穴」)を既に書いていて、それを発展させて、彼なりの小説(「贋金作り」)を書こうとしており、 その間に挟まれたこの作品の表現に対して明確な意識がなかったとは考えにくい。上記のようないわば伝統的なルールに基づき、だが 敢えてそのルールに違反するによって矛盾を積極的に仕込むことによって、それに気付いた読者が、差し当たりは登場人物である 牧師のおかれた状況や、手記の内容としては明示的には書かれることのない意図や欲望の反映を感じ取るように、次いでそうした 仕掛を施した作者の意図を読み取るようにジッド自身が仕組んだと考えるべきなのだろう。日付の過誤などの矛盾もまた、まずは牧師自身の 心理状態や心的な機制、もしかしたら自覚していない欲望の表現であるという作者の読者に対するメッセージを読み取るべきなのだ。
そもそも日記や手帖の持つ、他人に対してであればつくかも知れない「嘘」や、他人の視線を意識したポーズを、もっと言えば ペルソナ=仮面をつけなくてもいい形式であるという点は、早速牧師自身によって裏切られており、ジッドは読者との共謀という点についても、 それ以前の作品とはやや異なって、この作品においてはアイロニカルな立場にいることは明らかである。牧師は既に第一の手帖の中で、 自分の手帖が自分以外の誰かに読まれる可能性を想定しているし、そもそもこの手記の書き始めの動機自体、結果的に自分のものではない ことに気付くことになるアリサの日記とは異なって、自分が遭遇した恩寵に満ちた出来事を記念し、保存し、他者に伝達することを 暗黙の裡に意図していたはずであることを考えると、寧ろ途中で、私的な感情について、他人の視線を気にするようになること自体、 既に変節であるとも考えられる。当初の企図からすれば、この物語は、日記形式の私的な独白ではなく、客観的な記録として 書かれるべきではなかったのかというように考えれば、表明された当初の意図自体が既に欺瞞に満ちたものであるか、あるいは牧師の企図が というより、牧師を己の代理として設定したジッド自身の企図自体が最初から矛盾を孕んだもの、失敗と挫折を内包したものであった 可能性は否定しがたい。だが一方で、すぐさまそうした矛盾を曝け出し、日付の錯誤やら矛盾やらを犯しつつ、だがジッドは、最後まで 牧師という「私」の語りを放棄せず、その外部に出ようとしない。レシという形式が自己崩壊する過程ともいえるこの作品は、ある意味では 「アンドレ・ワルテルの手記」よりも更に徹底して、私以外の展望を排除することに拘っているようなのだ。
更には、作品を自律的で完結したものであるという極端な立場に立つのでなければ、作者ジッドが先手を打って仕掛けたのは、 作品に内在する登場人物の動揺や欺瞞の表現である以上に、作者自身の姿勢を示す徴候、或る種の態度表明が篭められたもの、 あるいはそこまで意識的でないにしても無意識的な態度選択に影響されたものであるというように考えることもできるだろう。 同じ日付の矛盾や言い落とし、嘘は、牧師のというより寧ろ作者自身が作品に残した痕跡であるというように考えることができるし、 実際、そうした前提に立つ解釈が妥当な場合もあるだろう。この解釈に立った場合でも、それが作者の意図的なメッセージなのか、 無意識的な過誤なのか、いずれかの可能性が考えられるのではあるが、そもそもそれを厳密に区別することなど、作者自身にすらできないだろうし、 「理性的な人格」を前提とした法に基づく裁判ならともかくも、作者が設定した土俵の上では、それを区別する必要もあるまい。
従って、読者は手記、手帖の形式でフィクションとして物語が提示されたとき、その「外部」を二重に想定できる。一つ目は作中人物のレベルであり、 実はこの手記の内容に偽りがあり、或いは空想の産物であり、事実ではない、というような注釈を後から外から付与することでルールを敢えて違反し、 真実は探偵役が別に解き明かすというのは、例えば推理小説のジャンルではごく普通に行われている。そうした観点からすれば、この作品には、 そういう意味での外部は直接には存在しないかに見える。一方で、二つ目の作者のレベルの外部は、ここでは一旦、この作品がフィクション、架空の 物語であるという規定が与えられているのだから曖昧さはないと考えることもできそうだが、実はフィクションに見せかけて隠された事実を語っていたり、 ジッド本人名義のいわば「本物の」手記や日記に対する注釈であるというようなことを考えることは可能だろう。ソチやロマンならぬレシという形式は、 ジッドによって、まさにそうした読みを誘うように設定されたジャンルであり、ジッド自身、主人公と同一視されて批判されることに対して当惑したことも あるようだが、それは自業自得、実際にはそうなることを意図していたはずなのであるし、実際に作者の実生活の反映を物語に見るという視点を 実証的に行うだけで研究になってしまうような状況が存在しているわけだから、とりわけてもジッドのような場合には、「本当はどうだったのか」という 推理小説的な問いが二つの水準で可能であり、読者はメタフィクション的な錯綜に巻き込まれてしまうことになる。
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