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調査レポート(2)「ドロミテのマーラーの足跡を辿る―林邦之さんに―」

少し前のことだが、マーラーの生涯の記録媒体として重要な写真を巡る混乱について、「ある写真についての備忘」と題した備忘を記したことがある。 そこで主題的に扱った写真ではないが、マーラーが「晩年」(それはどちらかといえば後知恵で、その生涯の終りから逆算したものだが、にも関わらず まるきり内実がないともいえない時代区分であるが)の夏の休暇を過し、そこで「大地の歌」「第9交響曲」「第10交響曲」が作曲されたトープラッハの トレンカーホーフを巡っても混乱があることに気付いて、以下のように記したのであった。

(...)ブラウコプフの「マーラー 未来の同時代者」の邦訳(酒田健一訳, 白水社, 1974)の巻頭では、 どうみてもトーブラッハの夏の別荘として使われた農家(トレンカー家の所有)が写っている写真に「アッター湖畔の別荘」というキャプションがついている。 同一の写真は例えばブラウコプフ夫妻が編纂したドイツ語版の資料集"Gustav Mahler, Leben und Werk in zeugnissen der Zeit" (Hatje, 1993)の27番で確認できるが、 そこでのキャプションは勿論トーブラッハの休暇の住まいとなっている。 なお同じ写真・同じキャプションの誤りは音楽之友社の作曲家別名曲解説ライブラリのマーラーの巻(1992)のp.50でも繰り返されている。(...)

もっともこの件に関しては、少なくとも白水社版のブラウコプフの「マーラー 未来の同時代者」の翻訳については、以下の事情を勘案しなければそれはそれで 不当なことになろう。即ち、原文であるKurt Blaukopf, "Gustav Mahler oder Der Zeitgenosse der Zukunft" (Fritz Molden, 1969)の図版のキャプション自体が 誤っているのである。私が所蔵している版では、1ページの上下に2枚の写真が割り付けられ、"Das Sommerdomizil am Attersee (oben), das Komponisthäuschen am Seeufer (unten)"として、上に問題のトレンカーホーフの写真が、下には正しくアッター湖畔の作曲小屋の写真が掲げられているのである。してみればブラウコプフ自身が 後になって"Gustav Mahler, Leben und Werk in zeugnissen der Zeit" (Hatje, 1993)を編む折に誤りを修正したことになる。ちなみに "Gustav Mahler oder Der Zeitgenosse der Zukunft"の図版にはもう一つ、現時点では考えられないキャプションの誤りがあって、これも青土社の「音楽の手帖 マーラー」や 新潮文庫の船山隆「マーラー」のp.165の下側など色々なところで紹介されている1909年に撮影された写真、グスタフとアルマがトーブラッハからアルトシュルダーバッハへ向かう なだらかな丘陵を並んで散歩している写真が"Gustav Mahler und Anna von Mildenburg"となっていたりする。 こちらも"Gustav Mahler, Leben und Werk in zeugnissen der Zeit" (Hatje, 1993)の図版22では"Alma und Gustav Mahler auf dem Weg von Toblach nach Altschluderbach, Photographie 1909"と訂正されていて、要するにこの種の混乱は別に日本だけのことではないということが窺えたりもするのである。

もともとが間違い探しを目的にしているのではなく、気になることを調べると次々とこうしたことが起きる、というのがマーラーを取り巻く現実なのはどうやら否定し難く、 その度に非常に消耗させられるのだが、この件はこれで一旦終りと思っていたら、以前、「ゼッキンゲンのラッパ手」を巡って問い合わせをいただいた林邦之さんから、 再び、今度はマーラーが晩年を過した場所が同定できない旨、お問い合わせを頂いた。今年はマーラーのアニヴァーサリーで、日本の音楽雑誌も特集を組んだり しているらしい(私は音楽雑誌というのを全く読まないので知らなかった)のだが、それを拝見してのこととのこと。手元にあるフランクリンの伝記のある部分を 元に、Webに存在する幾つかの情報源とともに取り急ぎご回答して、折角このようなお問い合わせをいただいたのだから、自分のWebページにもそうした 情報を付け加えようかと追加で調べ始めると、またもや雲行きが怪しくなってきた。といっても勿論、梅雨明けの豪雨に見舞われている日本の天気のことでも、 やはり天候が変わりやすく不順なことの多いらしいドロミテのことでもない。私には現地を訪れたりするだけの時間の余裕が許されていないから、 文献やら、Webの情報などを突き合せているだけなのだが、これが結構相互に矛盾していたりするのだ。

この件についてのもっとも簡明な解決方法は、自分で彼の地を訪れ、確かめることに違いない。だけれども今の私にはそれは許されていないので、 ここではあくまでも矛盾の指摘をするに留め、真実は、その目で確かめることが許された他の方に委ねたい。だがいずれにしても、 この項に記載する内容は上記のような経緯に基づくものである故、この文章自体が今度もまたご質問いただかなければありえなかった。 前回同様、ご質問がなければ、このテーマについてまとめることはなかっただろうし、私としてはまたもや非常に貴重な勉強をさせていただいたと感じている。 この場を借りて、林さんに、再び深い感謝の意を表したい。


まず、件のフランクリンの著作である。この伝記はコンパクトではあるけれど新しいだけあって、それまでの研究の蓄積を踏まえたかなり突っ込んだ記述が なされており、トープラッハについてもまた然りである。一方で邦訳は首を捻るような箇所が多いので、一応念のため原書(私の手元にあるのはペーパーバック版)と 邦訳の両方の参照箇所を記すことにすれば、まず原書pp.164--165、邦訳pp.221--222で1907年にヴェルター湖畔のマイアーニヒを去ってからの残りの 夏を過した場所に触れた後、原書pp.168--171、邦訳ではpp.227--230にかけての部分で、ドロミテの一部の風景の写真(原書図版17、キャプションは "The Dolomities, a view from the path around the Dürrensee, just to the north of Schluderbach"、例によって訳ははなはだ自由な 読み替えを行っている)とともに、その続きを為すかのようにドロミテ(邦訳ではドロミティと表記)、だが実際にはここは(上記の写真とキャプションに対応する ように)シュルダーバッハを中心としたランドロ渓谷沿いの記述が続く。

("The railway line that one led from Toblach via Schluderbach to Misurina has gone, but the near by road, widened and much resurfaced, still snakes through the long and sometimes rather gloomy Landro valley, whose mountains walls periodically break to afford breathtaking views of viciously razoredged peaks. As one approaches Schluderbach, the peaks of the Drei Zinnen from the centre-piece of a grand vista to the east. A little further on one reaches the Dürrensee: the modest but picturesque lake, through whose forest of dwarf pines (it still flourishes) Mahler had thrashed in June 1905 to work off the migrane that train jouneys so often brought on. The path around the lake, where cowbells may still be heard, gives striking glimpses of jutting buttresses and towers of the cliffs that climb steeply above the road on the opposite side.")

そこでは、ドロミテの一帯がマーラーにとって、この晩年に初めて訪れた場所などではなく、以前よりなじみの場所であることがきちんと記されているし、 (後述するが)特に1905年のドロミテ訪問と縁の深い第7交響曲で聴かれるカウ・ベルの音色まで仄めかす念の入れようである。

フランクリンが言及しているのは1905年のことだが、この時の経緯はアルマの「回想と手紙」に収めされたアルマ宛の1905年夏の一連の手紙、 シュルダーバッハ、エードラッハーホーフ、ホーホシュネーベルク発の手紙から窺える(白水社版の邦訳pp.313--316)。だが、南チロルまで範囲を広げれば その時が始めてというわけではなく、1897年の夏のチロルでの休暇の経緯はバウアー=レヒナーの回想が残っている(邦訳pp.196--202)し、 更に翌1898年にもやはりファールンで夏の休暇を過している(同じく邦訳pp.257--260)。1897年はマーラーがウィーンの歌劇場に就任した年だが、 この夏の休暇はその直前にあたり、バウアー=レヒナーの回想にも出てくるヤーンとハンスクリックの訪問のことは、書簡集に含まれるローザ・パピーア宛 の7月26日ファールンで書かれた手紙にも窺える(1996年版に基づく邦訳では252番。pp.241--243)。また書簡集では、1901年8月20日に ニーナ・シュピーグラー宛に書かれた手紙(同295番、pp.276--277)の中で、ドロミテを代表する高峰であるドライ・ツィンネンの山小屋が登場する。 (ちなみに邦訳では「三軒の鋸壁の山小屋」という奇妙な訳になっている。これはマーラーの"die 3 Zinnnenhütte"という書き方のせいもあるだろうが、 ちょっと調べればわかることには違いなかろう。)

話を1905年の夏に戻せば、この夏、前年に第6交響曲の余勢をかうように作曲された2つのアンダンテ楽章、第7交響曲の第2,4楽章の 「夜曲」を手に、第7交響曲の残りの部分の作曲をしようとしたものの、さっぱり筆が進まず、已む無くドロミテの山に籠ったようだ。 このあたりの経緯は、実はもっと後になって1910年6月にアルマに宛てて書かれた手紙の中で回想されているのを、アルマの「回想と手紙」で 読むことができる(白水社版邦訳pp.406--407)。回想にあるように結局、ドロミテの山中では収穫はなかったものの、その帰途のボートの一漕で 第7交響曲の第1楽章の冒頭がひらめき、その後4週間で第7交響曲を書くことができたのは有名な逸話に属するだろう。


と、ここまでは別段問題はないのだが、その先で、「大地の歌」が書き始められたのが1907年なのか1908年なのかというこれまた 有名なトピックに関連して、アルフレート・ロラーの回想に触れるところで最初の齟齬が起きるのである。ロラーの回想(残念ながら私は 未だに原文にあたれていない)の引用として「大地の歌」の作曲は、「ランドロ渓谷の北端の町トープラッハから東に2、3キロ行ったところにある アルト・シュルダーバッハの古い農家」で1908年になって初めて行われたという記述が転記されているが、その少し後でフランクリン自身が アルト・シュルダーバッハを記述する際(原書pp.177-78、邦訳pp.238--39)には、「トープラッハから西に2,3キロ行った」というように、 アルト・シュルダーバッハとトープラッハの相対的な位置関係が逆転しているのである。

こんな疑問は地図が一枚あればたちどころに解決する類のものだ。地図はないかと思って探してみると、ド・ラ・グランジュの英語版伝記の 第3巻の図版57にトープラッハ近郊の鳥瞰図が収められている。尤もこの地図のみからではそもそもどちらが北か判らないのだが、 実際にはこれは南が奥になるような描き方になっており、従ってロラーの記述の「ランドロ渓谷の北端の町トープラッハ」の部分は正しくても、 アルト・シュルダーバッハとトープラッハの位置関係については「トープラッハから西に2,3キロ行った」というフランクリン自身の記述が正しいことになる。 (ちなみに、Webでも例えばHochpustertalのページ(http://www.hochpustertal.info/)から、丁度同じような鳥瞰図の画像を取得できる。 これには、山や町の名前と標高、湖の名前がドイツ語・イタリア語併記で詳細に記載され、山小屋の位置まで書き込まれている。Drei Zinnenは 勿論、DürrenseeとSchluderbachの位置関係、ランドロ渓谷からトープラッハ湖を経てトープラッハに至る、フランクリンが記述したルートが 視覚的に容易に確認できる。もっともこれは一例に過ぎず、ドロミテは今や世界遺産ということもあり、情報は幾らでもあるようだ。)


さて、これで問題は解決かというとそうでもない。ド・ラ・グランジュは上で触れた図版57に"Toblach and its neighbourhoood, where Mahler made many excursions in the years 1897-1907"というキャプションをつけているが、これはこの図版が収められた巻が1904年から1907年までを 扱っているのに対応しているのだろう。ところで同じ見開きページに収められた関連する写真はいずれも絵葉書の写真で、58番が "Postcard view of Schluderbach and the Hohe Gaisl (1906), where Mahler stayed in 1907"、そして59番は"Postcard view of Lake Misurina (with Drei Zinnen)"、60番が”Postcard view od Landro (early 1900s), with Monte Cristallino”であり、ここはあくまで、 1907年にマイアーニヒを去ったマーラー家の足跡にフォーカスされているのであって、翌年以降、毎年訪れることになったアルト・シュルダーバッハが 話題になっているわけではないのだ。

フランクリンの記述の記述もまた、上で引用した部分は未だ1907年に留まっており、アルト・シュルダーバッハのトレンカーホーフが出て来るのは もう少し先、原書ではpp.177--178のことで、そこには例の作曲小屋の写真も掲げられている(邦訳ではpp.238--239)。アルマの「回想と手紙」の 「悲しみと不安 1907年」の章の末尾の部分(白水社版邦訳ではp.144)でシュルダーバッハへの移動に触れていて、その最後を「彼はシュルダーバッハ に滞在中、はてしないさびしい散歩のあいだに想をねり、はやくもこのオーケストラ付き歌曲のスケッチを書きあげていた。そしてそれは1年後に 「大地の歌」として完成するのだ!」と結んでいるのだが、この部分こそフランクリンが問題視した箇所なのであり、ロラーの証言もまた、この部分を 巡って引用されていたのである。

だがここで私が問題にしたいのは、「大地の歌」のスケッチが何時書かれたか、1907年か1908年かということそのものではない。それよりは寧ろ、 そのことに恐らくは関連して生じがちな混乱、1907年に滞在したシュルダーバッハと1908年以降の滞在場所であったアルト・シュルダーバッハの混同の方を 問題にしたいのである。これはわざわざド・ラ・グランジュが英語版マーラー伝第3巻のp.696で"Schluderbach (not to be confused with Alt-Schluderbach, in the neighbourhood of Toblach, where Mahler and Alma were to spend the next three summers)"と断り、更に 既に触れたとおり図版の58番にもHohe Gaislを背景とした写真(従って、西に向かって写真を取っていることになる)まで掲げている程なのだが、 例えば、Classical Composer DatabaseというWebサイトのトレンカーホーフの所在地の紹介(http://www.classical-composers.org/place/562)に おける地図の情報は、明らかに(アルト・シュルダーバッハではなく)シュルダーバッハの方を指してしまっていたりするのである。同じページにある写真の方は、 どうやら正しくトレンカーホーフ(今はペンションになっているらしい)と、マーラーの作曲小屋への途中経路を示しているようなので、却って混乱を招きかねない。

ド・ラ・グランジュは1907年のシュルダーバッハ滞在の折に拠点とした場所を、執筆時点でなお残っているシュルダーバッハにある2つのホテルのうちの いずれかであっただろうと推測しているが、それにつけた注(269番)で、マーラーの1907年のシュルダーバッハ滞在を裏付ける証跡(未知の人宛の 1907年8月シュルダーバッハという日付・場所を持つ第6交響曲の冒頭主題を伴うマーラー自筆の献辞が書き込まれたアルバム張)に言及すると ともに、翌年の滞在場所を提供したトレンカー家の一員であるマリアナ・トレンカーの回想でも1907年の(旧:Alt-ではなく)Neu-Schluderbachと 彼女が呼んでいるシュルダーバッハへのマーラーの滞在についての言及があることを記している(この点についてはフランス語版第3巻のp.87の注229にも記載がある)。 してみれば土地に住んでいる人でもわざわざ新・旧をつけて区別する必要がある地名なわけで、混同が起きるのは止むを得ない側面もあるのだろう。 現地に行って「シュルダーバッハへはどう行けばいいんでしょうか?」と現地の人に尋ねたら、「新しいのと古いののどちらのことですか?」と問い返されるような状況を考えれば良い。 こうした事は別段特別なことではなく、時代とともに少しずつ変わっていくプロセスはどの場所でも同じであって、日本でだってごく身近に実際に ちょくちょく起きているに違いない事態ではなかろうか。なお、このマリアナ・トレンカーの回想は、トーブラッハ(周知の如く、現在はイタリアに属していて、 トレンティーノ=アルト・アディジェ州ボルツァーノ自治県のコムーネであるドービアッコと呼ばれる。ただし現在でも住民の言語はほとんどドイツ語のようだ)で 開かれているマーラーの名を関した音楽祭のWebページで読むことができるようだ(http://www.gustav-mahler.it/index.html)。


というわけでようやく1908年の夏、アルト・シュルダーバッハのトレンカーホーフに辿り着くことができたわけだが、トレンカーホーフの写真はモノクロ、 カラー取り混ぜ、時代も様々な写真が幾つもあるから、ここで紹介するまでもないだろう。なお、ド・ラ・グランジュの英語版マーラー伝の第4巻の p.203の最後のパラグラフ以降には、トープラッハを含む南チロル地方の当時の状況の紹介が為されており、鉄道網の発達やら、リゾート地としての 開発の様子を窺い知ることができる(ちなみにこの部分は英語版で大幅に増補された部分のようで、フランス語版には見当たらない)。 おさらいとばかりに、第7交響曲作曲の折のことにも触れているが、注では1905年の書簡を参照しているにも 関わらず、本文では何故か1904年のこととなっているなど、大作ならではの校正の杜撰さはフランス語版と同様相変わらずで、資料として利用するに あたっては注意が必要だろう。勿論、いわゆる実証性という点ではド・ラ・グランジュは徹底していて、(こうして休日に自室で資料を照合している だけの私などとは異なって)自分の足で現地を取材しているのは、フランス語版マーラー伝第3巻の図版21~24の"La Maison de Toblach"と題された4葉の 写真のうち23番の作曲小屋の写真には著者自身が写っていることからも窺える。

トレンカーホーフについても非常に詳細な記述が為されており、トレンカーホーフでの生活の様子も同様である。 かと思えば、p.212の注395では、典拠の1つとしている回想の主であるマリアナ・トレンカーが1906年生まれで、1908年にはまだ2歳、1910年でも やっと5歳に過ぎず、従ってその記述のあるものは"obviously fictitious"であること、回想のベースは実はトレンカー家で当時メイドとして働いていた 女性のそれであることが注記されていたりと、情報量は多いが、それだけに極めて見通しが悪い状態のまま積み上げられている感じが強い。 勿論、ドービアッコのグスタフ・マーラー音楽祭のWebのページではそんなことは断っていないから、知らずに読んだ人間が思わず鵜呑みにしそうになるのを 防ぐには役に立つわけであって、だからこそここでもそうした記述のあることを煩瑣を厭わずに紹介しているのであるが。


ついでなので、ドロミテに関するド・ラ・グランジュの伝記資料でその年代考証で注目すべき例をもう一つだけ挙げておこう。上でも触れたフランス語版 マーラー伝第3巻の図版1には、"Mahler en promenade dans les environs de Toblach pendant l'été 1907"とキャプションが付けられた 写真が収められている。改訂・増補された英語版(出版は1999年)ではこれが1907年までを扱った第3巻に移動し、図版9として掲げられるところまでは当然なのだろうが、 それだけではなくキャプションが変えられていて、"Mahler in Fischleinboden (Dolomites), 10 August 1907"となっている。FischleinbodenがToblachの周辺か どうかは見方の問題だから問わないでおくとして、注目すべきは、この写真が一般には1909年に撮られたものだとされているのに、ド・ラ・グランジュが 異議を述べている、しかも日付まで特定してそうしている点である。

例えばKaplan FoundationによるThe Mahler Album(1995)では図版108が同一の写真である。所蔵はド・ラ・グランジュが館長を務める Bibliothèque Musicale Gustav Mahler(BMGM)で、同じ時に撮られた別のショット(こちらはKaplan Foundation所蔵)が図版107として 見開きのページに並べられていて場所は同じFischleinbodenでも1909年撮影となっている。ちなみに図版107もあちこちで見かけることができる有名な写真で、 例えばThe Cambridge Companion to Mahler(2007)の表紙を飾っているし、日本では音楽之友社の作曲家 人と作品シリーズに含まれる村井の 「マーラー」(2004)のp.201に収められ、しかもキャプションはThe Mahler Albumの1909年説を採っているのが確認できる。村井の著作はド・ラ・グランジュの 英語版第3巻より5年も後の出版であり、村井は後書きでできるだけ新しい資料にあたった旨を強調しているし、特にわざわざド・ラ・グランジュの英語版伝記を 生涯編の「タネ本」として明示的に言及している程なのだが、この写真が何故か解説編の第3交響曲のところ(だからどちらの説を採るにしても、年代的には 奇妙な錯誤を示していることになる)に挿入されている点はおくとしても、村井がド・ラ・グランジュの上記の見解を知っていて、なお別の根拠に基づきそれを却下したものか、 それとも単純に従来の見解に従っただけなのかは杳として知れない。村井は後書きにおいてド・ラ・グランジュが「比較的ナイーブに「人と作品」を 結びつけがちなのに対して、私は両者は基本的に別物だという立場だから、個々のデータの意味づけや解釈は随所で異なっている」(p.311)と書いているが、 勿論、ここで私が問題にしているのは意味づけや解釈以前の問題なのは言うまでもない。

だがここでは、ド・ラ・グランジュの主張を紹介するに留めよう。英語版第3巻本文で問題の写真に言及しているのはpp.704--705であり、そこでは 宮廷歌劇場での上司であったモンテヌオーヴォ侯から、ヴァインガルトナーがベルリンを離任したという手紙(これはアルマの「回想と手紙」で 読むことができる8月10日ゼメリング発の手紙だろう)を受け取ったときにはシュルダーバッハを離れ、フィッシュラインボーデン(フィッシュラインタールとも)に 移動していたという事実がまず述べられる。p.705の注11にある通り、更には上で紹介した地図でも容易に確認できる通り、フィッシュラインタールは Moosという村のすぐそば、Sextenと呼ばれる地域にあり、トープラッハからは15km程離れている。彼らの宿泊したホテルはHotel Dolomitenhofという 名前で、そのホテルのスタンプが押されたDrei Zinnenの絵葉書が、Sextenから更にToblachに向かって降りたところにあるInnichenという町から マーラーの妹ユスティーネ宛てに8月13日付けの消印で出されているようだ。以下、ド・ラ・グランジュ自身に語らせよう。

(...) Two photographs of Mahler were taken there that summer, not far from the hotel. They show him out walking in the mountains. He looks rather careworn, and is waring a waistcost and jacket, knee-breeches and walking boots. One hand is on his hip, the other, which is against his thigh, he holds a walking stick on which he is leaning. The photograph bears the signature of Alfred Liebig, whose identity remains unknown, and dated 10 August 1907. (...)

更に上記の部分につけられた注13で、ド・ラ・グランジュは1909年説がロラーによるものであることを明記し、また、先に触れたKaplan Foundationの The Mahler Albumに図版107,108として掲載されていることにも言及しているのである。

なお、ここで問題にしている写真は、上で触れた以外でも、例えば、マーラーに関するフランス語で書かれた書籍としては私の知る限り今のところ最も新しい Isabelle Werckの"Gustav Mahler"(2010)のp.148にも採られており、これもまたKaplan FoundationのMahler Albumに従い、1909年説をとっている。 (この本の場合、村井のそれとは異なり、Bibliographieが付いていて、そこにはKaplan FoundationのMahler Albumはあるが、de La Grangeの フランス語版マーラー伝はないから、これはこれで辻褄は合っていることになるが)。だが、そもそもBlaukopf夫妻編集の "Mahler : A Documentary Study"(Oxford University Press, 1976)において既に上で紹介したde La Grangeが言及している 事情には触れられていること、ただしここでは(実証を重んじるなら自然な選択だと思うが)1907年説が採られ、異説としてロラーの主張が根拠である1909年説を 併記している点を忘れてはなるまい。一体どういう事情があってのことかは杳として知れないが、30年以上が経過してなお、どちらかといえば回想ならではの 記憶違いから完全に自由というわけではないロラーの回想を根拠とした説が寧ろ優勢を占めているかにさえ見えるのは、私のような立場の人間には 不可解という他ない。


林さんからのお問い合わせに触発された、ドロミテのマーラーの足跡を辿るヴァーチャルな旅は、思ったより難渋し、かなりの視界不良の中にあったように感じられる。 私のような単なる市井の愛好家には危険な暴挙であるとして、音楽学者や音楽評論家といったプロの方には咎められるようなものであったかも知れない。 だが、ある意味では林さんの戸惑いは至極もっともなものであり、私の調査が、決定的にではなくても、わずかばかりでもマーラーの足跡を明らかにすることに 役立てばこれに優る幸いはない。

最後に今回の調査で私が感じたことを少しだけ書き留めておきたい。まず、第3交響曲がアッター湖畔のシュタインバッハと、中期交響曲がヴェルター湖畔の マイアーニヒと結び付けられるように、「大地の歌」以降の後期の交響曲はトープラッハの地名、そしてドロミテの風景と結び付けて論じられることが多く、 勿論それは巨視的に見れば間違いではないのだが、それでもなお、マーラーがドロミテを訪れたのが1897年まで遡るということ、実際に曲が書かれたのが ヴェルター湖畔に戻ってから、否、ひらめいたのがヴェルター湖畔の対岸のクルンペンドルフから漕ぎ出したボートの一漕ぎであったとしてもなお、 中期交響曲のカウベルの音色がドロミテに響くそれでもあった可能性もあるのだということは確認されて良いことのように思われる。 そして次にこのことに関連して私が気になるのは、アドルノのマーラー論のDer lange Blickの章に含まれる「大地の歌」に関連した次の一節(Taschenbuch版全集13巻p.291) のことなのである。以下の"weißen Fleck des geistigen Atlas"という言い回しは、ここで確認したようなドロミテとマーラーとの密接で長期に渉る関わりの 存在を知らないか、あるいは上記のような図式的な捉え方で済ませてしまう向きには、まるでドロミテが、それまでのマーラーにとって未知の土地であったかのように取られかねないことを 私は懼れるのである。東洋趣味すらモードとしてならば同時代には溢れかえっていたわけだし、マーラー自身、「大地の歌」作曲の時期にハンマーシュラークという知己を介して 中国音楽の録音されたものを聞いたという事実はあるものの、ショーペンハウアーやフェヒナーなどを通して、あるいはリュッケルトを通して、東洋趣味に 関してはより早い時期から全く没交渉であったとは言えないだろう。してみれば、かつてのドイツ民謡の位置を中国趣味が占めているという評言は、主観的にはどうであれ、マーラーの 音楽の持つ反照的で屈折した性格により、両者への距離感が、そして結局のところ両者の機能が本質的には変わらないという事情に照らせば結局のところ妥当であるものの、 それでもなお、もう少し微妙なニュアンスが存在するのではという疑念は拭い難い。

(...) Das Lied von der Erde ist auf dem weißen Fleck des geistigen Atlas angesiedelt, wo ein China aus Porzellan und die künstlich roten Felsen der Dolomiten unter mineralischem Himmel aneinander grenzen. (...)

ここはいわゆる仮晶(Pseudomorphose)について語られているところで、mineralischem Himmelという言い回しなどにはそうした用語法の反響がこだましているのであろうが、 それにしてもドロミテについての"künstlich roten Felsen"とは一体何だろうか。恐らくはアドルノは、ドロマイト(苦灰石)という鉱物そのものの色彩について述べたのではない。 (ドロミテの名前の由来はフランスの地質学者デオダ・デ・ドロミウDeodat De Dolomieu(1750-1801)の名前である。1791年にこの地方で多く見られる岩石が、 石灰岩がマグネシウムを含んで変成したものであることを発見し、彼の名を冠して鉱物の名前をドロミテ(ドロマイト)と呼び、この地域のことをドロミテ・アルプスと 呼ぶようになったようだ。)

そうではなくてアドルノは恐らく、彼の地で"Enrosadira"と呼ばれる現象、日の出や夕暮れの陽の光に照らされて、赤色、薔薇色、菫色などの色彩に変化する現象を 思い浮かべて、"künstlich roten Felsen"と書いたのであろう。もともとのドロマイトの色とは全く懸け離れた色彩に、黄昏時の光によって変容するイメージは、 如何にも仮晶(Pseudomorphose)に似つかわしい。künstlichはだから、自然か人為かの対立を含意しているのではないだろう。寧ろ魔法のように非現実的な色彩へと 風景が変容する一瞬があるのだ。無い物ねだりなのかも知れないが、2種類の日本語訳(竹内・橋本訳「白雲石山脈(ドロミーテン)の人工風に赤い岩石」、 龍村訳「ドロミテンの作り物のような赤い岩」)も、フランクリンが参照している英訳("artificially red cliff")も、いずれもそうしたニュアンスを捉えているとは言い難い。 龍村訳はドロミテンにわざわざ訳注をつけているのだから、せめてなぜドロマイトが赤いのかについても一言言及して欲しかったように思えてならない。それとも、 訳している先生方には自明のことで、そんなことは断るまでもないことなのだろうか。ドロマイトがどんな鉱物かを知っていて、カラー写真で「普段の」ドロミテの風景を 見たことがあった私には、残念ながら何故、岩が「赤い」のかわからず当惑したものである。「魔法にかかったように茜色に染まる岩」だと思い至るのに、随分と遠回りを したものである。なお、あるいはおやと感づかれた方がいらっしゃるかも知れないが、"Enrosadira"という単語は語源的にはイタリア語由来の単語ではない。 ドロミテで今なお使われているイタリア語とは異なるロマンス語系の言語であるラディン語の単語とのこと。

否、今でもこのアドルノの言い回しは、私の中に、わからなさを伴って沈殿し続けているといって良い。同じ薄明の中であっても、夕陽は山の向こうに去って、 寧ろ菫色から藍色へと変わっていく瞬間、あるいは永遠の碧空、銀色の月、否、終楽章を離れても、翡翠と磁器の緑と白、柳の翠、湖の碧、再び翡翠の翠、 黄金色に枯れた蓮の葉、黄金の杯といった色彩は、アドルノが仮晶の風景として提示したそれとは余りに遠い。大地=地球説と並んで、アドルノの「大地の歌」に ついてのコメントは、総体としては違和感がないのに、具体的なイメージの水準に近づけば近づくほど、奇妙な懸隔があることに戸惑ってしまうのだ。 (余談になるが、「魔法にかかったように茜色に染まる岩」のイメージにぴったりくるのは、私にとっては寧ろ第6交響曲のアンダンテである。あるいは「晩年」のマーラーの 音楽に限定すれば、ジュリーニの指揮した第9交響曲の第4楽章アダージョが"Enrosadira"の裡にあるように感じられる。ジュリーニのマーラー演奏については別の ところで印象を記したことがあるが、大地の歌や第9交響曲第1楽章におけるその風景の鮮明な輪郭や直接的・現在的な立ち現れ方は異様で、私はついつい、 ジュリーニにとって南チロルの風景が幼少期の記憶と結びついた「原風景」の如きものであったに違いないということを思い浮かべずには居られない。 第9交響曲のフィナーレもまた、他の演奏では記憶の裡に朧に霞んでいたり、あるいは闇の中に没していたりしているのが、ジュリーニの演奏に限っては 「魔法にかかったように茜色に染まった」、だが紛れもなく現実の風景が眼前に広がる思いがしてならないのだ。)

「お前は結局アドルノがわかっていないのだ」「ド・ラ・グランジュの素朴な伝記主義同様、それはあまりに詩句の表面に囚われすぎた、素朴な捉え方で そんなことではマーラーを理解することなどできない」ときっと言われるのが落ちなのだろう。だがそれも仕方あるまい。理論は取替えが利くが、音楽を虚心坦懐に 受け止めた印象を裏切ることはできない。無理解との誹謗も甘受する他ない。何しろ私はドロミテの地に立ったことがないし、今の絶望的な多忙の中で、 ドロミテを訪れる機会など望むべくもない。そうした私に一体何がわかるというのだろう。だから私はここで沈黙することにしよう。寧ろ私は、未整理だろうが何だろうが、 あれだけの莫大な情報を蒐集したド・ラ・グランジュの巨大な情熱に敬意を表して、この拙い調査報告の結びとしたいと思う。

(2010.7.11,14,24 執筆・公開, 2024.8.8 noteにて公開)

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