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MIDIアコーディオンによるペルゴレージ「スターバト・マーテル」歌唱の試みについて

G.B.ペルゴレージ「スターバト・マーテル」第1曲(ソプラノ・アルト重唱・ピアノ伴奏)

MIDIアコーディオン歌唱:岡野勇仁
ソプラノ:さかいれいしう
ピアノ:岩井亜希子
編曲:フォルマント兄弟(三輪眞弘+佐近田展康)

「サウンドパフォーマンス・プラットフォーム 」
2015年3月12日(木)
愛知県芸術劇場小ホール


MIDIアコーディオンによる人工歌唱のための「兄弟式国際ボタン音素変換標準規格」に基づく 人工音声と人間の重唱によるペルゴレージ「スターバト・マーテル」の初演が、 2015年3月12日に愛知県芸術劇場小ホールにて行われた。初演に立ち会うことはできなかったが、 初演の映像記録をYoutubeで視聴することができたので、その感想を以下に記しておきたい。


まず最初に、これが初演に立ち会った記録ではないことに留意しておこう。一回性の「出来事」に 遭遇した証言ではなく、原理的には何度でも再生可能な映像記録を、実際に複数回視聴した 記録であることを。次に画像がPray/Playの交替を利用したタイトル(「Pr(l)aying voice / Stabat Mater」)が つけられている点に注目しよう。そしてそこでは「祈り」(Pray)が優越しているという点を。 これは宗教音楽の演奏(Play)の持つ、行為遂行的な側面を端的に説明しているとともに、 人工歌唱という、恰も人形遣いが人形を遣ってある「人格」を演ずるかのように「声」格を演ずる(Play)、 MIDIアコーディオン奏者の役割を示してもいるだろう。それは更に「誰」がStabat Materを演奏するのか という問題、「何を」行っているのかという、演奏の主体と対象の問題をこの試みが問題提起している点を 指し示してもいるだろう。演奏の、そしてそれにも増して祈りの主体と対象の問題こそが、この試みの問いかけの、 控えめに言っても最も重要なものの一つであることは疑いないであろう。演奏の、そして、祈りの。 だが祈りの対象という時それは「何を」祈るかではなく、「何に」祈るかではなかったか? では演奏の方は?今や演奏の対象は専ら「何を」しか問題にしないかに見える。「何に」向かって演奏するのか? これはコンサートホールだけの問題ではない。今日でもさすがに能舞台での翁の礼拝に拍手する人間はいなくても、 文楽劇場では、開演前の三番叟の人形の「礼拝」を客席へのお辞儀と勘違いして拍手をする人間が必ず居るものだ。 いや、もしかしたら演者の側の意識としても、半ばは「お客様は神様です」とばかり、それは客席への お辞儀そのものになりつつあるのかも知れない。

しかもそれが、通常のコンサート・ホールでの、しかも「サウンドパフォーマンス・プラットフォーム 」 という枠組みの中で行われた点に留意しよう。前者について言えば、18世紀イタリアのナポリ楽派の 作曲家ジョバンニ・バッティスタ・ペルゴレージの「スターバト・マーテル」は、修道会での典礼用に 委嘱されたという経緯はあるものの、その後の多くの西欧の宗教音楽と同様、コンサート・ホールで 演奏されることは珍しいことではない。勿論、演奏場所として教会が用いられることも多いようだが、 それの本来の姿であるSeptem Dolorum Beatae Mariae Virginis (カトリックの教会暦では9月15日)におけるsequentiaとして、つまり典礼の一部として機能する わけではないことがほとんどであろう。後者はと言えば、上述の「問題提起」の場として、それは 如何にも相応しいということが言えるだろうが、一方でそうしたメタな批判的視点は、それ自体、 祈り/演奏の行為遂行性を損ねることになるのでは、という懸念が生じることは避け難い。 それに対する弁護としては、そうした環境の如何にかかわらず、常に演奏=祈りは成立するのだ という主張が成り立つだろうが、これは今度は、祈りというものが、歌いさえすれば「自動的」、 「機械的」に成り立つのかという、行為遂行性に付き纏う別の疑念を呼び起こすことになる。

更にそうした問題は、幾重かに折り返されて聴き手たる私の問題ともなって戻ってくる。 その場に居て「共に祈った」わけではない私は、「出来事」に参加したかどうかについては、 事実として明らかに「否」なわけであるが、それでは「演奏を聴いた」とも言えないのだろうか? 端的にペルゴレージの「スターバト・マーテル」の演奏のみが収録され、「サウンドパフォーマンス・ プラットフォーム 」という文脈がそぎ落とされた映像に接することにより、寧ろ作品自体・ 演奏自体に端的に向き合えると言ってはいけないのだろうか?これらは形式的には、 三輪さんの言う「録楽」による作品聴取の問題と同型である。ラジオやテレビを媒体にした伝道や礼拝というのは、 日本では必ずしもそうではないけれど、例えばアメリカではありふれた光景であり、 今日において決してめずらしいわけではないという現実も考慮する必要があるだろうか。

何度でも再生可能な演奏記録を視聴することには慣れっこで、それによって「音楽を聴く」ことが 成立していることに疑念を抱くことはほとんどないかも知れないが、では「祈り」の方はどうか? 礼拝を撮影した映像の視聴は、その視聴の仕方次第で、それ自体「祈り」の行為への 参加たりうるのであろうか。そこに付き纏う行為遂行の「今」「此処」からの隔たりが、 演奏=祈りとその聴取=祈りの両方を毀損することはないのか? 正確なかわりに機械的な記録の反復再生によって、「祈り」もまた正確に再生されるのだろうか? ここで私は「祈り」の「幽霊」的な出現に遭遇しているというべきではないのか?


ペルゴレージの「スターバト・マーテル」はソプラノとアルトの重唱で歌われることが多いが、 今回はそのうちソプラノは人間が歌うのに対して、アルトはMIDIアコーディオンによる人工音声で歌われる。 これまでのフォルマント兄弟の試みでは、人工音声の歌唱に対して、人間が伴奏をするという形態での 「合奏」は行われてきたが、ここでは人間と「共に歌う」点が大きく異なっている。 そうした「合奏」の事例としては、直ちに思いつくだけでも、 ここでと同じく岡野勇人さんが奏するMIDIキーボードによる合成音声に田中悠美子さん奏する三味線が 合いの手を入れるNeo都都逸、幾つかのバージョンでの「夢のワルツ」の伴奏。そして、 「海ゆかば」でのMIDIアコーディオンの歌唱に対する管弦楽によるアンサンブルの否定の試みが挙げられよう。 人力を介さない機械も含めれば、「ひとのきえさり」における、マーチン・リッチズさん製作の Singing Machineの朗詠とドレミパイプの「合奏」による祈りが挙げられるし、更に音声という点に 拘らなければ、東大のシンポジウムで試みられた西陽子さんの箜篌とマーチン・リッチズさん製作の Thinking Machineの合奏、といった例が挙げられよう。

そこで思い浮かぶのは、「音楽」における人間が演奏するという契機を重視する三輪さんの作品群の中では 特殊な位置を占める、テープ作品という演奏の次元が不在なジャンルの作品である「再現芸術における幽霊」である。 「新しい時代」の作品系列に属するこの作品では、年末の街頭で流されている、悔い改めを呼びかける 人間の声の「録音」がサンプリングされて、音素材として組み込まれていた。そこでは布教、伝道という行為の 主体は端的に不在であるわけだが(もっとも私が見かけた「布教活動」では、全く人間が介在しないわけではなく、 先端にラウドスピーカを取り付けた棒を持った人が、彼自身は無言で街頭に立っていたのだが)、そのこと自体も 含めて、更にはテープ音楽の素材として、予め録音された人間の声の再生をもう一度録音したものを用いるという点も 併せて、構造的に、Stabat Materという典礼目的で創られた作品を、MIDIアコーディオンを奏する人間(彼自身は 声を発することはない)を介して生成される人工歌唱により演奏するという今回の試みは、丁度鏡像的な関係に あるように思われる。

序でに言えば、「新しい時代」系列の作品の中核を為すのはモノローグ・オペラ「新しい時代」であるが、 今回の演奏でソプラノを担当しているさかいれいしうさんは、「新しい時代」の唯一の登場人物である、 架空の宗教の信者である少年役を担当しており、また同系列の「信徒歌曲集」の録音もあるが故に、 その「声」は、一連の「新しい時代」作品群のカバーストーリーを想起させずにはいない。


だがここでは、それらのこれまでの全ての試みと異なって、機械が、或はより事態に即した言い方を するならば、別の人工器官によって人間が、誰のものでもない声で、ということになるのだろうが、 中世の修道士の作とされる聖母マリアの嘆きの詩を歌うことによって、キリストの死を嘆く聖母を語ることで共苦し、 あるいは死後の栄光を祈念するということを、固有の声を持つ人間と一緒にしていることになる。 ここでもカバーストーリーを仮構するのであれば、なぜアルトが合成音声なのかについてのストーリーが 必要となるに違いない。更にはなぜ人間が機械と共に歌い、共に祈らなくてはならないかについてもまた。

祈りという点では、合奏の相手が「MIDIアコーディオン奏者により合成される人工音声」である場合と、 Thinking Machine/Singing Machineのような機械の場合との差異は無視できない。更にまた、私はここで 「奏者により合成される人工音声」と言い、「MIDIアコーディオン奏者」とは言わないが、 それは実現された音響が、音色の推移としてではなく、「言葉」として聞こえてしまうという点に拠っている。 岡野さんが演奏しているのが、決してMIDIアコーディオンという楽器ではないのは、結果として聴き手がそこに、 楽器の音色ではなく、人の声を聴き取ってしまうという事実によるのである。だがそうだとして、もう一歩進んで、 それは「誰」の声なのか?ここでフォルマント兄弟が採用している音声合成の方式が問題になる。 誰かの声のサンプリングの再生ではなく、その場でフォルマント合成されるその声は、誰の声でもないが故に、 岡野さんは、例えば別に存在する誰かを再現しているわけでもないのだ。 そして、ことそれが祈りの言葉、数百年前に人間の修道士によって書かれた祈りの言葉であるとき、 「祈りの主体」と「祈りの対象」の問題を浮かび上がらせるように思えるのである。

更にここで、MIDIアコーディオンによる人工歌唱の特質であるリアルタイム性がPray/Playの行為遂行性に とって決定的な役割を果す。ヴォーカロイドのように予め入力した設定に従って歌を「再生」し、 人格を「再生」するのではなく、人力を介して、その場でリアルタイムに歌唱は行われるのである。 中音(なかね)マリアという声格(人格のアナロジーであろう)が設定されているのはヴォーカロイドと同様であっても、 ここでは岡野さんの超絶技巧により中音マリアが「出現」するという点で「演奏」の様相は全く異なっている。 強いて類比を試みるならば、状況は人形浄瑠璃における人形遣いと人形の関係に近い。

ところで人形に人形遣いが「息を吹き込む」(ここで「息」は「生命」の比喩として用いられていることに留意しよう)ように、 「楽器」に「息を吹き込む」ようにして擬似的な人格を与え、宿っている魂を賦活するという考えに対して、 「スターバト・マーテル」が属する西欧での伝統もまた、全く無縁というわけではない。例えばバロック期以前の klangredeの伝統を思い起こしてみれば良く、例えばアーノンクールが日本でモーツァルトの交響曲のアンダンテか何かで 公開のレクチャー=プローベを行った際、実際に喩えとして、器楽パートの対話にマリオネット劇場を用いていたという 話を思い出す。ここでは向きは逆であるものの、楽器での模倣のイメージとして、人間の役者ではなく、あえて 人形の所作が用いられている点が注目される。

だがそれはあくまでも世俗的な状況の描写であり、宗教的な「祈り」ではない。そういう意味ではここでの状況により 相応しいのは、やはり例えば日本における人形遣いの伝統、神事において相撲をとったり、「三番叟」を奉納したりする 日本の人形の伝統であろうし、それらを踏まえ信仰の側を仮構した「またりさま人形」のような三輪さんのこれまでの 試みであろう。しかもここでは「祈り」という行為の主体として、「声」という人間固有のもの、人格や個性と 結びつくものを仮構することが問題になっているのである。誰のものでもない仮構された「声」による祈りについては、、 人間を媒体とした憑依による「他者の声」による「告げ」のようなものとの関係を問うべきなのかも知れない。 そしてその「他者」は、「降霊術」や「口寄せ」のような、ある特定の既知の人格の呼び出しではなく、 未知の人格の出現なのである。 だが、もう一度、西欧の伝統の基盤の一つであるヘブライズムの伝統においても、そもそも人間は神が塵に息を 吹き込んで創造したものとされたのではなかったか。そして人造人間ゴーレムの伝説は、そうした発想に直接 繋がるものであることを思い起こしてみても良いだろう。


それにしても、西欧の宗教音楽、日本語ではなくラテン語の詩を持つ作品を、人工音声に歌唱させることを、 日本において行う意義は何かという問いが立てうるかも知れない。

勿論ここにはまずもって技術的な挑戦といった側面があって、 2013年に制定されたMIDIアコーディオンによる人工歌唱のための「兄弟式国際ボタン音素変換標準規格」の 「国際」という名に相応する多言語への拡張の試みである点がまず指摘されねばならない。そしてそれは単に 日本語音素とは異なったラテン語の音素に対応することだけではなく、「高音キン」という声格が仮想的に 体現するものとされた日本の伝統的な歌謡の発声法や歌唱法とは異なった伝統を持つ、西欧のクラシック音楽に おける発声法や歌唱法への対応をも含んでいるのである。

更に、そうした人工音声の実現における技術的な側面をおいても、ラテン語の歌が(特にそれが21世紀の日本で 歌われたとき)どの程度、「言葉」として聴き手である人間に認知されるのか、その言葉の「意味」が認識されるのか、 という、これは合成音声が介在しなくても存在する、西欧音楽受容における問題に触れる面もあるだろう。 翻訳の(不)可能性の問題やら、母語でない言葉で歌を歌うこと、聴くこと、いわゆる(かつての日本人歌手の) 「カタカナ発音」の問題もあるだろう。西欧においても日常生活では最早用いられなくなっている、 ラテン語という言語の発音の規範の問題も射程に含まれうるだろうし、もう一度日本の伝統に折り返して、 そもそも制度上「国語」としての発音の規範がある筈の日本語の場合においてすら、特にフォルマント合成を ベースにした場合は尚更に、人工音声合成の現場において問題が存在しないというわけでは 決してないことにも目を向けるべきなのかも知れない。

だが何といっても重要なのは、「祈り」において、 言葉の「意味」を伝達することが問題なのではなく、呪文を唱えることが典型的にそうであるように、 言葉を声に発するという行為が、何かに対して作用して効果をもたらすことが問題なのだという側面だろう。 ずっと時代を遡って、隠れキリシタンの「オランショ」が「意味」が脱落した 「呪文」のごときものと化してしまったことを思い起こしてみても良いかも知れない。だがそもそも、 神道の祝詞や仏教におけるマントラ、いや仏典の中国語訳を音読するという「お経」だって、 「意味」が脱落した「呪文」のごときものではなかったか。ここでもまた西欧のカトリック圏における ラテン語が祈りの言葉としてもっていた地位と引き比べてみるべきなのかも知れない。 いずれにせよ「祈り」においては、言葉の意味の伝達ではなく、だが単なる叫びや呻りと いった感情や情緒の表現でもなく、まさに意味を持った言葉を唱え、歌うことが持つ効果が問題なのであることを、 フォルマント兄弟の試みは鮮明に浮かび上がらせているように思われる。


他方、Stabat Materという西欧の既成の宗教的伝統に根ざし、西欧音楽の伝統に根差した作品を、 従来は専ら日本語による都々逸や山唄といった日本の伝統芸能を対象としてきた人工歌唱の対象として 取り上げるのは、極東の架空の島の歌から逆シミュレーション音楽に至った後、 三輪さんが提唱した新調性主義のコンセプトのうち、西欧音楽の伝統を意識した部分と 並行するところがあるように思える。

それに関連して注意しておきたいのはフォルマント兄弟によるこの演奏の紹介の文章で、そこには 「ソプラノ、さかいれいしう(人間)とラテン的声格のアルト、中音(なかね)マリア(人工音声)の 二重唱による18世紀珠玉の名曲。聖母の如く音楽に跪きその死を悼む「初演」である。」と記されているのである。

一読してひっかかるのは、「その死を悼む」の「その」が一体何に係っているのかという点だろう。普通に読めば 直前の「音楽」を指しているように読めるが、もしそうだとして、今度は「音楽」とは、更に前の部分で出てくる 「18世紀珠玉の名曲」=ペルゴレージの作品のことなのか、それともそれに代表される「音楽」一般のことなのかの 可能性があるだろう。意図的にその辺を曖昧にした文章が用意されているわけだが、まずはその解釈の如何によらず、 現時点で既に喪われてしまっているものを、喪われたことを前提に悼むことは可能であり、 そしてそうした「不在の対象」「幽霊的な対象」への行為の遂行によってのみ可能になる何かがあることが 告げられているのは確かだろう。

だが、更に別の読みの可能性はないものだろうか? 普通には、作曲者ペルゴレージの死を悼むというのならこれは自然に見えるが、でもこの文脈ではそれが 当たり前というわけでは到底ない。まずは25歳で夭逝した作曲者の遺作という背景知識があればのことで、 そうでもなければ、そもそも作曲者を悼むというのは、アニヴァーサリーとか、命日(3月17日ということで、 奇しくも割と近くではあるが)とかといった文脈なしには、作品演奏の「目的」として普通ではないわけである。 あるいは更に深読みをして、Stabat Materは聖母がイエスの死を悼む内容だから「その」はイエスだ、 という可能性もあるかも知れない。だがここでも「記念日」「暦」に拘るならば、前述のとおり、 カトリックの教会暦ではStabat Materがsequentiaとして用いられる Septem Dolorum Beatae Mariae Virginisは9月15日である。

かくして結局のところ、最初に述べた、直近の「音楽」の「死を悼む」というストレートな解釈が妥当であるとして、 その上でなぜStabat Materを歌うことが追悼という行為になりうるのかを問うならば、作曲者ペルゴレージの 西欧音楽史上の位置づけを振り返り、Stabat Materという作品の西欧音楽における位置づけを確認してみる必要があろう。


ペルゴレージの作品は丁度バロックと古典期の端境にあり、先駆的な古典派の作曲家に分類されても おかしくない様式を備えていて、例えば古代ギリシアの「エトス」(Ethos)論、バロック期の「情緒説」(Affektenlehre)といった 伝統と、平均律以前の調律法を踏まえた調性格論(Tonartencharakteristik)は健在である。 「スターバト・マーテル」も その作品の内容に相応しく、死者の葬送・追悼や、死についての瞑想、 Memento moriの調性であるヘ短調が主調であり、ここで演奏された第1曲Stabat Mater dolorosaは そのヘ短調で作曲されている。例えば良く知られた古典期の調性格論であるC.F.D.シューバルトの『音楽美学の理念』 (C.F.D.Schubart, Ideen zu einer Ästhetik der Tonkunst, 1806、ただし調性格論の箇所が実際に執筆されたのは18世紀末の 1780年代とのこと)所収の説では、ヘ短調は「深い憂鬱、死の嘆き、悲惨な呻き声、埋葬への憧憬」 (tiefe Schwermuth, Leichenklage, Jammergeächz, und grabverlangende Sehnsucht)、もう一つだけ例を挙げれば、 ペルゴレージと同時代のマッテゾンのそれ(Johann Mattheson, Das neu-eröffnete Orchestre, 1713)では、 「穏やかで平静、深く重苦しい、絶望的、死ぬほどの心の不安、暗く救いようのないメランコリー、恐怖心、戦慄」とされていて 一見取り止めがなさそうであるが、五度圏の中の位置関係による相対的な性格付けには一定の傾向が存在するし、 それは何よりもペルゴレージのStabat Mater自体を聴く事でより明確になるものであり、第2曲目以降、調性は ハ短調、ト短調、変ホ長調、ハ短調、ヘ短調、 ハ短調、ト短調、変ホ長調、ト短調、変ロ長調、ヘ短調という遍歴を経ていって、 その過程は光の寒暖(といっても実際には一貫して、どちらかといえば暖色系の色彩の中での コントラストなのだが) や明暗の変化となって「見えて」くるように作曲されているのである。

一方でこの作品は、一般にはそうした様式的な特性ゆえに、宗教曲としてあまりに甘美過ぎるという批判を長く受けてきた歴史がある。 その後の 西欧音楽は、大規模な演奏会用音楽であるレクイエムやミサ曲の傑作を幾つも手にすることになるが、音楽史上は 寧ろオペラ・ブッファの先駆となった幕間劇(インテルメッツォ)「奥様女中」の作曲者として有名であるからというわけではなく、 この作品は恐らくそうした典礼目的の作品から逸脱していく傾向の潜在的な嚆矢となるような側面を内在させているのは間違いない。

だが、他の先行する音楽が劇場での演奏を想定したもので あったとしても、 あるいはこの作品が(同じ編成のスカルラッティの同じ曲に替わるものとして)修道会から 委嘱されたものであったという事実を考慮しても、そうした事実関係のみでは、 作品が己の裡に内在させている傾向性を測ることはできない。 音楽が(教会音楽も含めて)「人間」(これは西欧的な伝統における概念としてのそれを指す) のものであるとしたならば、この作品こそ、他の後続するあらゆる作品に優って そうであるという印象を受けるのである。 同時代の、だが自身はより保守的な様式の作曲家であったJ.S.バッハがこの作品に目を留めていて、 ドイツ語の歌詞への付け替えを行ったものが残っていることは良く知られている(詩編51番のドイツ語歌詞による 、モテット「我が罪を拭い去りたまえ、いと高き神よ(Tilge, Höchster, meine Sünden)」BWV1083)し、 時代を遥かに下ってストラヴィンスキーが新古典主義に向かうにあたり、偽作も含めた「ペルゴレージ」の様式に 範を求めたこと(「プルチネルラ」)も良く知られているが、そうした消息もまた、この作品が時代に還元しようとする 議論を遥かに凌駕する独自の個性と普遍性とを兼ね備えていて、ここでフォルマント兄弟によって採り上げられることによって、 300年の歳月を経ても滅びることがないどころか、ますます輝きを増すかにさえ見えるのである。

それは、この作品と、この作品が代表する時代とともに何かが終ってしまい、その後の西欧音楽史というのが、 長く、そして華やかではあっても、その後はその死に向かう緩慢なプロセスそのものではなかったかということを 感じさせることはないだろうか、例えばもう少し先のベートーヴェンの晩年のミサ・ソレムニスが最早或る種の回顧でしかなく、 単に時代の嗜好からすると反動的な様式を用いているという以上に、作品に刻印された「音楽」への向き合い方の結果として、 恰も廃墟のような印象を与えるのを見る時、ペルゴレージの「スターバト・マーテル」はそうした身振りからは (もしかしたら、これ一度限り奇跡的に)自由でありながら、超越的なものとの関わりを保っていることに気付かざるをえない。 (今ひとつの例外になったかも知れないモーツァルトのレクイエムが遂に完成されることがなかったということは、 偶然とは言え、まさにここでの展望に相応しいことのように思われる。)

「聖母の如く音楽に跪きその死を悼む」というのは、従って、そうした音楽の在り方が最早その後不可能になったという 認識を告げる言葉なのかも知れないのである。冒頭に指摘した、演奏を記録したYoutubeの映像のタイトルが Pr(l)aying voice / Stabat Materであるというのは、演奏が祈りの形でありえたような音楽の在り方が、その後、 第一義的には演奏でしかなくなってしまったこと、そして今や、再び演奏が第一義的に祈りであろうとすれば、 誰のものではない幽霊的な声を獲得するために、人工音声合成による「声」が必要であり、 そのためにはあたかも人形に息を吹き込む人形遣いのように、MIDIアコーディオンを 操作するといった迂路を経なくてはならないのだ、という認識を告げているのではなかろうか。

ピリオドスタイルの演奏が すっかり一般的になった今日、この作品においてもまた、一般的であるソプラノとアルトの女声による重唱を 弦楽合奏が伴奏するという演奏スタイルは、しばしばその後の受容が齎した歪みの結果であり、 作品の「真の姿」を伝えていないという批判がしばしば行われ、勿論、作品が元々置かれていた文脈を再現する作業の 持つ意義を否定するわけではないが、それがその後、この作品が数百年の時間を通して生き延び、今後も生きていくという 過程を蔑ろにするものであってはならず、だが、そうした作品の今後の生命を考えるとき、寧ろここでのフォルマント兄弟の試みのような 方向こそが、「祈り」としての「演奏」という本来の姿を継承するに適切なのではないかとさえ感じられるのである。


勿論、そうした例外がこの作品において起きたことについては、より個別的な状況が関わっているという事情があるのかも知れない。 この作品は、300年近くも昔の異郷の地で、26歳で己の生涯の終焉に立ち向かわざるをえなかった1人の人間、ただし稀有な才能を授かった 天才である1人の人間が、苛酷な運命に曝されつつ、だがその才能によってその運命の過酷さを未来の人々の記憶に刻印し、 まさにそうすることのできる能力の持つ無限への飛翔を記録した作品なのである。

音楽の力はヴァーチャルなものに過ぎず、その音楽が鳴り響くちっぽけな脳の中にその座があり、通常魂と呼ばれているもの以外の 何かを変えるわけではないけれど、無限に向けて歩む人間が遺した音楽は、繰り返し演奏され、演奏が記録されることによって転移し、 伝播を繰り返すことによって、作品にとっては絶対的な過去であり、作品自体がそれの痕跡であるところの或る出来事が生起した場としての 魂を指し示すとともに、別の魂における、そうした出来事の生起への誘いとなるのではなかろうか。

その時、魂は生きているのでもない、死んでいるのでもない、幽霊的な 在り方で私に向かって呼び掛けてくるのだ。 それは例え私にその能力がなくても、 他の誰かが為し能うであろう無限への飛翔がかつて生起したという事実の証拠であり、 かつ今後生じるであろうことの預言でもある。300年の年月を経て、その音楽がフォルマント兄弟の手によって、 機械に歌唱させることによって本質的に幽霊的な声を獲得するという状況は、超越的なもの(の不在)に対する「祈り」における主体の在り方、 そしてそこでの音楽と人間の「個性」と呼ばれているものの関係を浮かびあがらせる試みであるように思われるのである。


より技術的な可能性に範囲を限定し、「声格」という概念に限っても、それがどのように定義されるかという 問題は様々な問題を孕んでいるように思われる。

まず、声のモデルの問題がある。多くの場合音声合成は、サンプリングしたモデルの声をベースとして 行われ、ヴォーカロイドの場合はしばしば誰の「コピー」であるということが話題になったりもするようだが、 フォルマント合成による音声合成の場合でも、基本となる声については何等かのサンプルをいわば 「モデル」としてそれを加工して作成するから、やはり特定の誰かの声に意図的に似せることは可能であり、 実際にフォルマント兄弟の過去の試みの中でも、フレディ・マーキュリーに似せた声に日本語の歌唱を させるというものがあった。

だが、フォルマント合成を敢えて行う方式を採る意義を考えると、 サンプルはあくまでも出発点である素材に過ぎず、フォルマント合成された声はサンプリングされた特定の 「誰か」の声そのものであるわけではなく、やはり「誰のものでもない声」になる点が重要であろう。 中音マリアの場合であれば、一聴して感じ取れるように、ソプラノを担当しているさかいれいしうさんの声が ベースになっているようであるが、それはれいしうさんのコピーであるわけではなく、れいしうさんの声に似た 別の「声格」であるとするのが適切であろう。

そもそも声格というのは人格のアナロジーではあるけれど、それは両者に一対一の対応が存在することを意味しない。 寧ろ声格の観点から見れば単一の人格が多くの声格と対応することだって考えうるのである。 実は私は当初、「高音キン」と「中音ギン」の重唱をイメージしていたのだが、実際には「中音マリア」は 「中音ギン」ではなく、西欧クラシック音楽の発声法固有の声質を備えた別の「声格」なのである。

ところでそのようにして実装された「中音マリア」の「声格」とMIDIアコーディオンの関係を考えると、それは 所詮はハードウェアにデータとしてロードするという形をとるわけで、ある特定の物理的なMIDIアコーディオン固有 (つまり物理的構造に基づいた)の「声」であるわけではないことに気付く。逆にそのことは、例えば MIDIアコーディオンを何台か用意して、同じ「声」をセットして、重唱させるといったことを可能にするのである。 実際には楽器一台一台の癖のようなものも厳密には問題になりうるだろうが、その程度は、 楽器の物理的な構造と、音色の質が直接的に結びついている場合に比べて問題になりえないくらい 小さいものになるということだ。

さしずめ人間なら、近年は割と行われる「多重録音」による一人芸が思い浮かぶところだが、 MIDIアコーディオンはいわば人形であって、人間ではなく、人形遣いにあたる人間たる 奏者が必要で、これは複数の楽器を一人で同時にというのは岡野さんでも不可能であろう。 (もちろん、この場合も多重録音でなら可能なわけだが。) 従って、今度は「声格」と奏者の間の関係を問うたときには、同じ声を複数の奏者が共有する ということが起きるわけである。

かくしてここでは、声格とそのモデル、MIDIアコーディオン、奏者の間の関係は、通常は自明のものとして 同一視されるものを分離し、唯一のものであるものがコピー可能であるといった状況を呈することになる。 一般に声質というのは人格と結びつき、「声紋」というのがあるように、個人を同定するために用いられる ことすらあるが、他方で同じ岡野さんでも、フレディ・マーキュリーがインプリメントされたキーボードを弾けば、 それは明らかに異なる「声格」なのは明らかであろうし、日本語の民謡の歌唱用に構成された「高音キン」ともまた異なるのである。

一方で「中音マリア」の場合でも、同じなのは基本の「声」質に過ぎず、微妙な調音の癖とかは、 人形に「息を吹き込む」人形遣い次第なわけで、だから、どこまで「同じ」声なのか自体が自明ではない という見方も可能で、従ってここでいう「声格」というのは、岡野さんを含むのか、含まないのかが問題になろう。

だが一旦、作業仮説としてであれ、「声格」を解剖学的な特性、人形でいえば物理的な人形それ自体を指すものと 限定し、人形遣いから影響を受ける部分は「歌い方のクセ」として別のものと考えたらどうであろう。 実際に「声」を発するためには、霊媒師たる人形遣いの力が必要であるとはいえ、「声格」そのものは コピーして複数のアコーディオンに「憑依」しうるようなものなのである。 するとここでもう一度、「降霊術」や「口寄せ」における「霊媒」(メディア)とそれに憑依する「霊魂」の関係が、 今度はここでのMIDIアコーディオンという「媒体」(メディア)と「声格」の関係と並行したものとして 浮かび上がってくる。

そしてそうした「憑依」による「幽霊」的な「声格」の「出現」が可能になるのが デジタル・コンピュータのテクノロジーに因っている点に留意すべきだろう。 ここでは解剖学的な特性がアナログではなく、デジタルな情報として、いわばシミュレートされているからこそコピーが 可能になるのであり、かつまたこの点において人工音声による「声格」は、 一見したところ類比が可能なように見える、ストラディヴァリウスやグヮルネリのような歴史的なヴァイオリンの名品が持つとされる、 個別の楽器の備えている物理的な特性に基づく固有の音色とは異なっていることが明らかになるのである。


最後に祈りの主体と対象の問題に戻ることにしよう。 勿論、こうした問いに対して答えが全て用意されていよう筈はなく、だがこうした問いを呼び起こす類の力を 今回の試みが備えているのだということをここでは指摘するに留めて後日を期することとし、 ここでは最後に、この演奏の試みが私個人に対して現実にもった意義について証言することで、 私が遭遇した「出来事」、可能であれば今後も繰り返されるであろう実演のいずれかの機会に立ち会いたいとは 思うものの、今のところは初演には立ち会うことができず、遅れて、離れたところから、Youtubeでの視聴による 確認しかできなくてもなお、私にとって「出来事」に外ならないこの演奏に接したの「経験」の証言としたい。 それは図らずも、「証言する」ことについての「証言」なのであるが。

「祈り」という行為は、第一義的には祈る主体と祈る対象の間の私的な関係として捉えることができるだろう。 主体と対象のみならず、いわゆるコミュニケーションの理論(ただしそれが「祈り」において有効かどうかは、既に上で示唆した通り、 自明ではないが)では「内容」とされる面も含めて、一般に、祈りとはなんなのかを考えたとき、「神の死」以後を生きる我々にとって、 (社会的な次元も含めて)自分(たち)が仮構した超越的な虚像に対して語るというのは結局は「独り言」の一種に過ぎないと 言い切ってしまえるものなのか? それはニヒリズム(例えばニーチェ)が批判するように、人間の弱さの顕れに過ぎないとして、乗り越えられるべきものなのか? ジュリアン・ジェインズの意識の考古学が示すように、意識の構造の変容の結果、神は「隠れたる神」となり、 もはや神との通信は不可能になってしまったのか? だが、にも拘らず、日常的にあまり反省することなく、今尚しているに違いない、もっと特定の具体的な他者への語りかけや、 他者の「幽霊」への(これも所詮は独り言的な)語りかけとの関係はどうなのだろうか?

怯懦な人間が生きていくために仮構した虚像であり、必要悪なのか?例えば鳥は祈らないだろうか?イルカやクジラはどうか? 更には、三輪さんが「感情礼賛」において仮想した意識形態の変容後の未来においては、あるいはカーツワイルの技術的 特異点の向こう側においては、「祈り」は依然として存続しうるのか、存続するとしたらどのようなものとしてなのか?

この点について、三輪さんの活動の文脈でまず思い起こすべきは、Lux aeternaにおける祈りの不可能性の認識であろう。 そこで示されたのは、祈りが不可能であるという認識の下で、主体的な祈りが不可能な状況でこそ祈りが可能になるという逆説的な 構造であった。だが祈りの対象は、(ペルゴレージの没後、フランス革命が起こり、ニーチェが神の死を 宣言し、進化論と唯物論が優位になるという過程において寧ろより一層明確になったいう見方さえ可能ではないかと思うのだが、) 西欧の伝統においても、否、一見して超越性に欠けているかに見える日本においても「祈り」の構造においては常に、 「隠れたる神」ではなかったか?「祈り」は常に対象に届かないという可能性においてしか「祈り」ではなく、 そして「祈り」においては、祈る主体の側もまた、自己超越の構造の裡で端的に「非在」となるのではないか?


同じ構造は、例えば「真実を証言する」ことが求められる場面においても顕れるのではなかろうか?

そこではメモ等の補助記憶媒体を一切利用することは許されない。「真実」を証言するという観点からして、 記憶違いや認識のずれの危険は常にあり得ることでであるにもかかわらず、建前として、 自分の固有の記憶に基づいて証言することを求められるのだ。ここでは真実から 記憶違いにより遠ざかる危険よりも、補綴性なしの無媒介な固有の声による証言が優先されるかに見える。

その一方で、「真実の証言」が求められる場は常に既に、真実についての争いのある場でもあり、 それゆえ聴き手各々が避け難く持たざるを得ない主観的な展望によって、意図的に歪めて聴き取られて しまうことが避けられない。 だからといって「沈黙が金」かというと、決してそうであるわけではなく、語らないことすら意味を付与されてしまう。 覚えてませんを連発すれば、証人としての価値は下がることになる。 また、特に反対尋問においては、できるだけ答えにくい質問をして、そこでの言いよどみやちょっとした言い回しを 取り立てて、嘘をついているのではないかといった言いがかりをつけ、その証言が事実認定には役に立たないと 言われたりもするのである。

逆に、主尋問においても、自分の側にできるだけ有利になるように、記憶を整理し、回答の仕方も検討し、といった 準備をあらかじめ行うのが一般的だろう。必ずしも、自分が本当に感じたまま、思ったままを自由に証言するわけではなく、 証人という立場に沿った発言を求められるのだ。逆説的なことだが、反対尋問の方が、質問が予測 できない分だけ、証言者の自己の裁量によるものが大きいという見方さえできる。ただし、相手方はその 証言を素直に解釈してくれはしないし、今度はできるだけ相手方に有利になるように解釈するのだが。

ソクラテスの裁判が行われた時代の アテネを席巻していたソフィストたちの立場、即ち、人間が万物の尺度であって、認識は相対的であり、 言い合いで真実が決まるというそれ、私が真実だと思っているのは、私にとってそうであるにすぎず、 しかもすべて人間の認識はそうであって、超越的な真理はないという立場を彷彿とさせる。

勿論、完全な認識の相対性の立場に立っているわけではなく、「真実」があり、だからこそ 「虚偽」の陳述がありえ、信用できるかどうかの判定がされるわけであり、また、理性的な主体という 「理念的」想定があって、理論上は正しい記憶によって真実を証言することが可能であるというのが前提と なっている。ところが今度は、こちらは現実にはその建前は、ほとんどの場合には成り立たない。 人間は理性的存在者としてあまりに不完全なのだ。

更には「嘘」をつくことは許されないがゆえに、証言の前には宣誓が求められる。 宣誓書の文面は予め用意されているのだが、これを「声に出して読み上げる」という行為の遂行によって 虚偽の証言をしないという誓いを立てたことになるのである。 つまり証言の場においては、無言・無声は許されず、記憶の補綴もまた許されないのである。 (ところでここでは音声合成はどうなるのか?おそらく先例がないことはないだろうから調べれば わかることだろうが、多分、声を奪われた本人が「奏者」であれば認められるのではないだろうか。)

虚偽は禁じられ、補綴なしに自分の記憶に従い、自分の声で真実を語ることを求められつつも、 同時に、自分の言葉でありのままを語るのではなく、証人としての立場に即した発言が暗黙裡に 要求されるという意味で「固有の声」が奪われた状況に置かれている者にとっては、 「固有の声」を持たない祈りというのが、一種象徴的というか、寓意的なものに感じられる。

一方において一切の補綴性に依存しない「固有の声」というのが、 実はある種の極限概念、理念のごときものに過ぎないという、不完全性に苛まれつつ、他方では、 それとは別に「固有の声」で語ることが許されず、「固有の声」を聴きとってもらえないという状況がある。 最も内面的で、「私」に密着したと思われる行為が、ある種の媒介を通じてしか可能でない。 その一方で、祈りの中で、個別的で刹那的な「私」は消え去って、ある「匿名の声」が響き渡ることこそ、 本当の祈りなのではないか、という考えにたったら?何のために、誰が祈るのか?その祈りを聴くのは誰なのか?

個人を超えた「真実の証言」では、私「固有の声」が禁じられる一方で、 本当の思い、言葉にできない、自分の言葉では語りつくせない思いというのは、あるいは神話のようなかたちで、別の人格なり 声格に託してこそ、より正確に伝えうるのではないか、不完全な私の私的な経験よりも、私性を滅却した 物語こそ、寧ろ正しく状況を証言しているのではないか、ある種のフィクションの仮構によってしか伝えられない ものがあるのではないか、ということに私は思い至った。いろいろな理由で、正しく、適切に語ることが できない者にとって、それが最後の拠り所になるのではないか。


そうした状況においては、「私のことは誰かが祈ってくれている」ということが、一つの鍵になっているのでは、 と私は感じている。これはドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャの言葉であり(そこではまさに「法廷」の場で 真実を証言することが求められ、だが誤審が為されるのだが)、ジッドの「田園交響楽」の末尾の(否定的な)祈りの(不可能性)の 場面(だがそこではまさに「私のことは誰かが祈ってくれている」筈なのだという点にこの作品が示す状況の深刻さが現れている) とも関連があり、更に言えば、カフカの「審判」の結末の処刑される直前のところでK.が見た、自分を救ってくれるかも しれない人の姿とも多分関連しているに違いないことにも思い当たる。それは(物語の中の)現実では出現せず、K.は生き延びることが できないのだが、もし「希望」というものが可能であるとすれば、それは私という場においては不在のものとして、幽霊的な 「誰でもないものの声」によってでしかないのではないだろうか?

既に三輪さんのLux aeternaは神に対してではなく、「機械」に対してのものであった。もしそうであるならもう一度、 このStabat Materの演奏において祈りの主体は誰で、祈りの対象は何なのか?ツェランのあの余りに名高い、祈りの対象の不在=不在の対象への祈りたる 「誰でもないものの薔薇」(Niemandsrose)は、果してここでの祈りの主体の不在、非在の「誰でもないものの声」への祈りでもなかったか?

「誰でもないものの声」こそが、私を可能にするのではないのか?

Niemand knetet uns wieder aus Erde und Lehm,
niemand bespricht unsern Staub.
Niemand.

Gelobt seist du, Niemand.
Dir zulieb wollen
wir blühn.
Dir
entgegen.

Ein Nichts
waren wir, sind wir, werden
wir bleiben, blühnend:
die Nichts-, die
Niemandsrose.
(…)

aus : Paul Celan, "Psalm"

(2015.5.4初稿, 8,9加筆修正, 9.12加筆修正, 2024.9.1 noteにて公開)

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